第20話 八月三十一日の業務 その三

 ぽかん、と一部始終を見ていた稔とミサキは、ドラゴンの返り血を存分に浴びた服部が声をかけるまで、放心状態だった。


「何だ何だ、ちゃんと弱らせただけで殺してねぇよ。そういう決まりだかんな」

「えっ……今ので、死んでないんですか?」


 稔は驚愕する。今、目の前で渋谷スクランブル交差点が溢れんばかりのどす黒い血の海と冷えかけたマグマで覆いつくされているさまは、ついさっきまでそこにいたドラゴンが瀕死の重傷を負った証のようにしか稔には思えない。


「ドラゴンは生命力と再生能力がダンチなんだよ。あれぐらい、一週間もありゃ再生してるよ」


 服部は焦げた革靴の靴底を剥ぎとり、もう履けないことを確かめると、革靴を両方脱ぎすてた。ぺたぺたと靴下だけで渋谷のど真ん中を歩くのは流石に危なくはないか、と稔が心配していると、ニニがどこからか新品の革靴を取りだしていた。


「まあ、この状況だ、一揃いだけ失くなっていても文句は言われまい。代金は置いてきたからな」

「お、ありがとさん」

「ありがとうございます、は?」

「……ありがとうございます、ニニ局長」


 社会人として、きちんと礼を言うことは正しい。服部はニニから新品の革靴を受け取り、履いた。


 ——しかし、この惨状、魔法陣は機能するのだろうか。


 そんな稔の心配をよそに、ミサキはぽやっと蕩けた顔で服部を見ていた。


「ミサキさん?」

「はっ、はい!?」


 声をかけられて正気に戻ったらしきミサキは、挙動不審にやはり服部を見ていた。


「どうしたんですか? 服部さんが何かしましたか?」

「俺かよ」


 革靴のつま先を地面にこつこつと叩きつけながら、服部が反応した。地獄耳だ。


「ええと、ええと」

「ゆっくりでいいですよ、どうしましたか?」

「……ました」

「はい?」

「上田さん、耳、貸してください!」

「はいはい」


 稔は少し屈んで、ミサキに右耳を寄せる。


 赤面したミサキは、衝撃の発言をした。


「惚れちゃい、ました」


 ——ん? 誰に?


「すごく、強くて、すごく、かっこいいです……! ええと、僕、じゃない、私? あれ? えっと」


 急にミサキの声が甲高くなっていく。


 元々中性的だった顔つきも、まるで恋する乙女がごとくなり、瞳を潤ませていた。


「待ってくださいミサキさん。ちょっと落ち着きましょう、ミサキさん、ご自身の体の変化、気づいてますか?」

「え?」


 紅潮していた顔が、一気に真っ青になる。


 どうやら、ミサキは自身の変化に気づいていなかったらしい。慌てて顔や首、胸まで触り、今度は稔を見て、そしてもう一度ミサキ自身の顔に手をやる。


 ミサキは甲高い声を張る。


「ええー!?」

「あ、やっぱり」


 ミサキと違って、稔は何となく気づいていた。どうやら、まだ性別がないミサキは、何らかのきっかけで変化の可能性がある。それがいつどのようなものなのかは分からなかったが、少なくとも、ミサキに変化がすでに起きていることは、間近で見ていた稔は察していた。


 ミサキ、女性になっている。


「もしかして、もしかして……恋!?」

「恋すると性別が決まるんですか?」

「い、一応、そんなことも、あるらしいです」


 その点、ミサキにも確証はなかったらしい。


 稔とミサキのやり取りを近くで聞いていたニニは笑っていた。隣の服部は渋い顔を作っている。


「よく惚れられるな、服部」

「勘弁してくださいよ」


 ——よく惚れられるとは、意外と言うべきか、妥当と言うべきか。


 服部はミサキの目の前に来て、目を泳がせるミサキの頭をむんずと掴んで正面を向かせた。


「ミサキ、お前これから帰るんだろ。今恋してどうするよ」

「そ、それはその」

「それにだ、俺ぁそういうの間に合ってる。帰っていい男見つけたほうが、絶対幸せになれるぞ」

「でも! 服部さんのせいで私、性別まで決まっちゃったんですよ! 責任、取ってください!」


 もはや耐えきれず、稔は吹きだした。ニニは口元を手で覆って笑いを堪えている。


「責任ってお前、勝手に好きになったのはお前だろ」

「それは、そうですけど」

「俺はただドラゴン切っただけだぞ。それで惚れるってのもおかしな話だろ」

「……うぅ」

「泣くな! おい上田、笑ってないで何とか言え!」


 稔は他人事のように静観を決めこみたかったが、指名されては黙っているわけにもいかない。服部に抱きつこうとして頭をしっかり掴まれているミサキを、説得して元の世界へ帰さなければならないのだから。


「ミサキさん、残念ながら服部さんはやめておいたほうがいいです」

「どうしてそんなこと言うんですかー!」

「服部さんの名誉のために誤解のないように言っておくと、服部さんは同性愛者じゃないです」


 服部とミサキは同時に叫ぶ。


「当たり前だ!」

「じゃあいいじゃないですか!」


 ——そうではないのだ。


 稔は首を横に振った。


「よく考えてください。ミサキさん、本当に性別が確定したんですか?」


 じたばたと暴れていたミサキは、ぴたり、と動きを止めた。


「一時的に恋をしたから女性寄りになっただけで、今後変化しないという可能性は? 本当に成人して性別が確定したんですか? そのあたりのことも分からずに、一時の衝動で外れ物件を引くというのはお勧めしません」

「誰が外れ物件だ、誰が」


 稔は服部の抗議を無視する。


 実際のところ、ミサキという異世界人の生態はよく分からない。成人すると性別が確定するのか、性別が確定したから成人なのかすらミサキ本人も分かっていないし、そもそも『性別がまだ決まっていない状態』というのも、別に稔や巻上が確かめたわけではなく、デリケートな問題なのでミサキの自己申告だ。


 そんなことのために、こちらが振り回されてはいけない。第一、これから元の世界へ帰還するというのに、服部を連れていかれては異世界通行管理局が困る。


 ミサキはうな垂れていた。服部もミサキの頭を掴んだ腕にそれほど力を入れていない。


 ——あと一押しだ。


「ご家族も心配されているでしょうから、とりあえず、元気な姿で帰ることを優先しましょう。どうしても諦めきれないのなら、本当に性別が確定してから、考えてください。それだけ大変な問題です、ミサキさんにとってもこちらの世界にとっても」


 稔がミサキの顔を覗きこむと、ミサキはじっと稔を見つめて、何かを訴えているようだったが——やがて諦めたのか、こくりと小さく頷いた。


「分かり、ました。ごめんなさい、迷惑をかけて」

「大丈夫ですよ。ミサキさんが道を踏みはずさなくてほっとしました」

「お前、さっきから俺に対してひどくね?」


 再度、服部の抗議を無視して、稔はミサキの手を引く。


 ミサキの頭から、服部の手が離れた。そして、服部はぽんと軽くミサキの頭を撫でた。


「悪ぃな」

「……悪いです、本当に」

「そりゃ悪かった」


 それだけの言葉を交わして、服部は駅構内から出てきた異世界通行管理局の局員たちを迎えにいった。


 ミサキは、泣いていた。静かに滲みでる涙の筋が、頬を伝って顎から地面へと落ちる。


 稔は、横断歩道の一角にいたニニのもとへとミサキを案内する。


「来たな。こちらの準備は終わった、いつでも元の世界へ戻れるぞ」

「はい、よろしくお願いします」

「うむ。では、真ん中は危ないから、そこでいい。上田君、下がっていなさい」


 そう言われて、稔はミサキから手を離した。名残惜しそうなか細い手は、するりと抜け、稔は緑色の電車の前まで下がる。


 小さなバッグを持って、ミサキは言われた場所に佇んでいた。ミサキは稔へ軽く一礼をして、ニニのほうへと向く。


「これより異世界人ミサキを元の世界へ送還する。戻りたい世界を思い浮かべなさい」

「はい」


 渋谷の巨大魔法陣が、起動する。崩れたアスファルトや固まったマグマの下から、魔法陣の線に沿って黄色い光が稔の膝ほどまで立ちのぼっていた。


 どことなく不安そうなミサキが、ちらりと稔のほうを見る。


「声をかけてあげないの?」


 いきなり耳元で囁かれ、稔は驚いて振りむく。


 稔の真後ろに、コーダがいた。


「コーダさん」

「おそらく、もう二度と会えないのよ。声くらい、かけてあげなさいよ」

「……そう、ですね」


 ——確か、清花のときも、服部にそう言われたな。


 あれからまだ一月しか経っていない。たった二ヶ月のうちに二度も、今生の別れこんな経験をするなんて、きっと自分は運命の悪戯に巻きこまれているに違いない、と稔は思った。


 稔は、手を振った。


「ミサキさん! お元気で!」


 ミサキの身の丈よりも伸びる光の帯に包まれ、稔の視界は真っ白に染まり——視界が戻ったころには、ミサキの姿は消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます