第7話 八月二十五日の業務 その一

 八月二十五日。


 今朝も変わらず、稔は服部に昨晩の夕御飯の残りである野菜炒めと白飯を食べさせ、出勤を促した。


 服部は夏休み明けの小学生のように「暑いから行きたくねぇなぁ」などと呟きながら、稔に背中を押されて——実際には稔の力程度では押してもほとんど動かないのだが——のろのろと駅へと向かう。


「今日から僕、明治神宮前で降りますから、ちゃんと出勤してくださいよ」


 稔がそう言うと、服部はなぜか面食らった顔をしていた。


「お前、ついにサボり癖が」

「違います。担当が雑司が谷なんです」

「ああ、そういやそんな話してたな。別に朝から押しかけなくてもいいんじゃね?」

「服部さん、まだ来て五日目の人を放置できますか? 今日ぐらいには新聞の押し売りにでも遭遇しますよ、きっと」

「何で昨日のうちに注意しとかなかったんだよ」

「昨日は昨日で色々あったんですよ……とにかく、降りる駅を間違えないでくださいね」

「小学生かよ!」


 ——年齢云々よりも、普段の態度と信用の問題だと思う。


 そんな調子で地下鉄に乗り、稔は明治神宮前駅で服部と別れた。雑司が谷駅に着くころには、午前九時を回っていた。


 ミサキの住むアパートの階段を昇り、二〇五号室の前に辿りつく。特に異変はないようで、稔はほっとした。玄関脇のポストを覗いてみたが、何も入っていない。


 稔はチャイムを鳴らして待つ。


 ミサキはすぐに出てきた。何の警戒心も持たずに。


「おはようございます、ミサキさん」

「あ、おはようございます!」

「僕以外で、誰か来ました?」

「いえ、来てませんけども……中、入りますよね?」

「お邪魔します」


 稔は巻上に倣ってすぐ中へと入った。そして忠告しておく。


「念のためなんですけど、知らない人が訪ねてきたら——扉の覗き穴から見て確認できるんですけど、してますか?」

「え、そうなんですか」

「今度チャイムが鳴ったら、確認してみてください。知らない人だと、新聞や宗教の勧誘の可能性が高いので、絶対に開けちゃダメです。ミサキさん、日本人に見えなくもないですし、まだ分からないことが多いから騙される危険が」

「……そんなの、聞いてなかったです」


 ミサキは恐怖でちょっとぷるぷるしていた。稔は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「言い忘れてました、すみません」


 稔は頭を下げた。新聞や宗教の勧誘は本当にしつこいのだ。ミサキの性格では追い返すことも叶わないだろう。


 気持ちを切り替えて、稔は台所や洗濯機周りをちらりと確認しながら、奥の部屋へ通される。ミサキは綺麗好きなのか、洗濯物一つ落ちていなかった。布団は部屋の隅に片付けられ、ローテーブルに開いたノートパソコンが載っている。


「何か調べ物をしてたんですか?」

「地図や画像を見ていました! 僕のいた世界は大きな海がなかったので、びっくりです!」

「へぇ……海がない!?」

「はい。氷海だらけで、それも小さいものばかりなので、こういう白い砂浜っていうんですか? 綺麗な青い海っていうのは見たことがありませんでした」


 それはまた奇妙な世界——と稔は思いかけたが、ミサキにとってはそれが当たり前で、こちらの世界が物珍しいものばかりなのだろう。


 ノートパソコンの画面一面に広がる検索サイトのマップ機能で表示された海と、カーソルを合わせて出てくる現地の明るい海の画像。確かに、一日中暇を潰せそうな組み合わせだ。


 稔はミサキを座らせ、今後の予定について軽く説明する。


「ええっと、今日は様子を見にきたことと、さっきも言いましたように不審者への忠告ですね。人が多いとどうしてもそのあたり注意しなければならないので、元の世界とは勝手が違うかもしれませんが、重々気をつけてください」

「はい。分かりました」

「それから、ミサキさんは魔法じゃなくても勉強が得意そうなので、多言語習得を目指してみてもいいかもしれません。元の世界に戻れるなら必要ありませんが、一応、そうでない場合のことも見据えて」


 稔は昨日の夜、巻上から来たメールでのアドバイスのとおりに喋っているだけだ。ただ、元の世界に戻ることを強く希望しているミサキに、『そうでない場合』を想定した道を示すのは、あまり得策ではないのではないか、と稔は感じていた。


 その稔が思ったとおり、ミサキはあまりいい顔をしなかった。


「うーん……?」

「あまり思いつめないで、今は趣味程度に考えてもらえればいいですよ。例えば、ネットを使うにも、主要言語は英語だったりしますから」

「そうなんですか。読めない文字が多いなぁ、とは思っていました」

「他の異世界人の方でも、ネットを楽しむために英語を学ぶ方もいるらしいですよ。完全に趣味ですね」

「何だか楽しそうですね……僕、そこまで吹っ切れないというか、ふとしたときに早く帰りたいと思っちゃって」


 ミサキは俯く。


 ——当然だ。転移先での境遇が大分マシとはいえ、京都駅の事件で異世界に転移させられた被害者とミサキはそう変わらない。むしろ、下手に希望があるだけ、焦れったく思えてしまうのかもしれない。


 ここは、どうにかミサキの気を紛らせるしかない、そう思った稔は、別の話題を切り出した。

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