第52話 八月二日

 八月二日、午後八時。


 この日の通管業務の対象は人間のみで、大体二十人ほどだった。蔵野と倉橋が通管業務に当たっていたため、稔は清花とともに遠くから見ていただけで何の手伝いもしていないが、それは服部も同じで、三人で緑色の電車のところで別れの挨拶をしていた。


 清花はこちらの世界に来たときと同じ、緑色の長いローブを着て、身長よりも長い宝石のついた杖を持っている。


「やっぱり、帰っちまうのか」

「うん。拳次君はどうするの? こっちの世界でやっていけそう?」

「まあ、しばらくはな。まだまだお役御免にはならなさそうだしよ」

「そっか。もう会えないと思うけど、元気でね」

「お前もな」


 そう言うと、服部はフード越しに清花の頭を撫でた。清花は満更でもない様子で、「やめてよ」と言っていた。


 清花の言葉は軽かったが、『もう会えない』というのは重い現実だろう。清花はもう帰ってくる気もない、帰ってくる手立てがあったとしても、だ。


 この約二週間、稔はずっと清花を伯母のもとにどうにか連れていく手を考えていた。本人が口では望むまいが、それは諦めに近い納得だと思ったからだ。しかし、清花を傷つけずに伯母のもとへ連れていくのは無理だ、とも分かってしまっていた。


 ——せめてあとひと月あれば、また心変わりをするんじゃないだろうか。


 稔はそう思いもしたが、それだけを期待して、清花の帰還を取りやめさせることはできなかった。帰還を希望する異世界人がいるならば、できるかぎり速やかにその希望を叶えることが、局の方針だからだ。


 それに、こちらの世界とあちらの世界は流れる時間が違う。清花だって、早く夫と子供に会いたい思いがあるだろう。だから、今日、今がまぎれもなくタイムリミットだ。


 ——結局、何もできなかった。


「おい、上田。何一人暗い顔してんだ」


 稔は服部に背中を叩かれる。


「してないですよ」

「清花と別れづらいのは分かるけどよ、もう決めちまったもんは仕方ねぇだろ」

「……そうですね」


 稔は清花を見た。清花は微笑んでいる。


「そんな顔しないで、稔お兄ちゃん。確かにお母さんには会えなかったけど、皆の仇は討てた。それに、稔お兄ちゃんとの生活も楽しかったよ」

「うん……でも」

「でも、何?」

「さやちゃんは、またこの世界に来られるよ。それでも」

「それでも、私はあっちの世界に住むよ。もうこっちの世界には来ないし、来られない。私がひと月前にこっちの世界に来たとき、局長さんが倒れたでしょ?」

「う、うん」

「あれは私側から無理矢理こっちの世界に干渉しちゃったから、その影響を抑えるために局長さんが無理をしたの。そんなこと、何度もしちゃいけないよ。あの犯人と同じ、世界を壊すきっかけになったら大変だからね」


 それは、と言いかけて、稔は口を噤む。仕方がなかった、それに元々清花はこちらの世界の人間だから、他にも異世界人はいくらでもいる、そんなことは言い訳にしかならない。本当に世界が壊れかけるなどという、三年前のようなことになってしまう可能性を放っておけば、何のために異世界通行管理局があるのか分からない。


 スクランブル交差点の方向から、強烈な光が発せられる。ニニが今回の異世界渡航希望者を送ったのだろう。


 次は清花の番だ。清花の場合は指定する世界へ送るため、別便となったのだ。


「じゃあ、そろそろ行くね。本当に、稔お兄ちゃんも拳次君も、元気でね。もう、私のことは忘れてね」


 清花は左手を振り、杖を携えてスクランブル交差点の魔法陣の中心へと進んでいく。


 稔は一瞬、清花を止めようと手を伸ばしかけた。


 だが、服部に肩を掴まれ、止められた。何をするんだ、と稔は服部を睨む。


「止めてどうするよ。清花が選んだ道だぞ」

「それでも」

「ちったぁ頭冷やせ。おら、見送りに行くぞ」


 また稔の背中を服部が叩く。稔は咳き込みながら、一歩ずつ、重い足を動かす。


 清花は倉橋から通行証を受け取って、スクランブル交差点の中心にいた。歩道のギリギリの位置に、皆が並んでいた。


 こほん、と一つ咳払いをして、ニニが宣告する。


「これより、波木清花を送還する。戻りたい世界を思い浮かべなさい」

「はい」


 スクランブル交差点の巨大魔法陣の線に沿って、緑色の光が立ち上る。光は段々と強まり、清花の姿をあっという間に見えなくしていく。


 ——このままで、いいのだろうか。


「上田、声かけてやれよ」


 服部が稔へ囁いた。


 ——何を? 今更、清花の耳に何が届くというんだ。


「何でもいいからよ、最後がだんまりってのも締まりが悪ぃだろ」


 ——ああ、なるほど。そういうことか。


 稔は、大声で清花を呼ぶ。


「さやちゃん!」


 清花の姿はもう見えない。だが、清花に声が届いていると信じて、稔は叫んだ。


「大好きだよ! ずっと、忘れないから!」


 直後、目が眩むほどの光の奔流が、渋谷のスクランブル交差点を包み込んだ。

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