第19話 八月三十一日の業務 その二

 午後六時半を回ると、渋谷は完全に封鎖状態となり、宮益坂方面から坂東が二十人ほどの異世界渡航希望者らを連れて歩いてきた。


 坂東曰く、こういうことらしい。


「いやあ、またバスが途中で故障してね。多分私が乗っていたから霊障だと思うんだけど、毎度毎度バスの運転手さんが驚いて申し訳ないなぁ」


 どうやら、今回の異世界渡航希望者の案内役は坂東で、お札を持った稔からは坂東の背後にもはや一個の巨体と化した紫色の靄——霊魂が坂東の周囲の別の霊魂たちを威嚇している様子が見えていた。あれが犯人ではないだろうか、そう思ったが稔は何も言わなかった。坂東は口ではああ言っているが、気にしているかもしれない。


 ちなみに、ミサキは霊魂が見えないようなので、稔は試しにお札を渡してみた。すると、ミサキは坂東を見て仰天した様子で稔の背後に回り、ぷるぷると震えていた。すぐにお札を返してもらったが、ミサキは恨めしそうに稔を睨む。


「……上田さん、ひどい」

「すみませんでした、そこまで怖がるとは思ってなくて」


 しかし、今日はそこまで霊魂はいないし、異世界渡航希望者も二十人程度なので、受付作業はすぐに終わるだろう。前に坂東の言っていた、新盆と旧盆があるため七月と八月は霊魂の通行量が少なくなるとは聞いていたが、デスクトレー一つ分しか通行証が必要ないらしく、早々に霊魂の受付作業は倉橋と坂東の手によって終わっていた。蔵野や服部は霊魂の列の整理をしていたが、稔や巻上は何もしていない。ちょっとだけ後ろめたさを感じながら、稔は袖を引っ張るミサキから離れられないでいた。


 そうこうしているうちに、渋谷駅構内からニニが現れる。


「うむ、作業は順調のようだな。では、とっとと仕事に取りかかるとしよう」


 ハイヒールを鳴らしながら横断歩道手前まで歩き、ニニは渋谷スクランブル交差点の中心に並ぶ異世界渡航希望者と霊魂たちへ、いつもの文句を告げる。


「異世界渡航希望者の諸君、そして霊魂の諸君! ただいまから異世界および冥界への渡航を開始する! これより先は戻れる保証もなく、また霊魂の身は冥界の審理を受けるだろう! では、速やかに魔法陣を起動させる! 全員、目を閉じたまえ!」


 そう宣言した瞬間から、ニニの頭から足まで、体全体が淡く光りはじめる。そして、重力などないかのように、地面からふわりと浮いた。


「時と波紋と現世の精霊、ニニブルカ・クンク・エフエジンが告げる。異世界の扉よ、現世よりの客人たちを迎えたまえ。冥界の主よ、現世よりの魂たちを導きたまえ。ここに集う者たちに我が加護を授ける!」


 眩い強烈な光が、巨大魔法陣から発せられる。


 稔は自分とミサキの目を腕でしっかりと覆い、落ち着くまで数十秒ほど待つ。ミサキは何が起きたか分からず、「何、何!?」と慌てふためいていた。


 一分と経たずに、巨大魔法陣の光は収まる。稔が目を開けると、渋谷スクランブル交差点の中心には、もう誰もいなかった。最初から、誰も何もいなかったかのように、そこはただの空間と化していた。


「上田さん、ミサキさんをニニ局長のところへ」


 そう言ったのは巻上だ。次はミサキの番だ、稔は不安そうなミサキに声をかけながら、連れていく。


「大丈夫ですよ。ニニ局長がしっかり送りとどけてくれますから」

「はい……お願いします」


 稔はミサキを連れてニニに近づく。


 ニニは歩道に着地して、ミサキを見た。


「例の異世界人だな。少し待ちなさい、今から魔法陣を」

「ニニ局長!」


 叫んだのは、服部だ。


 そして服部の叫びとほぼ同時に、巨大魔法陣を構成する線が赤みを帯び、スクランブル交差点の中心付近に火柱が立ちのぼる。109の建物の高さと同等の火柱と、じわじわとアスファルトの道路を溶かすマグマのようなものとともにのそりと現れたのは——圧倒的な巨躯を誇る、赤竜、ドラゴンだ。黒く長いねじ曲がった二本の角、ほむらを湛える凶悪なトカゲの口元、人の体など触れただけで轢き潰しそうな強大な四肢。翼は退化しているのか、根元から朽ちていた。


 真っ青な眼のドラゴンは、稔たちを睥睨する。縦に割れた瞳孔が、まっすぐにこちらを見つめていた。 


 そのドラゴンは、大気が鳴動するほど大きく息を吸い込むと、稔とミサキ、ニニへ向けて火炎の波を吐き出した。


「くっ!」


 即座にニニは稔とミサキの前に立ち、両手を前へ突きだす。稔たちを覆う透明な黄色の障壁が現れ、炎から、熱から稔たちを守る。


 ニニは指示を出す。


「服部、炎は気にするな! 私が守る!」

「あいよ!」


 返事をしながら、服部は背中の細長い包みを解き、一本の大太刀さながらの剣を持って疾走していた。助走をつけ、軽々とドラゴンの体躯を駆けのぼり、跳びあがってドラゴンの首元を一閃する。


 そう、一閃なのだ。たったそれだけで、ドラゴンの首の根元は稔から見ても分かるほどぱっくりと割れ、服部はドラゴンの背中に着地する。服部はそのまま、ドラゴンの巨躯の向こうに降りて、稔たちからは見えなくなった。


 苦痛の大叫声を上げるドラゴン。


 その一撃は夥しい血液を迸らせ、アスファルトを焦がしたマグマに音を立てて飛びちる。激しい刺激臭と煙が立ちこめる中、怒りと敵を認識したドラゴンは標的を服部に変更し、血が漏れる首を真後ろへと回そうとして——。


「ニニブルカ・クンク・エフエジンが告げる! 縛鎖よ、悪しき敵を黙らせたまえ!」


 ニニの腕先から、ドラゴンの口を縛る大鎖が飛びだしていた。口を開けることも、首を振りうごかすことも叶わなくなったドラゴンは、足を踏ん張ろうとして、その足に力が入らないことにようやく気付き、ゆるりと背中から転倒した。


 ドラゴンの前後の右足を、服部があの大太刀で、文字どおりざっくりと切りさいていたのだ。マグマでアスファルトがほぼ溶けきった足場を渡り、だ。とても人間業とは思えない、素早い攻撃を終えた服部は稔たちの前に走ってきて、止まる。


「これだけ弱らせりゃ、返せるでしょうよ」

「うむ。急ぎ返そう」


 ニニは冷静にそう言うと、詠唱を始める。


「ニニブルカ・クンク・エフエジンが告げる。大竜よ、なんじゆかりの世界へと戻りたまえ!」


 赤く染まっていた巨大魔法陣は、今度は黄色に染めあげられ、光を立ちのぼらせる。


 まだもがいていたドラゴンの巨体はゆっくりと、光に溶けていった。

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