第三夜:産声

 これは罰だなと、打ち付ける雨に思う。

「君しかいない」と言われて舞い上がり、「ちゃんと考えているから」と言われて希望に縋った。

 でも、それがどうだろう。蓋を開けてみれば。


「四週目ですね」


 医師に言われた瞬間、絶望の底に落ちた。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ。


 答えは分かってた。それでも言った。

 でもやっぱり、思った通り。


「すまない。責任は取れない」


 告げられたその一言は、すとんと腑に落ちた。


 欲望に飲まれて、身の丈に合わない幸せを求めて。その結果、人を一人殺してしまった。小さな小さな、自分の分身を。


 泣く資格は、あるのだろうか。問いかけても答えなんかなくて。

 もう、全てが、どうでも良くなった。



 ///



 雨粒が、光に照らされて線を描く。吸い込まれるように、歩道から一歩足を踏み出した。

 それなのに。


「危ない!」


 ぐいと、誰かに引き戻された。目の前を、トラックが通る。


「何してるの⁉︎」


 ずぶ濡れの私の肩を抱いた見知らぬ男は、一言、怒鳴った。


 ああ、私は。私はその一言が欲しかったんだ。


 誰も、私を怒らなかった。友達に話しても「好きになったなら仕方ないよね」と言われるだけだった。会社にも奥さんにも、バレてはいない。家族になど、言えるわけもない。

 ただ甘い言葉に包まれていた私は、漫然と湯に浸かっていたのだ。いつか茹だって死ぬとも知らずに。

 そんな私を叱ったのは、見知らぬ男だった。


「何があったのか知らないけどさ。命を粗末にするなよ」


 男の言葉が、心に刺さった。

 私はついさっき、分身を殺したばかりではなかったか。それなのに、私は。私は……。


 雨の雫に、涙が増えた。



 ///



「ありがとうございました!」

「四名様ご来店です!」

「いらっしゃいませ!」


 私は職を変えた。あの男の一言で、ようやくケジメをつけられた。長かった髪を切り、化粧も変え、違う町に移り住んだ。

 新しい職場は、居酒屋。オフィスで働いていた面影なんか、もうどこにもない。

 でも、これでいい。あの日、私は死んだのだ。


「お会計お願いします」

「はい! ありがとうございます」


 呼ばれてレジに向かい、思わず息を呑んだ。目の前にいたのは、あの日の見知らぬ男。名前も言わずに消えた、あの人。


「あれ、君……」

「お待たせして申し訳ありません!」


 気付かれたかもしれない。でも今は仕事中。余計な事を考えるのは後だ。


「八千三百五十円になります」

「あ、カードで」


 手早くレジを打ち、レシートとカードを返す。男は、小さく笑みを浮かべた。


「元気そうで良かったよ。また来るね」

「ありがとうございました!」


 私に言えるのは、それだけだ。恥ずかしさや気まずさ。ない交ぜになった心を誤魔化すように、ただ声を張り上げた。



 ///



「こんばんは」

「今日もお一人ですか?」

「そう。いつもの頼むね」

「生ビールですね。かしこまりました」


 あの日から、男は定期的に店に来るようになった。名前は知ってる。カードに書いてあったから。向こうも、私の名字は知ってる。名札に書いてあるから。

 でも、ただそれだけ。客と店員の関係。それだけ。


 だけどこの日は少し違った。閉店作業を終えて店を出ると、男が店の前にいた。


「お疲れ様、明無あけなしさん」


 一体、どうしたのだろう。これまで、何もなかったのに。


「……どうも」


 軽く会釈をして帰ろうとした私に、男は立ち塞がった。


「あのさ。少しお茶していかない?」

「……は?」

「ほら。あの日は俺、急いでて。すぐ行っちゃったから。まだ君から、お礼言われてない」


 え、今更?

 疑問には思ったけれど、確かにその通り。でもだからって。

 気付けば、笑ってた。


「お茶なんですか? こんな時間なのに、お酒じゃなく?」


 男は、気まずそうに頬をかいた。


「いや、だって。知らない男から急に酒に誘われたら嫌だろ?」

「お茶に誘うのはいいんですか?」

「ナンパってそういうもんじゃないの?」


 久しぶりに笑った気がする。営業スマイルは何度もしていたけれど、心から笑ったのは数ヶ月ぶりだった。


「ナンパなんですか? お礼じゃなくて?」

「いや、それは……」

「それに、知ってますよ。私」

「何を?」

「お客さんの名前。望月もちづきさんですよね」


 男は、ああと頷き、はにかんだ。


「そう。望月光もちづきひかる。覚えててくれたんだ?」

「命の恩人ですから」


 そう。彼は命の恩人だ。とにかくお礼を言わなくては。


「あの時は、ありがとうございました」

「どういたしまして。それで、酔い覚ましのお茶に付き合ってくれる?」

「分かりました」


 彼は本当に、お茶しかする気がなかったようで。二十四時間営業のファストフード店に私を誘った。

 彼は、私の事を何も聞かなかった。ただポテトを摘み、コーヒーを飲みながら、自分の事を話してくれた。穏やかで、不思議な時間だった。



 ///



 彼との奇妙な関係は、この日からしばらく続いた。客と店員の枠を越えた、友達とも言えない関係。私はただ、彼の話や愚痴を聞き、他愛ない会話を楽しんだ。

 でもだんだんと、心惹かれるものを感じ始めた。そんな私の変化に気付いたのだろうか。彼はある日、私に言った。


美夜みよさん。良かったら俺たち、付き合わない?」


 怖かった。ただ、怖かった。

 せっかくの穏やかな、楽しい時間。それがあっさり崩れていった。

 だから私は言った。全てを壊すつもりで、私の全てを。


「望月さん。私は最低な人間なんですよ」


 前の会社の先輩と、不倫していた事。妊娠してすぐに、子どもを堕した事。堕胎手術の日に、自殺しようとした事。包み隠さず、全てを話した。

 話を聞いた彼は、私の手を握った。


「ようやく話してくれた」


 なぜか、涙が溢れた。



 ///



 産声が上がる。私と彼の子ども。二度と会う事はないと思っていた、私の赤ちゃん。


「ようやく会えた」


 微笑んだ彼の言葉が、胸に沁みた。彼は私を、闇から救い上げてくれた。


「望月さん。望月美夜さん」

「はい。私です」


 あの日、彼と出会わなかったら。勇気を出して、全てを断ち切らなかったら。今の私はここにいない。私と彼の、小さな分身も。

 漫然と湯に浸かる気はない。私を包むのは、打ち付ける雨の中、引き寄せてくれた温もり。決して冷める事のない、私の光。


 何があっても離れずにいよう。犯した罪を許されなくとも、明けない夜にも月の光は必要だから。

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闇夜の光 春日千夜 @kasuga_chiyo

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