五月二十日 午後六時
第18話 神事直後 五月二十日 午後六時
神事の立合というよりもむしろイカサマがないかの検証のために呼ばれたようなものに気づいたのは、宿に帰ってからの事だった。
部屋に戻ると、疲弊感が一気に押し寄せてきた。
「ふぁっ、何もしていないはずなのに、どっと疲れた……」
畳の上にぐったりと横になると、神事が執り行われた事を叔父にメールする必要があるのではないかと急に思い立った。
「お金を出してくれたんだし、報告のメールくらいはしておかないと」
スマートフォンを取り出して、メールをしようかと思った時に、私はとある事に気づいた。
「……あれ? 園外?」
ここまで回線が来ていないのか、園外の表示がなされていた。これでは、叔父にメールができないではないか。
「ここが田舎だから回線がまだ来ていない?」
そうなると、叔父への報告は向坂村を出た後になりそうだが、それで怒ったりする事はないだろう。叔父もこの村に来たことがあるのだから、この村の通信事情を熟知しているはずである。報告が遅れて当然とさえ思っているかもしれない。
「この村ではスマートフォンは使い物にならない、と……」
そう独りごちて、スマホを畳の上に放り投げて目を閉じた。すると、身体が疲れていることを訴えかけるように眠気が全身を侵食し始めた。
「駄目だ。これじゃ」
眠ってしまっては駄目なような気がして、畳の上にあるスマホをたぐり寄せる。
時刻を確認すると、午後六時十分と表示されていた。
「温泉で疲れを癒そう」
そう決めて、私は起き上がり、温泉へと向かう。
今日の泊まり客は、私と流香しかいないようで、男湯には他の客の姿はなかった。そのせいもあって、塩化物泉を思う存分に堪能できたので良かったのかも知れない。これ以上入っていたら逆上せてしまうのではと思うくらい温泉に浸ると、蛇口からのお湯で全身を洗い流し、身体をタオルで拭いてから脱衣所へと行く。そこには、浴衣も用意されていたので、下着をはいた後、浴衣を羽織ってからお風呂場を出ると、
「……あ」
「……」
暖簾をくぐって廊下に出たところで、稲荷原流香と鉢合わせてしまった。
流香も温泉に入っていたようで、浴衣姿であった。白い肌がほんのりと上気していて、意外と艶やかだ。ついついそんな流香に見惚れそうになっている自分に気づき、
「き、奇遇ですね」
私がばつが悪そうにそう言うと、
「奇遇と言えば奇遇とも言えます」
私が待ち伏せをしていたとかそんな邪推をしている素振りは見せずに平生の表情でそう返してくれた。
流香は浴衣をきっちりと着こなし、帯もしっかりと締めている事もあってか、巫女装束、私服の時とは違う、色気みたいなものが見え隠れしている。そんな姿を見ているだけで好意さえ抱きそうになるも、姉の魂の見せまいとしている左目の眼帯が異様な存在感を際立たせていて、一瞬にして思いとどまってしまう。
「ここの温泉はどうでした? 私的にはとてもいい温泉に思えましたが」
神事の事を話題にするのははばかれるような気がして、そんな当たり障りのない話を振った。
「このような山奥では希有な温泉ですね。良い泉質だと思いました」
「ですよね。こんな山奥で塩化物泉なんて味わえるものではありませんし」
「えんかぶつせん?」
言葉の意味が分からないようで、流香は小首を傾げた。
「海岸近くにある温泉ではよくある温泉ですかね」
「……そういう事でしたか」
流香は考えるような素振りをしてそう答えると、ゆっくりと歩き始めた。
髪がまだしっとりと濡れていて、身体を動かす度に、甘い香りを流しているようで、なんとも言えない気分になってくる。
温泉の説明をさらにしようとしたところで、私達の声が聞こえたからなのか、廊下の先から女将が顔を覗かせて、
「夕ご飯の準備ができていますよ」
そう言うなり、私と流香が一緒にいるのを見て、意味ありげににんまりと微笑んだ。
「大広間で待っていてくださいな。すぐにお出ししますんで」
女将は顔を引っ込めて、どこかへと行ってしまった。
流香は私を置いて部屋には向かわずに大広間へと向かっているようだった。
「変な誤解をしていなければいいんですが……」
女将さんのあの顔を思い出して、私は一抹の不安を覚えて、流香の後を追った。
大広間は玄関から入って左側に向かっている廊下の先にあり、大広間と言うだけあって柱のない二十畳ほどの広々とした畳部屋であった。廊下側以外の三方は縁側があるような作りになっている珍しい構造である。三方が縁側だと知れたのは、ガラス貼りの扉で囲まれているからだ。外はもう宵闇に包まれていて、ここからではうかがい知る事はできない。
「……これは……」
その大広間の中央に木製のテーブルが置かれている。椅子は二つ用意されているのだけど、その配置がおかしいのだ。向かい合うようにして置かれており、どう見ても、私と流香とかが向かい合って食事をするように設置されている。これは女将の所業なのだろうか。
「座らないのですか?」
稲荷原流香は何の迷いもなく椅子に腰掛けていた。この配置に疑問を抱いていない事に驚きを隠せない。
「……あ、は、はい……」
私は若干気後れしながらも、早足でテーブルの所まで行き、席に腰掛ける。
正面に腰掛けたからなのか、流香は私の顔をじっと見つめてくる。興味があるワケでもなく、見る物が私しかないから見ている、そんな顔だった。
「お待たせしました」
女将さんが二人分の料理を持ってきて、何の迷いもなく私と流香の前に置いた。その際、分かっていますよ、みたいなしたり顔を私に向けてきて、勘違いだなんだと言って誤解を解くべきなのだろうかと思案した。だが、思案している間に女将さんは大広間を出て行ってしまい、その機会を喪失した。
「嫌じゃないんですか?」
この位置取りについてそれとなく訊ねてみると、
「何がですか?」
と、素っ気なく返された。
「私と一緒にご飯を食べる事とかですよ」
「いえ、特には気にしてはいません」
「ならば、良かった」
もしかしたら、私の言い方が分かりづらかったのではないかと思ったのだけど、そうではなかったようだ。
「いただきます」
流香が目を閉じて礼儀正しく言葉を発してから箸を手に取り食べ始めた。
当然の事ながら、流香には私が『いないもの』としか思えていないのかもしれない。
「いただきます」
私も流香に倣ってから食べ始める。
根菜類の煮物、マグロ、ぶり、鯛などのお刺身、大根おろしがのったステーキ、キノコ類の入ったお味噌汁、白米、それと、地産のフルーツの盛り合わせといったものだった。こんな山奥なのにお刺身が出てくるのは料理をがんばっているからなのだろう。
「あの神事は神事と呼べるものなのですか?」
今日見知った相手と向かい合い、無言で食べるのも息苦しいかも知れないと何か話題はないかと考えた末、私はあの神事の事を口にした。
「神事よりもむしろ儀礼の色が濃いのかも知れません」
「儀礼?」
「はい。神事であるのならば、何かしらの『コトワリ』があるはずなのですが、それがありませんでした。ただ洞窟に入り、二日間待つ、というだけです。何のために洞窟に入るのか、何故二日間なのか、そういった説明が何もないのです。そもそも何の神様に対して、何の祈祷をするというのでしょうか? その辺りもはっきりとしていません。まるでコトワリそのものが存在していないかのようです」
流香はそこで一旦言葉を句切り、お刺身に箸を伸ばして口に運んだ。お刺身を口に含んだ瞬間、流香は目を細めて破顔した。
なるほど。
化物やらなんやらと言われている流香は、美味しい食事の前では一人の人間になってしまうのかもしれない。人としての一面を垣間見られて良かった。
「叔父の説明だと、二日間祈祷をして神様に許しを請うとの事でしたが」
「許しを請うのは、蛭子神にでしょうか? それとも、別の八百万の神々でしょうか?」
「その辺りまでは聞いていませんよ、私は」
「でしたら、余計に分かりません。何故あの洞窟なのでしょうか? あの場所が崇めるべき場所ではないはずです。向坂神社のご神体は、唐突に出現した舟ではないですか」
流香はそう言った後、鯛のお刺身を口に入れると、またしても目を細めて、鯛の美味しさを噛みしめるように口元をもゆるめた。
「それもそうですね。あの看板に書いてありましたよね、小舟がご神体って。その舟は本殿にあるはずですよね?」
向坂神社の由来が書かれていた看板では、あの洞窟の事については触れてはいなかった。しかし、神事はあの洞窟で行われた。これが意味する事はなんであろうか。
洞窟が神聖な場所であるのならば、そのことも記載されていてもおかしくはない。しかし、一切記述がなかった以上、あの洞窟はさほど重要ではないと見られていた可能性もある。しかしながら、神事が行われる時以外は塞いでいたというから、あまり人目にさらしたくはなかったのではなかろうか。そうだと推測すると、納得できる。
「はい。そして、祭神は蛭子神です。ご神体でもなく、祭神でもない洞窟で神事を行う事に、別の意味があるのかもしれませんね。あくまでも私の想像ですが」
気づくと、流香はどの皿も空にしていた。いつ食べていたのだろうか。私の話を聞きながらなのだろうか。
「別の意味とは何なんですか?」
「……分かりかねます」
流香がすっと私の視線をかわした。
何かに勘づいてはいるが、それを話す気がないといったところなのか、それとも、本当に分からないので恥ずかしく思っているのか。
「そうですか……」
そう言われてしまうと、こちらも聞くに聞けなくなる。
仕方なく、私は食事に勤しむことにしたのだけど、流香の視線がとあるものに向けられている事を感じ取って、
「フルーツの盛り合わせ、食べますか?」
そう訊ねてみることにした。
流香は私の膳の上に置かれているフルーツの盛り合わせをじっと見つめていたのだ。
「よろしいのですか?」
流香が顔を上げて、意外そうにキョトンとした顔を見せた。
どうやら私がこんな事を言うとは想定していなかったようだ。
「……どうぞ」
私はフルーツの盛り合わせの皿を手に取り、流香の方に差し出す。
「では、お言葉に甘えます」
流香は遠慮する素振りも見せずにお皿を受け取り、まるで飲み物であるかのようにフルーツの盛り合わせをさっと平らげてしまった。
六角という刑事が流香をケーキで餌付けしていると村田が言っていたが、流香は甘い物には目がないのかもしれない。
「……」
その後、食事に集中していると、流香が視線を私に再度向けている事を察した。
「私の顔に何か付いていますか?」
完食してから流香の目を見返して、そう訊ねると、
「憑いているといえば、憑いています」
「あ、ご飯粒でも?」
私は慌てて口の周りや顎に手を当てたりして、ご飯粒が付いていないか確認をした。だが、何も付いてはいなかった。
「立花さんは今どのような仕事をしているのです?」
唐突に話題を変えてくるも、不躾な質問だったので、私は渋い顔をして見せた。
「それは……」
「それは?」
「無職です。つい先日会社を辞めたものでして」
無職というものは褒められるものではないし、恥ずべき物だ。それをこんな少女に言うのは羞恥プレイの一環とさえ思えてしまう。
「もう離れようとしていますが、それと……。いえ、何でもありません」
流香は意味ありげな事を言ってから立ち上がった。
「はぁ……?」
叔父が警戒していたり、立会人として呼ばれていた人物が流香を理由に辞退したのが、それとなく見えてきた。
ようは、稲荷原流香という人物はとても意味不明で、正体が掴めないからだ。悪い人ではないのだろうけど、こんな人と長時間一緒にいては疲れるのだろう。言動からして破天荒ではありそうだし。
「今日は満月……」
部屋を出て行こうとしていた流香だが、窓の外を見るような格好で立ち止まった。
「……満月?」
流香が見ている方向を見ると、なるほど窓の外に満月が出ているのが見える。満月がそこまで珍しいものなのだろうか。おそらくは、田舎の夜空に浮かぶ満月が美しいものだからついつい見惚れてしまったのではなかろうか。そうだとするのならば、流香は意外とロマンチストなのかもしれない。
ならば、私もロマンチストになってみるのがいいのかもしれない。女将に言ってお酒を部屋まで持ってきてもらおう。そして、満月を肴に月見酒と洒落込もうではないか。
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