第115話

 世界がスローモーションになった。


 音すらも灯湖の耳には聞こえていなかった。


 ペイントエリアを固く守るディフェンスが、灯湖を阻むために向かってくる。

 しかし灯湖の目にははっきりとその挙動が見えていた。


 相手の歩幅、腕の動き、表情。

 自分が何をすべきか、灯湖は瞬時に判断する。


(このまま突っ込んでも駄目だ……ブロックされるかオフェンスファウルをとられる)


 勢いに任せてドライブしてしまったため、ここからストップ&ジャンプシュートに切り替えるのは困難だった。

 ならばと、灯湖は足を踏ん張りできるだけ前方への勢いを殺し、上に跳んだ。


 灯湖がとった行動は、ブロックをかわすために上にふわっと撃ち出すフローターシュート。

 しかし今ボールを持っているのは右手だ。

 左利きの灯湖にとって、右手でのフローターは成功率が低い。


 それでも撃つしかない、そう思ったときだった。


 ――灯湖!!


 コマ撮りのように進む無音の世界。

 そのはずなのに、声が聴こえた気がした。

 そしてそれは、自分の右側から聴こえてきたような。


 とっさにそちらを見ようとするが、首が動かない。

 同時に右目の端から黒いもやが広がり、灯湖を包み込もうと揺らめく。


(恐い……!)


 やはり同じだった。

 灯湖にはどうしてもそちらを見ることができない。

 そちらを見てしまったら、そのまま暗闇に引きずり込まれてしまうのでは。

 そんなイメージが頭から離れない。


(すまない皆。ごめん、晶。やはり私は……)


 灯湖は思わず諦めかけた。しかし。


「灯湖!!!!」


 今度ははっきりと聴こえた自分を呼ぶ声に、灯湖はハッとした。

 自分が一番信じられる、そして、自分を一番信じてくれる、大親友の、少し低い叫び声。


 黒い靄が風に吹き払われるように消えていく。

 そして声がした方から、太陽のようなあたたかい光が射し込む。


 つられるように、灯湖はそちらに顔を向けた。

 晶が体勢を低くして両手を胸の前で開いてこちらに向けている。

 その目は灯湖の目を真っ直ぐ射抜いていた。


 ――何度だって呼ぶよ。灯湖の名前。灯湖からパスが来るまで、何度でも!


(あぁ……聴こえたよ、晶の声……)


 その瞬間、ゆっくりだった時間が動き出す。


「晶!!」


 灯湖はシュートを撃つ姿勢から一変、右腕を払うようにして晶に向かってパスを出した。





 灯湖が自分の名前を呼び、ボールが向かってきた瞬間に、晶は気持ちがこれまでにないほど昂るのを感じた。


 あれほどまで過去を恐れ引きずっていた灯湖が、とうとうこちらをしっかりと見て、パスを出した。

 それだけで涙が出そうなほど嬉しいことだ。

 しかしまだ終わりではない。


(灯湖がトラウマを克服しました。はい良かったね……。それだけじゃダメなんだ!)


 灯湖から放たれたパスを、晶は両手で大事に包み込み、視線を上げてゴールリングを睨む。

 灯湖がディフェンスを引き付けてくれていたおかげで、シュートチェックに来られるまでにはかなり余裕がある。


(あたしはこれを決めなきゃならない! 灯湖がこれからも全力でプレーできるように!)


 灯湖が抱えていた闇はトラウマ以外にもう一つある。

 それは自分と周りとの実力差。

 トラウマを克服できても、周りが下手なら中学の頃と同じだ。

 灯湖は全力でプレーできず、結局のところ昔とあまり変わらない。


(灯湖がこれからも信頼してパスを出してくれるように……!)


 灯湖がトラウマを克服してから最初のパス。

 これは絶対に決めなくてはならない特別なパスだ。

 これを決めて、灯湖には「自分が無理をしなくても、周りに頼れる仲間がいる」と思ってもらわなければならない。


 晶はシュートフォームを作り跳び上がった。

 両手を高く上げ、できるだけ高い軌道でボールを放つ。


(お願い……入って……!)


 歪な斜めの回転で飛んでいくボールに、晶は想いを込める。

 そしてそのボールは、リングの奥に当たり大きく上に跳ねた。

 そして今度は手前に当たり、また跳ねる。


「入れッ!!」


 パスン、と。


 ボールはネットを揺らしながらリングを通過し、床に大きく跳ねた。

 晶のシュートは決まったのだ。


「よし!!」


 晶は思わずガッツポーズし、次いですぐさま灯湖の元に駆け寄る。


 灯湖は安心しているような、驚いているような、今にも泣き出してしまいそうだがそれでいて笑っているという、なんとも言えない表情になっていた。


「灯湖!」


 晶は胸の高さで灯湖に右手を差し出した。

 それを見た灯湖は、さらに顔をくしゃっとさせて、ハイタッチに応じる。


 パンッと乾いた音が響いた。

 ここまで心が通ったハイタッチを灯湖としたのはいつぶりだろうか。


「二人とも! ディフェンスよ、戻りなさい!」


 この余韻にずっと浸っていたかったが、凪の声にハッとする。まだ試合中だ。

 二人は慌てて並走しながらディフェンスに戻る。

 ちらりと横目で灯湖を見ると、同じようにこちらを見ている彼女と目が合った。


 すると灯湖は、少しはにかみながら、にこっと笑って


「ありがとう晶」


 と呟いた。





 その後の灯湖は圧巻だった。

 それまでの不調を清算するようにゴールを重ね、アシストも何度も成功させる。

 しかも右サイドへのキックアウトも普通にやってみせていた。


 三津谷には灯湖を止める術はなく、そのハーフゲームは4点差で勝利、その後のゲームでもすべて栄城が差をつけての勝利となった。

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