REISE7 猟犬、空を越えて西ベルリンへ
三十年の、時空の壁を越えて。
力なく座り込んだ
「こっちは俺たちの世界の四十年前。ロディの父親が東ドイツで捕らえられた。俺は、これから彼の父親を助け出す」
「え……ええ!?」
折賀は自分の置かれた状況を手短に伝えた。甲斐が素っ頓狂な声を上げる。
「作戦は必ず成功させる。俺がここへ来た意味はそれしかない」
「ここへ来た、意味って……俺たちがここで何かしても、俺たちの過去は変わらないんだよな?」
「それでも、この世界の彼の父親を助けることはできる。お前が、目の前の人たちを助けずにはいられなかったように」
甲斐の目には、今も変わらずダークブルーの『色』が見えているのだろうか。
この世界で甲斐がやってきたこと、自分がやろうとしていること。
誰かに命令されたわけじゃない。すべて自分たちの意志で選び取った結果だ。
その目にダークブルーが映っている限り、俺たちはまだ進んでいける。
折賀の目に強い決意が宿る。
その色を映す甲斐の目にも、少しずつ力がみなぎっていく。
「折賀。俺にできることはない?」
◇ ◇ ◇
甲斐に、ロディの兄が捕らえられていることを伝えた。
あとは「三十年後のハーツホーン」が、甲斐の案内人を務めるはずだ。
甲斐が大人のハーツホーンと話を始めたところで、折賀とロディはそっと場を離れた。
名残惜しくないと言えば嘘になるが、ゆっくり話している時間はない。
あとはそれぞれができることをやる。
共にいても離れていても、状況を見据えてそれぞれの能力に応じたベストを尽くす。
それが本当の意味でのコンビなのだと思う。
「
「わかりました。三十年後……さっきのお兄さんのこと、絶対に忘れません」
ロディの視線が、じっと真っすぐに折賀に注がれる。
「あの、お兄さんも。本当にありがとうございます! 僕、帰りをずっと待ってますから……!」
「俺じゃなくて、お父さんが帰ってこられるといいな。必ずとは言えないが、頑張ってみる。いい子で待っていてくれ」
甲斐にときどきやるように、折賀は少年の頭にポンと手を置いた。
◇ ◇ ◇
「あそこで話してた子ってオリちゃんの弟? いいねー可愛いねー。なんにでも真っすぐで、一生懸命って感じでさー。俺もあんな弟欲しいなー」
ロディを自宅のそばで下ろし、
車で待ってると言いながら、双眼鏡などでちゃっかり観察していたのだろう。
「でもオリちゃんってさ。俺の勘だと、弟じゃなくて妹がいる感じなんだよね。いるでしょ? すごく可愛い妹♡」
「いません」
「そう? ほのかに年下の女の子のピンクな香りがするんだけどなー。きみ自身もどことなくそういう空気に慣れてるっぽいというか……。で、いるでしょ?」
「いません。ひとりもいません。絶対にいません」
ここまで素早く嘘を返したのは初めてかもしれない。この男は
車中では往年の名曲『We Will Rock You』が繰り返し流れている。マックレー所蔵のカセットテープか。この時代、既に有名な曲だったらしい。
ノリノリで歌いながら運転するのはかまわないが、あのリズムを運転中に足で取ろうとするのはやめてほしいと思う。
大地を揺るがすような力強いリズムと、マックレーの調子っぱずれな歌声を乗せて、即席コンビの車は彼らの施設へと向かう。
やがて、彼らの
いよいよベルリンへ向けて、一機の飛行機が空高く舞い上がる。
◇ ◇ ◇
日本では「東ドイツ」と呼ばれることが多いが、正式名称は「ドイツ民主共和国」。
現地では Deutsche Demokratische Republik の略称、「DDR」と呼ばれている。
建国からわずか四十一年で消滅(西ドイツBRDに吸収)の運命を辿った国だ。
ベルリンは位置的には東ドイツ領内にありながら、東側をソ連、西側を米・英・仏の三か国の占領地区として東西に分断されている。この西ベルリンをぐるっと囲んでいるのが、有名な「ベルリンの壁」だ。
西ベルリンから東ベルリンへ入るには、「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれる国境検問所を通る必要がある。
東西の境目として数々のスパイ映画の舞台となり、「米ソの最初で最後の直接武力対決」の舞台とも呼ばれた場所。
この検問所のそばに、壁の向こうの東ベルリン側を見通すことのできる、工事現場の足場のような簡易展望台が設置されている。
マックレーにちょいちょいと手招きされて、折賀も観光客よろしく展望台の階段を登ってみた。
ここ、西ベルリン側の壁から東ベルリン側の壁までは、六十メートル近くの距離がある。その間には、広い無人地帯が横たわっている。
その地帯には鋼鉄突起物などの障害物に段差や溝、警報付きの金網、通れば痕跡が残る柔らかい土、警備兵が見張るための監視塔、無数の照明など、東ドイツからの脱出を防ぐためのありとあらゆる設計が張り巡らされている。
記録では、少なくとも一三六人。
この地帯を突破できずに散った人命の、なんと多いことか。
もとはひとつの都市であった「東ベルリンから西ベルリンへ行く」、ただそれだけのために。
壁の西ベルリン側には、数多のアーティストの手によるカラフルで奇抜な「壁アート」が所狭しと描かれている。
これらのアートは、のちに、ある場所はハンマーで破壊され、ある場所は土産品として切り崩して売られ、ある場所は記念碑として残されることになる。
対して、無人地帯を越えた東ベルリン側の壁は、ただの灰色のコンクリートだ。
壁の向こうに広がる東ベルリンでは、全体的に黒く
あの場所に救出対象、ウィンダムがいる。
折賀はほんの一瞬だけ留学生のふりをすることをやめ、壁の彼方を猟犬の鋭い視線で捕捉した。
◇ ◇ ◇
非公式の極秘作戦のため、大使館にある西ベルリン支局ではなく、他に用意されたセーフハウスへ向かう。
現地の支局員から、アメリカでは聞けなかった「ウィンダムを公式に救出できない理由」を聞いた。
ウィンダムは、東ドイツ側の要人を西ドイツへ脱出させる作戦に参加していた。
決行の際、彼らを追ったシュタージ(国家保安省)の将校が、その過程で車の事故を起こし、三人も命を落とすことになった。
ウィンダムは脱出させるはずだった要人とともに捕らえられ、さらにその要人が、ウィンダム側が握っている重要な機密情報を知っている限りすべて自白したため、ウィンダムの釈放の可能性はなくなってしまったのだ。
その機密情報が、アメリカにとって東ドイツ側に知られたら非常にまずいものだったらしい。
こうしてウィンダムは、祖国から「関与なし」として扱われることになった。
ウィンダム自身も、この世界に身を置く限り、こうなることは覚悟していただろう。
だからといって、人生を、命を諦めていいわけがない。
国家のために尽くした男を、国家の犠牲にはさせない。
ただそれだけのために、折賀は自分を信じてくれた人たちを巻き込んで、ここまでやってきたのだ。
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