第70話
修と汐莉の二人は市ノ瀬家が住まう一軒家へとやってきた。
凪の家の住所は更衣室にいた灯湖から聴きだした。どうやら汐莉は灯湖が凪の家を知っていることを事前に掴んでいたらしい。
お見舞いに行くのに手ぶらは失礼だろうということで、修の右手には手土産のケーキの箱が握られている。
手土産を持っていれば門前払いもしづらいだろうという魂胆もあるのは内緒だ。
「うん、灯湖先輩が言ってた家の特徴にも合うし、表札も市ノ瀬って書いてある。ここで間違いないよ」
「へぇ~……立派な家だなぁ」
市ノ瀬宅はとても大きかった。外壁の塗装も綺麗で、車が二台は入りそうなガレージもあり、庭には芝生が青々と生え揃っている。
「じゃあ行こう」
二人は敷地内に入り、玄関扉の前で立ち止まる。
お互いに顔を見合わせたあと、修がインターホンのボタンを押した。
ピンポーンという音が家の中を響き渡るのが聞こえてきた。
『はい』
少し遅れて女の人の声が返ってきた。凪の声ではないから、恐らく母親だろう。
「こんにちは! あの、凪さんの後輩の永瀬と宮井です。凪さんのお見舞いに来ました」
『凪のお見舞いに……? それは……どうもありがとう。でも実はまだ体調が優れなくて……本当に申し訳ないんだけど、今日はお引き取り願えないかしら?』
凪の体調が悪くないのは先程本人から確認済みだ。凪の母親は嘘をついている。それは恐らく、二人がやってきた意図に気付いて、それを阻止したいからだろう。
どうしたものかと再び二人で顔を見合わせた時だった。
『やめてお母さん。せっかく来てくれたのに、門前払いなんて失礼よ。ちょっと話すくらいいいでしょ』
母親の後ろから話しているのだろうか、かすかに凪の声が聞こえてきた。
すると今度ははっきり聞こえる音量で
『ごめんなさい二人とも。今開けるわ』
と言って通話を切った。
そして間もなく玄関の扉ががちゃりと開き、凪が姿を現した。
先程自分でも言っていたように、かなり元気そうだと見た目から判断できる。
「入って」
促されるまま玄関の敷居を跨ぐ。玄関ホールには凪の母親も立っていた。
笑みを作ってはいるが、どこか不機嫌そうな雰囲気が伝わってくる。
「す、すみません、突然お邪魔して……。これ、つまらないものですが……ご家族で食べてください」
修が手に持っていたケーキの箱をおずおずと差し出す。
少しでもご機嫌とりをしてさっさと追い出されるのだけは避けたいところだ。
「あら……高校生なのにしっかりしてて偉いわね。ありがとう。お茶を入れるわ」
母親がリビングへと引っ込むのを見送ると、凪が階段を上りはじめた。
「こっちよ」
二人は少し緊張した面持ちで凪の後に付いていく。
凪の案内に従って凪の部屋の中に入った。相場がわからないが、高校生一人の部屋にしては広いと修は思った。
全体的にスッキリとしており家具が良く整頓されている。小物の類いは少ないが壁面をずらりと本棚が並んでおり、その中にはもちろんぎっしりと様々な本が詰め込まれていた。
しかしその本棚よりも、修の目を引くものがあった。壁にかけられたコルクボードに写真が所狭しと貼り付けられている。
修は引き寄せられるようにその前に立った。
写真は小・中時代の凪だろう。バスケの試合に出ている姿や、トロフィーや賞状を掲げた集合写真などがある。
そこに写る凪はどれも輝いて見えた。
「それ、あんまり見られると恥ずかしいんだけど」
「す、すみません!」
凪がぶっきらぼうに言うので修は慌てて写真から目を背けた。
「ほら、座って」
凪が小さなテーブルの前にクッションを二つ放り投げた。
二人はお礼を言って座り込む。そして凪は勉強机の椅子に腰かけ、体はこちらに向けず顔だけを向けていた。
「なんで二人して正座なのよ。崩しなさい」
修は指摘されて気付いたが、無意識的に正座になっていたようだ。汐莉も同じだったようで、すぐさま楽な姿勢に座り直す。
緊張しているようだ。少し気恥ずかしくなって軽く目を伏せた。
「まさか本当に来るとは思わなかったわ……。宮井、あんたけっこう強引なやつなのね。意外だったわ」
凪がため息を吐きながら片手で頭を抱える。
「それに関しては……すみません……」
「別に良いわよ。で、用件は何? お見舞いなんて建前なんでしょ」
話が早くて助かる。修は早速本題に入ることにした。
「市ノ瀬先輩が退部するって聴きました。本当なんですか?」
「やっぱりそういう話ね。本当よ。自分で退部届けを書いて提出したわ」
「どうしてなんですか? 理由が知りたいんです。そうじゃないと私たちも納得できません。他の部員の皆も、すごく悲しがってました」
凪が上目でじろりと汐莉を睨む。しかし汐莉も負けじと見つめ返す。
「私たち、凪先輩に辞めて欲しくないんです!」
しばらく睨み合いが続いたあと、汐莉がもう一押しとばかりに強く言い放った。
その言葉に凪は一瞬驚いたような顔をしたあと、観念したように先程よりも大きなため息を吐いた。
「……そうね、あんたたちになら教えても……いいえ、教えるべきなのかもね」
凪が椅子を回して体をこちらに向けた。
「親……というかお母さんとね、揉めてたの。私が三年にもなって部活を続けていることに関して」
修は汐莉と顔を見合わせた。やはり汐莉が立てた予想は正しかったようだ。
「私はなんとか続けたかったけど、お母さんは勉強に集中してほしかったみたい。それなら、私は勉強も部活も両立してしっかりやれるんだってことを示すことができれば、お母さんを黙らせられると考えたのよ。
それで、テスト休みに入ってからも川畑先生に許可を貰って体育館で自主練習をしてたの。それ以外の時間も夜は勉強、朝はランニングで自分を追い込んでいった。で、その結果が一昨日よ。疲労とストレスで体力が落ちていたところにあの高気温。熱中症で倒れちゃったってわけ」
なるほど、だから凪は放課後に偶然体育館で会った時から様子がおかしかったのだ。
ふらついていたのも、あの時点で体力がかなり限界近くまできていたからだろう。
そしてそんな状態でも目からギラギラしたものを感じたのは、母親への反抗心の表れだったのだ。
「確かそれでお母さんが、バスケ部には預けて置けない、市ノ瀬先輩を退部させるって言ったんですよね」
「ええ……。まぁ、お母さんにとっては好都合だったのかもね。辞めさせたいと思っていたところに、辞めさせるためにぴったりな口実ができたんだから」
「凪先輩はそれを受け入れたんですか……?」
「……そうよ」
「そんな……!」
汐莉が泣きそうな顔で抗議の声を上げる。
修も自分の心が痛むのを感じた。どうにかして説得したいと思い口を開くが、なんと言っていいのかわからずそのまま口を閉じるしかできなかった。
「私は自分に課した試練を乗り越えられなかった……。お母さんの言うように、部活も勉強も高いレベルで継続していくなんて無理だったのよ。今回のことでよく理解できたわ」
そう話す凪の表情からはもはや母親への反抗心や、バスケを続けたいという情熱は見られなかった。仕方がないことなのだと、ただ静かに現状を受け入れるしかできないのだと諦めているように薄く笑っている。
「それに練習も休みがちで中途半端にしか部活に出られない私がいつまでも居座っていたら他の皆に迷惑がかかるって気付いたの。今回のこともそう。皆に心配も迷惑もかけて……。だから、ごめんなさい。私、もうこの部を辞めるわ。これ以上皆に迷惑はかけられないもの」
とうとう言ってしまった。凪が自分の口で「辞める」と。
「そ、そんな! 迷惑だなんて思ってません! 私、凪先輩ともっと一緒にバスケがしたいんです! 辞めるなんて言わないで……!」
汐莉が泣く直前の子供のように悲痛な思いを凪にぶつけた。
しかし凪は落ち着いた表情でゆっくりと首を横に振った。
せっかく二人で凪を説得するために乗り込んで来たのに、蓋を開けてみれば修は何も言えずに黙っている。
修は自分の無力さを心底情けなく思った。
しかし無理もないことなのかもしれない。修が凪と出会ってから一月もたっていない。自分では多少仲良くなれたと思ってたいたが、たった数日間の話だ。
修は凪を説得するために必要な絆を育む時間を持てていないのだ。
修は悔しさで奥歯を噛み締めた。
汐莉の方からは微かに鼻をすする音が聞こえる。
「あんたたちが落ち込むことないでしょ。でも、ありがとう。来てくれて嬉しかったわ。
自らの情けなさに消沈していた修だったが、凪が放った言葉を聞き逃さなかった。今、確実に引っかかることを言った。
「『あんたたち
「……そう言ったかしら?」
修の言葉に真顔になった凪が白々しく返す。
「確かにそう言いました。……市ノ瀬先輩、やっぱり心残りがあるんでしょう? 悔いがあるんじゃないですか!」
「……っ、言葉の綾よ、別に他意はないわ」
明らかに先程の態度とは違い動揺しているように見える。
恐らく後輩に見抜かれまいと虚勢を張っていたのだろう。しかし修の指摘で心が揺れている。
今なら凪の本心を暴けるかもしれない。
「悔いがあるなら絶対辞めるべきじゃないです! どうしてそれを隠そうとするんですか!?」
「隠してることなんてない! 悔いなんてないって言ってるでしょ!? あんたに私の何がわかるって言うの!? そ、そもそも、もうバスケなんて飽きたのよ! 昔みたいに好きじゃないし、だから辞めるのに心残りなんてない!」
「それは、嘘です。絶対に」
必死で反論する凪に、修はきっぱりと言い放った。
確かに修が凪と共に過ごした時間はほんのわずかだ。
しかしその嘘だけははっきりと見破ることができる。
「俺が入部してからまだほとんど時間は経ってませんが、市ノ瀬先輩がバスケが好きじゃなくなった、なんてことあり得ないって、わかります」
バスケが嫌いな人間が、ここまで上手くなることなんてできない。
バスケが嫌いな人間が、自分に納得がいかないからといってあんなに激しい自主練習をしたりしない。
バスケが嫌いな人間が、あんなに笑顔でバスケのことを喋ったりしない。
「どうして……どうして嘘をつくんですか!? 市ノ瀬先輩は、バスケが好きなんでしょう!?」
「!! ……私っ、私は……!」
凪が何か言葉を発しようと口を開けるが、そこから凪の声が聞こえることはなかった。
凪は椅子を回してこちらに背を向け勉強机に突っ伏してしまった。
「市ノ瀬先輩、本心を言ってください。このまま市ノ瀬先輩がいなくなるのは嫌なんです」
「凪先輩……」
汐莉も心配そうな目で凪の言葉を待った。
すると少し間を開けて、凪が突っ伏した状態のままでくぐもった声で言った。
「駄目よ……。今さら覆らない。お母さんが許さないわ」
「つまり、市ノ瀬先輩は辞めたくないってことですよね」
「…………」
凪からの反応はない。しかし今の言葉で充分だ。
凪は本心からバスケを辞めたいなどとは思っていない。
「ならお母さんと話をさせてください。俺が市ノ瀬先輩のお母さんを説得します」
凪の気持ちがわかった以上、話すべき相手は凪の母親に変わった。
修は別に説得できる自信があったわけではなかったが、ここまでくれば凪の母親に凪の本心と、自分の気持ちをぶつけてみるしかない。
「無理よ……。お母さんが取り合ってくれるわけないわ」
凪が顔を上げて横目でこちらを見ながら言った。その目は潤んでいるように見える。
「わからないじゃないですか! 今下にいるんですよね? ちょっと行ってきます」
そう言って修が立ち上がった瞬間、部屋の入り口の扉ががちゃりと開いた。
三人は驚いて一斉にそちらに視線を向ける。
「いいでしょう。話があると言うなら聞きます」
そこに立っていたのは凪の母親、瑛子だった。
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