第53話 八月三日

 八月三日、午前八時二十分。


 稔は服部とともに、代々木上原の駅への道を歩いていた。


 今日も今日とて服部は八時ちょうどに朝御飯をたかりに来たし、稔は稔でフレンチトーストを三人前準備して待っていた。服部に「一枚多くね?」と聞かれたが、稔は「服部さんが食べると思って」と言って誤魔化した。


 もう清花はこちらの世界にはいない。何となく、このひと月の習慣として三人前の朝御飯を用意していた稔は、ついうっかり清花の分まで作ってしまった、と正直に言うのは女々しい気がした。おそらく服部もそれを分かっていて、二枚目のフレンチトーストをそれ以上何も言わず平らげたのだろう。


 じりじりと昇ってくるアスファルトからの熱と、太陽の光が厳しい、夏真っ盛りの朝。


 ジャケットを脱いで、ワイシャツの両袖を捲っている服部が、ジト目で稔を見ていた。


「……暑苦しいから、上着脱げよ」

「脱ぎません。まだそんなに暑くないですよ」

「へーへー、着いたらニニ局長んとこ行って涼むかね」

「あそこ異常に冷房効いてません?」

「精霊はなるべく冷たいところのほうがいいんだとさ。それに個別空調付いてるの、あそこだけなんだよ」

「まあ、一日中いるわけですしね……クールビズの対極にありそうな部屋作って、よく怒られませんよね」


 あっはっは、と笑いあった後、稔はため息を吐いた。


 そんなこと、今の稔にはどうでもいいのだ。あれから一晩経って、朝起きても誰もいない生活に戻って、物寂しさを覚えて、そして騒々しい隣人が今朝も変わらずやってきた。


 ——さやちゃんはどうしてるだろうか。ちゃんとあちらの世界に戻れただろうか。


 ニニ曰く、こちらの世界とあちらの世界を繋ぐことは成功したそうだ。後は、飛んだ先がよほど辺鄙なところでもないかぎり、清花は自力で夫と子供のもとへ帰れるだろう、と。


 稔がいくら心配しても、清花が助かるわけでもなく、もう異世界へと旅立ってしまった従姉妹とは二度と会えない。異世界通行管理局員は、安全のため異世界渡航ができない規則も実はある。管理する側が好き放題異世界へ行ってしまうと示しがつかないからだろう。


 ——言われなくても、ドラゴンや鬼が闊歩する異世界へ渡航する度胸も力もないことくらい、自分が一番よく分かってる。


 稔は隣を歩く、ドラゴンや鬼をぶった斬る人間を思い出して、またため息を吐いた。人間、向き不向きがあるのだと、よく分かる例だとさえ思った。


「何か失礼なこと考えただろ、お前」

「考えてませんよ」


 服部は無駄に勘が鋭い、もはや野生の勘レベルだ。


 時刻は午前八時三十分。


 駅に着いた二人は、改札を通って階段を登る。そのまま三番線の先頭車両の列に並んだ。


 ひと月前と同じ、いつもどおりの日常が戻ってきていた。まるで、清花は最初からいなかったかのように、八月三日の日常は幕を開けた。

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