第一部 第五章 彼女の帰還

第51話 七月二十日

 七月二十日、午前十時。


 あれから六日、土日と海の日を挟んでいたため、稔はニニからの連絡を少し待たされた。


 連絡というのは、京都駅修学旅行生大量失踪事件に関する異世界通行管理局の最終見解案についての内覧だ。どんな事件で、結局誰が犯人で、どういう動機で、どのような犯行だったか。そしてそれに対する異世界通行管理局の対策はどうするか。ごく簡単に言えば、こういったことをまとめて上に提出する素案を、ニニや蔵野が作り、局内関係者に最終確認を取る作業なのだが、局内でのこの事件の関係者はニニと蔵野、稔、服部だけなので、すぐに済むだろうと稔は思っていた。


 実際には、蔵野が昔のつてを辿って、異世界通行管理局員として当時の捜査資料を読み漁るという面倒な作業を、休日返上でこなしてくれていたので、六日でも割と『すぐ』だったと後で稔は知ることになる。


 清花が台所で洗い物をしている間に、稔のノートパソコンにニニからメールが来た。すぐに開封し、稔は中身を読む。


 結論から言えば、稔の推論は『非常にその可能性が高い』ということだった。警察も手をこまねいていただけではなく、当時の京都駅の事件の被害者家族から聴取を綿密に行い、不審者との接点がなかったかなど——このあたりは倉橋のような宗教関係者の助言があったようだ——徹底的に調べていた。その上で、浮かびあがっていたのが、清花のクラス担任だった伊織美咲、当時二十六歳独身の交際相手だった。何でも、伊織美咲は京都駅の事件の一週間前に友人知人へ唐突に『彼氏ができた、同棲している』旨を伝えており、『担任の学年が修学旅行前で忙しいので、帰ってきたら紹介する』と言っていたようだった。これは伊織美咲の友人知人が証拠としてSNSの画像を警察に提供していたので、間違いないらしい。


 ただ、その彼氏とやらの画像や詳細な情報は一切友人知人に知らされておらず、伊織美咲という女性はどちらかと言えば大人しい性格だったので、周囲を大いに驚かせたようだった。そして、同棲していたという彼氏は、事件後姿を消していたため、警察が一応行方を追ったものの、見つけることはできなかったという。


 ——これを偶然で片付けるには、できすぎてるよな。


 それは京都駅の事件の犯人が弟子を使って、それも魔法が使える人間だったということを推測、知っている稔だからこそ不審に思えるのであって、当時の捜査関係者には伊織美咲が犯人の弟子の協力者である、と結びつけるのは無理難題だっただろう。そこは責められない。それに、京都駅の事件の被害者数は百八十一人、その全員の周辺を調査すること自体、並大抵のことではない。


 当時の捜査関係者の苦労を偲びながら、稔はメールの続きを読む。


 どうやら、ニニは休日の間に犯人のいた世界を司る精霊のもとへ行き、京都駅の事件の説明とその世界の生き物——魔法人種とやらも人間も——が同じ行動を取らないよう見張っていてほしい、と依頼したらしい。その精霊は事件を重く見て快諾し、今度は一切そのようなことがないよう世界の中で警告を発しておく、と言ったようだ。これで一安心と言ったところか。


 そして、ニニはメールの最後にこう付け足していた。


『次の満月の夜は八月二日だ。その日をもって君の異世界人担当業務は終了し、翌日から通常業務に戻ってもらう』


 そこで初めて、稔は気づいた。


 ——そうか、さやちゃんが帰る日まで、もう二週間を切ってるんだ。


 あれからあまりにも平和な日常を過ごしていて、すっかり稔は忘れていた。あの日、清花はあちらの世界に戻る決心をしたのだ。今もそれは変わっていないだろう。


 稔はノートパソコンをベッドの上に置き、台所に向かう。ちょうど洗い物を終えた清花が振り向いた。


「どうしたの? 稔お兄ちゃん」

「あ……いや、さっき、ニニ局長からメールが来て」


 稔は先ほどのメールの内容——京都駅の事件についてを掻いつまんで清花へ伝える。清花はやはり、複雑そうな表情で「そう」と言っただけだった。自分のクラスの担任教師で、ましてやその死を目の前で見ている人間が犯人の協力者だった、というのは、決して清花にとって明るい話題ではない。


 それと、稔ははっきりと、次の満月の日を伝える。


「八月二日の夜、さやちゃんをあちらの世界に送るらしい。それまでに、やりたいことがあれば」

「ううん、もういいよ。ご飯の心配も寝床の心配もせずに済んでるから十分。京都駅の事件の犯人を捕まえるのだって、局長さんや稔お兄ちゃんが協力してくれたし……あ、あっちの世界に戻ったら、皆には元の世界に戻れなかったってちゃんと伝えるから大丈夫」

「さやちゃん、もっとわがまま言っていいんだよ」


 清花は首を横に振る。


「もうそんな年齢としじゃないよ。散々迷惑もかけたって分かってる、ごめんね」


 ——さやちゃんは何を言ってるのだろうか。


 稔は何かを言おうとして、何を言えばいいのか、何の言葉が清花の心に響くのかも分からず、黙った。


 稔と清花の間では、稔の伯母である清花の実母のことはもはや禁句だった。清花が会わないと決めたのであれば、稔は決心を揺らがせることはしたくなかった。もし清花が何かを言ってほしかったのだとしても、結局は残酷な結末にしかならないのだと分かっているからだ。


 ピー、と洗濯機の洗濯が終わった音がした。


「あ、洗濯物、早く干さなきゃ」


 清花の言葉に、稔は我に返って、身をよじって清花を通した。ぱたぱたと廊下を歩き、清花はドラム式洗濯機を開けて中身をカゴに取りだしている。


 平和なひとときだった。誰かの心の犠牲の上に成り立つ、いびつな平和だ。だが、それが分かっていても、稔にはどうすることもできない。


 ——結局のところ、さやちゃんがいなくなった約三年前から、僕は何も変わってない。


 清花の気丈さが、逆に稔の心に影を落としたまま、八月二日を迎えようとしていた。

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