第63話
週が明けて三日目の水曜日。
午前中に三教科のテストを受け終わり、正午には放課となるため、ほとんどの生徒は昼食を食べずに次々教室を後にしていく。
期末テストも残すところ最終日のみとなった。修は三日ともそれなりの手応えを感じていたので、気持ちにも余裕があった。それに明日からは部活動再開だ。
汐莉との自主練習は楽しいし、目の前でどんどん上達していく姿を見るのは自分への刺激にもなる。しかし二人での練習にはやはり限界がある。
それに、個人練習で習得したスキルを試すには実戦に近い形式で実践する必要がある。いくら個人でできるようになった気でも、実戦の中で成功させないと意味がないのだ。
木曜から今日まで、本来部活動に充てられるはずの時間は汐莉との自主練習に費やした。
日曜日以降はさすがにテスト前日、当日ということもあり早めに切り上げてはいるが、汐莉にとっては短時間ながらかなり中身の濃い練習になっているのではないかと思う。
と言うのも汐莉の集中力が凄まじい。修のアドバイスの一言一句、実演の一挙手一投足まですべてを吸収していこうという意識がありありと見られた。
木曜に教えたことに関しては既にほぼモノにしていると言ってもいい。
あまりにも速い上達スピードに、まだ教えるつもりがなかった技も教えることになってしまったことには修自身驚きを隠せなかった。
今日もこの後、いつも通りあのコートで練習する手筈になっていた。
修も周りの皆に倣い帰り支度をして校舎を出た。
(降りそうだな……)
今日の天気は朝から曇りだったが、白っぽかった厚い雲が黒色を帯びた灰色に変わっている。遠くの方からはゴロゴロと雷が鳴っている音も聞こえてきた。
最近こういった天気が続いているが、幸いにも雨が降るのは夕方や夜といった時間帯のため、今のところ練習が中止になったことはなかった。
(けどこれは……。今日は無理そうだな)
帰宅して昼食を食べ終えると、修は休憩がてら縁側に座布団を敷いてあぐらをかき、ぼんやりと空を見上げていた。
いつもならこの後14時頃に集まるのだが、この天気である。
汐莉と先程メッセージのやりとりをしたが、とりあえず様子見ということになっていた。
「雨、降りそうかい?」
振り返ると洗い物を終えた祖母の明子が修と同じように空を見上げていた。
「うん、多分もうすぐ降るよ」
「天気予報でも午後から夜まで激しい雨が降るって言ってたからねぇ。……あ、噂をすれば」
突然庭先に大粒の雨が降り注ぎ、明るい色味だった地面もあっという間に水を吸って濃い色に染められた。
屋根を叩く雨音が思っていた以上に大きい。予報通りの激しい雨だ。
修は汐莉に連絡をとろうと傍らに置いてあったスマホを手に取った。
画面が光っていたので見てみると、汐莉からのメッセージが今しがた届いたようだ。
汐莉も自分と同じように空を見上げていたのだろうか。そんな風に思うとなんだか少し嬉しかった。
メッセージを開いてみると、雨が降ってきたことを嘆く内容だった。
予報通りなら夜まで降り続くだろう。今日は中止にしようと返すと、汐莉は残念がる顔文字とともに同意してくれた。
これで午後はフリーになってしまった。
明子に出掛ける予定がなくなったことを告げ、二階の自室に上がる。
そして一時間程柔軟と筋トレに時間を費やした。
診察を受けた日から毎日、ランニングと共に欠かさず行っていることだ。
汐莉に付き合ってばかりではなく、自分のやるべきこともしっかりとやっていかねばならない。
(今日はこんなもんか)
修はリハビリノートに書き込みを終え、そのまま翌日のテスト勉強を始めようと通学用に使っているエナメルバッグから教科書を取り出そうとした。
(明日は古典と保体と理科総合……あれ?)
古典と理科の教科書、ノートはあった。しかし保健体育の教科書がない。どうやら学校に忘れてきたようだ。
(うわ……マジか。どうしよっかな)
保健体育のテストは教科書さえ読み込んで置けば満点も簡単だと先生が言っていた。しかしこの雨の中取りに戻るのは気が進まない。
主要教科ではないので高得点をとる必要もないと思い、一瞬捨てるという考えもよぎる。
とは言えそんなことで平均点を下げるのも癪なので、修は学校に戻ることにした。
「見っけ」
教科書やノート、参考書でぎっしりの自分のロッカーの中から、修はやや苦労して見つけ出した保健体育の教科書を引っ張り出した。
基本的に教材はすべてこのロッカーに入れてある。いわゆる「置き勉」というスタイルだ。もちろん教師からは推奨されないが、ほとんどの生徒はこのスタイルだろう。
普段は家から学校までいちいち教材を持ち運ぶ必要がないので便利だが、こういう時にこういった弊害が発生するということを知れたのは収穫だ。
修は今後テスト期間はより気をつけていこうと肝に命じた。
目当ての物が手に入り、他に用事のない修は帰宅するために廊下を歩く。
ほとんどの生徒が下校した校舎内はシンと静まり返り、雨音だけがやたら大きく響いていた。
今残っているのは先生と、教室や図書館でテスト勉強をしている少数の生徒くらいだろう。
そう考えるていると、修にとある誘惑がちらついてきた。
(今ならちょっとくらい体育館を使ってもバレないかも……)
他の生徒に体育館に向かう姿を見られることもないだろうし、先生もわざわざ見回りに来たりしないだろう。
最近汐莉の練習に付き合うばかりで、修はモチベーションともフラストレーションとも呼べる感情が湧き上がってきていた。
触るのも女子用の6号球ばかりで感覚が狂ってしまう。体育館に行けば授業で使うための男子用7号球がある。
修は誘惑に負けた。
帰ろうとしていた踵を返し体育館に向かう。
一応誰にも見られないよう辺りを警戒しながら進むが、予想通り誰の姿も見当たらない。
修は好機とばかりに足を早めて体育館に入った。
もしかしたら鍵がかかっているかもとも思ったが、扉は難なく開いて修を迎え入れてくれた。
修は少しの罪悪感を感じながらも、ボールに触りたい欲が勝ってしまい、うずうずしながらフロアの扉を開ける。
すると目に飛び込んできたのは意外な光景だった。
誰かがバスケの練習をしていた。つい最近、これと全く同じことがあったような気がする。
というか登場人物すら全く同じだった。
「市ノ瀬先輩!?」
修が思わず声を上げ、凪はそれに反応して一瞥をくれたが、無視して練習を再開した。
なんだか舌打ちが聞こえたような気がする。
「先輩何してるんですか!?」
修は凪の元に駆け寄って声をかけた。
さすがにこれ以上無視はできないと思ったのか、凪はボールを抱えて修を振り返った。
修はその姿に思わずギョッとしてしまう。
「何って、見ればわかるでしょ……。バスケの、練習よ」
凪は汗だくであり、髪の毛やTシャツが肌に貼り付いていた。さらに息づかいも荒く、軽く練習していただけには見えない。
もしかしたら昼からずっとやっているのだろうか。
左手の薬指にはテーピングが巻いてある。突き指をしたと汐莉が言っていたのを思い出した。
いや、それよりも何より一番目を引くのは凪の目だ。
何か強い意志を秘めていると感じさせる、ギラギラとした両目。しかしその目の下には不釣り合いな黒いくまも見てとれた。纏っているオーラといい、まるで飢えたオオカミのようだと修は思った。
「い、いつからやってるんですか?」
修としては何時からやっているのかという意味で尋ねたのだが、凪から返ってきた答えは少しズレたものだった。
「テスト休み、入った当日から、毎日よ……。もちろん、土日はやってない、けど」
凪は呼吸を整えるために深呼吸を繰り返した。荒かった息が次第に落ち着きを取り戻してくる。
「あんたこそ何しに来たのよ。テスト休み中に勝手に体育館使うのは禁止されてると思うけど?」
意図的か否かは判断できないが、凪はギロリと修を睨み付けて言った。元々鋭いつり目と相まってかなりの迫力がある。
「いや、俺もちょっとボールに触って行こうかなって思って……。てか、それを言うなら先輩だって!」
「私はいいのよ。ちゃんと川畑先生にも許可をとってあるわ」
「ええ!? 俺と宮井さんで頼みに行った時は却下されましたよ!?」
「私は成績優秀だし、素行も良好だから特別に許可をくれたのよ」
凪は自慢するような感じではなく、淡々と事実を述べるように言った。
そう言えば、と修はその時のことを思い出した。二人が職員室に入る前に去っていく凪の姿を見たのだった。
もしかしたらその時に許可を貰ったのかもしれない。
「そんなのアリですか……」
「アリだったみたいね」
凪は素っ気なく言い放った。
(なんだろう……。会話には応じてくれてるけど、どこか不機嫌なようにも感じる)
凪がつんけんしているのは今に始まったことではないが、今はいつも以上に棘を感じる。
「もしかして放課後からずっと一人でやってるんですか?」
「そうよ」
「ってことは三時間近くも!?」
驚く修を凪は怪訝な顔で睨む。
「三時間……? って今何時よ!?」
凪は慌てて時計を見上げる。時刻はそろそろ15時を指そうというところだ。
「ヤバい、予備校行かなきゃ……!」
凪は私物を取りにベンチの方へ走り出そうとした。その時だった。
一歩目を踏み出したかと思えば右側に大きくよろめき、そのまま激しく転倒してしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
修は慌てて駆け寄った。
凪は咄嗟に右手を床についていたので、頭を打った様子はなかったが、よろけて倒れるというだけでもただ事ではないだろう。
「大丈夫だから来ないで!」
大きくヒステリックな叫び声に修はたじろいでしまい足を止めた。
そして凪はぼそぼそと呟きながらゆっくり立ち上がる。
修は代わりにベンチに置いてあった凪のペットボトルとタオルを走って取りに行き、凪の元に戻った。
「先輩、とりあえず飲んでください」
「……ありがと」
今度は修を拒絶しなかったが、ペットボトルとタオルを受け取る際は修から完全に顔を背けていた。
凪はゆっくりペットボトルを傾け水分を補給する。
そしてその後くるりと修に背中を向けてきた。
「永瀬。このこと他の人に言ったら許さないからね」
「……っ!?」
その声は突き放すようなとても冷たいものだった。
まるで誰も信用していない、自分が孤独であるような。
修はそれがショックで何も言い返せなかった。
凪も返事を待たずに歩き出し、フロアを出ていった。
「このこと」とは一体何を指すのだろうか。
許可を得てまで一人で練習していたことか。
それとも倒れたことだろうか。
修は困惑して立ち尽くしてしまう。
そして凪がうわごとのように呟いていた言葉が気になって仕方がなかった。
――大丈夫……。私は大丈夫なんだから……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます