第30話 七月五日 その三 《昼》

 午後一時。稔と清花は、ジャケットをちゃんと羽織った服部を駅まで見送った。ちゃんと出勤するかどうか確かめる意味合いもあった。


「じゃあな。今晩の飯、俺の分も作っといてくれ」

「どうしてですか。自分で作ればいいでしょう」

「いいじゃねぇか。カレーな、カレー」

「だめです、昨日食べたからそうめんです」

「尚更俺呼べよ!?」


 どうやらそうめんも服部の好物のようだった。余計なことを言ってしまった、と稔は反省する。


「いいか、絶対だからな! 今日は定時で帰るからな!」

「いいから行ってください」


 どうせ残業する仕事もないくせに、とは稔は言わなかった。反省を活かしてのことだ。清花がくすくすと笑っている。


「そうめん、買って帰ろうか」

「うん、そうだね。拳次君が来るなら、三つぐらいいるよ」

「……普段、何食べてるんだろうなぁ」


 服部は自炊するような性分でもないだろうし、おそらくコンビニ弁当や総菜屋で済ませているだろう。三十歳独身の食卓事情なんてそんなものだ。いや、厳密には今年十八歳なのだが。


 稔と清花は、近所のスーパーマーケットへ出向く。いつも稔が通っているところだ。


 清花にとっては、久しぶりのスーパーだろう。どことなく、足元が浮かれている。


「私、そうめん探してくるね」


 そう言って、清花は一足先に店内へと早足で入っていく。稔は野菜売り場から順番に回り、小口葱や生姜、安売りのレタス、トマト、めんつゆと買い物カゴに入れていった。戻ってきた清花は、そうめん三袋とチョコレート一袋を持っていた。


「あ、あのね、安売りでね、美味しそうだったから」


 清花が可愛らしい言い訳をしているうちに、稔はそれらを受け取って買い物カゴに入れた。


「他に欲しいものがあれば、持ってきていいよ」


 ぱあっと、清花の顔が輝く。


「台所の醤油とみりんが切れかけてたから、持ってくる!」


 そういうことじゃなくて、と稔が言う前に、清花は駆け出していった。


 重くなった買い物カゴを持って、稔が会計を済ませていると、なぜか清花は驚いていた。スマホで決済をしたからだろうか。今はもう、どこの小売店でも当たり前にキャッシュレス化が進んでいる。


「三年前とは違うんだね……!」

「まあ、そうかもね。そっちの野菜の袋持ってくれる?」

「うん」


 レジ袋も実は一枚二円だということを教えると、「それは知ってた」と清花は笑って、「今度から買い物袋持っていこう」と言った。


 稔から見て、清花の今のこのときが楽しいものであるということは、間違いなさそうだった。


 だが——清花には、あちらの世界に残してきている家族がいるということを聞いてからというもの、稔は素直に喜べなかった。もちろん、清花にそれを気取られないよう、稔は細心の注意を払った。一旦荷物を家に置き、清花を残して稔はクリーニング店に足を運ぶ。清花の着てきた服と、自分のスーツをクリーニングに出すためだ。


 何分、金糸の刺繍が施された緑色のローブはクリーニング代が高くついた。専門の工場に出さなければだめだ、と店員は受け取りつつも感心していた。他に稔が持ってきた清花の服も見て、シルクやら皮革やら特殊なものが多く、結局のところ最低一週間と少しかかって三万円というとんでもない価格になったことは、清花には秘密にしておこう、と固く決心した。


 帰り道、稔は小学生や親に連れられた幼稚園児とすれ違いながら、稔は清花の家族について思いを馳せた。


 ——旦那さんはともかく、子供を残してくるのは、清花も辛かっただろうな。何歳くらいの子供なんだろう。


 とはいえ、それを今の清花に尋ねるのは、憚られるような気がした。まだこちらの世界に来て二日、あちらの世界から離れて十年近く経っているという話も聞いた。その間、清花はたった一人で、見つかるかどうかも分からないこちらの世界の手がかりを探しつづけ、今の年齢になっている。


 あちらの世界とこちらの世界、もし繋がるようになれば、京都駅修学旅行生大量失踪事件の被害者たち、生き残っている者ならば、こちらの世界に戻ってくることができるようになるかもしれない。


 しかし、服部の言ったように、どちらの世界に比重を置くか、どちらの世界に未練がないか、帰還者たちは二者択一の選択を迫られる。それに、もし、下手に希望を見せるよりは、と上が判断すれば、清花はどうなるのか。


 稔は、いっそのこと、すべての疑問をニニへぶつけたい気持ちに駆られた。そのニニが上とどんな折衝をしているのかなど、下っ端の稔にはまったく分からないが、服部という帰還者の前例があるのだから協議くらいしているはずだ。帰還後四ヶ月も経って何もしていない、ということはまずないし、帰還者公表の可否を論じることはしているようだから、進捗具合くらい分かってもいいものだが——真っ先に知らされるであろう服部に聞いても埒が開かないだろうことくらいしか、稔には判断がつかなかった。


 服部を酔わせて聞きだそうか、とも稔は思ったが、生憎と稔自身アルコールがだめだし、後で蔵野あたりに知れたら大目玉を食らうのでやめた。人間、できることとできないことがある。


 とにもかくにも、稔は家路を急いだ。考えることはまあまあ得意だが、あまりにも手持ちの情報がなさすぎて堂々巡りになる。


 夕刻の湿気った匂いを嗅ぎ、遠くで鳴る夕焼け小焼けのメロディに耳を傾けながら、稔は気持ちを切りかえた。

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