CODE79 闇夜に消えた「赤き華」を探して(5)
ゆるやかな風が、彼女の黒い髪を、馬の黒いたてがみをふわっと撫でてゆく。
俺に向けられた、穏やかな笑み。その笑みは、俺が彼女の息子だから?
「
「あ、いえ。小学生のとき校外学習で……」
あ、俺まだ二歳児なんだった。
ってことは、あんまりペラペラしゃべんない方がいいのかな。
彼女――
「それじゃ、ちょっと乗ってみようか」
「え、あの、どうやって」
手綱を受け取りながらも戸惑ってると、彼女は柵のそばに置かれていた踏み台を持ってきた。そのままそっと馬の左側に置く。
「乗り方わかる?」
「たぶん……」
医者から運動は止められてるけど、このくらいなら大丈夫かな。
母親もいきなり速く走らせたりなんてしないはず。なんたって俺、まだ二歳児だし。
馬は、ずっとおとなしく待ってくれている。
せっかくだから、ちょっと乗ってみようかな。
手綱を持ったまま踏み台に乗り、
右足で踏み台を軽く蹴り、体を浮かせた途端、動物の体温と振動がじかに伝わってきた。これが、馬に触れる感覚。
またがると、母親が「上手に乗れたねー」と褒めてくれた。
そりゃー、普段体鍛えてっし。って、なんでこんなことで喜んでんだよ俺。
たぶん、ほんとの二歳児なら親と一緒にまたがるんだろうけど、さすがにそれは無理があるってわかったんだろうか。
母親は馬の首を軽く撫でて、「手綱、引っ張らないで持っててね」と言って静かに歩き始めた。馬が、素直にそれに続く。
視界が揺れる。土を踏みしめる蹄の音。馬の運動に合わせて、俺の全身も、鼓動もゆるやかに揺れる。すげー、俺、乗馬してる。
二人と一頭は、ゆっくりと柵に沿って進んでいく。
あまり広くないスペースだから、あっという間に一周回ってしまった。
馬のことを考えると、もっと広いスペースを用意してやればいいのに。潰れた牧場じゃ、これが精いっぱいか。
特に話もしないまま、二周目に入る。
振動に慣れてきたので、やっと周りを見渡す余裕ができた。
普段よりもずっと高い位置にある、俺の体。
ちょうど雲が動いて、眩しい日の光をさあっと視界に届けてきた。
初めて、牧場の敷地がある山地、それよりもさらに先を見通すことができた。
淡い緑と深い緑が連なる、シェナンドーの山。
山頂を雲が渡っていく。鳥が飛び、
空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
この空気、この風景。俺の両親が、ここでずっと触れてきたもの。
気づくと、母親がこっちを見上げて笑っている。
「健ちゃん、初めて乗ったのに上手ね。この子も健ちゃんのこと気に入ったみたいよ」
何とも言えない、くすぐったい気持ち。
褒められて、馬にも気に入ってもらえたなんて。ちょっと嬉しいな。
「この子、名前はなんて?」
「ハレド」
「…………
…………
え、えええーー??」
馬がぶるっと大きく体を震わせて、俺は慌てて鞍にしがみついた。
母親は歩を止め、ちょっぴり呆れたような目を向ける。
「健ちゃん、大きな声あげちゃだめ」
「ごっ、ごめんなさい……あの、なんでその名前?」
「この子が生まれたとき、お産を手伝ってくれた人に名づけてもらったの。国にいる親友の名前なんだそうよ」
そ、そうか……。
そりゃ、あっちの国ではたぶん珍しい名前じゃないんだろうけど。
なんで、こんな場所で! よりによってその名前!
と、目の前の馬の耳がピクピクとせわしなく動いてる。
乗ってる俺にも、なんとなく不安そうな気持ちが伝わってきた。
俺が動揺してるからだ。落ち着かなきゃ。
ゆっくり深呼吸して、軽く首を撫でた。
触れていると、お互いの気持ちが体温を通じて伝わっているような気がする。
お互いに、心が少しずつ落ち着いてくるのを感じた。
驚かせてごめんね。
心の中で謝ると、馬――ハレドが、軽く頭を垂れた。
母親が、また笑みを浮かべながらゆっくり歩き始める。
三周目が終わるころだろうか。
背中のバッグがかすかに振動した。たぶんスマホの着信だ。
背中を気にする俺に気づいてか、母親は馬を止めた。
礼を言って馬から降り、断りを入れてスマホの確認をした。アティースさんからのメッセージだ。
『
牧場の入り口付近で、エルさんが手を振っている。あっちにも連絡があったんだ。
「すみません、俺もう行かないと。ありがとうございました」
二歳児らしくないけど、深々と日本式の礼をして、立ち去ろうとした。
背後から、穏やかな声が呼び止める。
「またタクくんと遊びに行くの?」
「あ、えーと、タクじゃないけど。友達に会いに行きたいから」
「気をつけてね。早く帰ってくるのよ。お父さん、今日もあまり具合よくないから。早く顔を見せてあげてね」
二歳児は、ひとりで友達んち行くってあまりないだろうな、と思いつつ。
「早く帰ってくるのよ」という言葉が、俺の中で大きく反響する。
でも、ここに来る前に感じたような、冷たい重さはない。
「行ってきます」
なぜか、そんな言葉が自然に口から出た。
◇ ◇ ◇
帰りの道中。エルさんは嬉しい知らせに興奮しながらも、俺に牧場でのいきさつを細かく
正直、助かる。まだ俺の中で何も整理できていない。
色んなことがありすぎて、ずっと脳内をぐるぐる走り回っている。
今はとにかく
何度も通った病室へ、エルさんとともに速足で向かう。
扉を開けると、さらりと
その向こうに。やや体を起こしてベッドにもたれかかった、折賀がいる。
「折賀……」
「美仁さん、よかった……!」
エルさんの声に涙が混じる。
折賀の起きてる姿を見たのは、約二週間ぶりか。
折賀は何も答えない。ベッドに体を預けたまま、黙って薄目を開けてこっちを見ている。
色に、悲しそうな色が混じっている気がするのは、気のせい……?
「まだ話すことはできないんだ。声帯も含めて完治しているはずなんだが。
アティースさんの静かな説明が、俺とエルさんの意識に重く沈み込む。
「美仁さん、意識が戻ってよかったです。今はゆっくり休んでくださいね」
エルさんが、折賀の手にそっと自分の手を重ねる。
疲れるといけないからと、エルさんとアティースさんはそのまま退室した。
俺はその場に残された。折賀が、伝えたいことがあるからと。
何を、どうやって伝えるんだ?
なんて言葉をかけていいのかわからなくて、俺は黙ってベッドわきの椅子に腰を下ろした。
折賀はゆっくり、一冊のノートを差し出してきた。手が少し震えている。
開いてみると、中に震えた読みづらい字が数ページにわたって書かれていた。アティースさんと筆談してたのか。
「お前、何ムチャしてんだよ。まだ起きたばっかじゃねえか」
思わず声を上げた。
ページをめくると、
最後の殴り書きは、俺へのメッセージだった。
『オレが かってにやったことだ
オレは なにも こうかいしていない』
「…………」
たぶん、あのときのことだ。
首を斬られた状態で、こいつは俺からナイフを奪い、ハレドの首を――
「……わかった」
これ以上は、何も言えそうにない。
ずっと文句言ってやろうと思ってたけど。
起きて最初に出てきた俺への言葉じゃ、認めるしかないよ。昏睡中も、ずっと心に引っかかってたのかもしんねえし。
「回復するまで、ちゃんと休んでろよ。俺は、お前がいてほしいならいるし、帰ってほしいなら帰るから」
立ち上がろうとしたとき、ノートの他のページが目に入った。見えたのは、「カイ」「かぞく」という文字。
俺が親に会いに行ったの、アティースさんから聞いたんだな。
父親の情けない泣き顔。母親の柔らかい笑顔。あったかい馬の鼓動。
たった二つの単語が、今日の記憶を一気に呼び覚ます。
「……俺さ。今日、『ハレド』って名前の馬に乗ったんだ」
ふいに、こいつに聞いてほしくなったんだろうか。
話すつもりのなかった言葉が、次々に口からこぼれてくる。
「母親が、大事に世話してる馬なんだよ。変な話だよな。俺たちが殺した男と同じ名前の馬を、たった一頭の馬を、母親はずっと、一生懸命……」
何言ってんだ、俺……。こんなこと話したってどうしようもないのに。
「その母親は、見た目が
何度も見てた悪夢の理由、やっとわかったんだ。父親が昔、俺と母親を殺しかけたんだと。ひでー話だよ。目の前で土下座された。自分が俺を育てなくてよかった、って言われた……。でも、でも俺は……」
どうしよう……。たった今、気づいてしまった。
俺は、そんなどうしようもない親でもいいから……たった一度でもいいから、やっぱり会いに来てほしかったんだ。迎えに来てほしかったんだよ。
母さんの優しい微笑みを。本当ならたくさんもらえるはずだったものを、少しでもいいから俺に戻してほしかったんだよ。
ばあちゃん先生も優しかったけど、みんなの先生だったから。
母さんは、俺だけのたったひとりの母さんだから……!
ふいに、両肩をつかまれた。さっきまでの震える手とは違う、もっと力強い手。
折賀が、やっぱりどこか悲しそうに俺を見ていて。
その顔がにじんで、俺は初めて自分が泣いていることに気がついた。
「ごめん、グチった……もう頭グチャグチャなんだよ、ごめん……!」
(弱音なら、いくらでも聞いてやる)
そう言われた気がした。
バカ野郎、それは俺のセリフだっ!
それからもしばらく、まとまりのないことをあれこれ口走ったような気がする。全部は覚えてない。
グチャグチャのカッコ悪い顔を見られたことだけは、覚えてるけど。
折賀は俺の髪をぐしゃぐしゃにかき回したあと、前よりはしっかりした字でノートにこう書いた。
『お前も後悔のないようにしろ。わがままはきいてやる』
◇ ◇ ◇
3月30日
「本当に、それでいいんだな」
翌日。
アティースさんは、タクシーを一台手配してくれた。
俺の外出に関しても、適当な理由をつけて許可を取ってくれた。
俺が気になった、母さんの「お父さん、今日もあまり具合よくないから」という言葉についても答えてくれた。
あの父親は、祖父と同じ病――胃がんを
どうりで、もと牧場経営者にしては痩せすぎているわけだ。
「俺は、長い間手に入れられなかった時間を取り戻したいんです。そのために今できることがあるなら、そうしたい。チームにどうしても俺の力が必要になったときには駆けつけます。でも、それ以外は……」
目の前の、クールなように見えてどこか寂しそうな、上司の顔。
ほかにもたくさんの顔が、脳裏に次々に現れては消えていく。
誰よりもかけがえのない、ペールピンクに包まれた笑顔を頭から振り払って。
俺はアティースさんにはっきりと伝えた。
「俺はこっちで暮らします。日本へは帰りません。アティースさん、パスポートの書き換えをお願いします」
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