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F。

第一部 序章

序章 二〇二〇年九月二十日 《渋谷》

 二〇二〇年九月二十日、早朝。


 東京渋谷のスクランブル交差点全体に、突如巨大な光る魔法陣が出現した。


 まだ早朝ということもあって、まばらな人通りだったスクランブル交差点には誰も近づかず、人々は本能的に魔法陣を回避し、元来た道を速やかに戻っていった。


 その異変を察知した渋谷駅前交番から要請を受け、機動隊が出動。一時間もしないうちに道玄坂、井ノ頭通り、宮益坂、渋谷駅方面を封鎖する決定が下された。


 これはのちに渋谷スクランブル交差点魔法陣事件と呼ばれる騒動の、ほんの一幕である。







 渋谷スクランブル交差点および近辺の迅速かつ徹底的な民間人の退避とバリケードの構築。


 蔵野己之助くらのみのすけはその陣頭指揮を執っていた。


 バリケードは民間人の侵入を抑えるためのものであり、決して光る魔法陣対策ではない。


 本庁からの指示によれば、魔法陣には一切触れるな、触れさせるな、とのことだ。すでにSNSで拡散されたものはどうしようもないが、現在は報道のテレビカメラもドローンも何もかも一切排除され、民間人には目視すら許されないそれは、昼前になってもまだ光っていた。


 誰もいない渋谷の街に、誰も見たことのない文字の羅列と緻密な紋様で構成された金色に光る丸い魔法陣。ハチ公像から渋谷駅前交番、そして反対側の本屋二店舗前まで届く巨大さ。現実のものとはとても思えない、幻想的な眩い風景。


 そんな景色に、蔵野は暗澹たるため息を吐きそうになったが、部下の手前ということもあり、我慢した。警備担当者に交代して昼食を摂らせるべく、蔵野が指示を出そうとしていたときだった。


 渋谷駅構内から、突然、神主と坊主が現れた。狩衣姿と法衣姿、着ている装束が違うだけで、どちらも脂ぎった中年で、蔵野とそう年齢は変わりそうにない。


 蔵野は建前上、会釈をして、好意的に対応する。一昨日、神主は酒田さかた、坊主は鬼怒きぬと名乗っていたからだ。


「酒田さん、鬼怒さん、上からの出動要請ですか」

「ええ。ああ、上といっても、警察だけでなく、神社本庁のほうも、ですが」


 酒田は鬼怒に目配せをする。鬼怒も頷いた。


「うちもそうですわ。何、ここまで大事になると、教えも何も関係あれしまへん。どれ」


 ひょい、と鬼怒は蔵野の肩越しに、光る魔法陣を覗く。だが一目見た途端、「あらまー」と額に手を当てて声を漏らしていた。酒田も同じ調子で、何やら眉根を寄せていた。


 ——こいつらには何が見えているんだ。


 蔵野は不気味に感じつつ、二人の見ている先を同じように眺める。


 いつもの渋谷を、物々しい雰囲気と光る魔法陣が異様な色に染め上げていた。


 ついに酒田がため息を吐いた。鬼怒も首を横に振る。


 嫌な予感はしていたが、蔵野は二人に問う。


「どうですか?」

「どうもこうも、これはだめです。無理でしょう」


 酒田は早々に諦めていた。


「異常ですわ。今まで消してきた魔法陣と違います」


 鬼怒は頬肉を揺らして、両掌を天に向けた。


 降参、とばかりの態度と言葉に、蔵野は「何しに来たんだこの野郎ども」という思いを持ちつつも、二人の様子を見てただ事でないことは察していた。


 一昨日の説明を、蔵野は思い出す。


 鬼怒が言ったように、今まで、つまり最初に確認された九月十日から今日二十日まで、日本全国に限らず世界中に魔法陣というものが出現していた。それを消して回るのが酒田や鬼怒といった宗教関係者の役目である。今現在日本全国で起きている魔法陣事件には、日本国政府が把握している宗教関係者が総動員されており、魔法陣を消すには払うなり経文を唱えるなりするしか方法がない、と。


 そんな馬鹿な、と蔵野もそのとき思ったが、目の前で書かれた小さな魔法陣を蔵野がどう頑張っても消せず、酒田がぼそりと何かを唱えただけで剥がれるように魔法陣が消えたという超常的な体験をしていなければ、とうに蔵野はこの二人をバリケードからできるだけ遠くまで追い出していただろう。


 そして最大の問題は、その魔法陣が『人を飲み込む』ということだ。ここ十日、マスメディアを騒がせている連続失踪事件、その現場には必ず魔法陣が残されており、テレビでは大きく『神隠し』事件、とまで叫ばれていた。


 蔵野は内心苦々しく、そんなテレビの報道を見るたび電源を落とすほど神経質になっていた。


 ——馬鹿馬鹿しい。『神隠し』に神主やら坊主が出てくるなんざ、令和の世の中が一気に昭和に戻ったようだ。


 蔵野とて無神論者というわけではない。大晦日正月にはお参りもするし盆には実家に戻るし、クリスマスも家族と楽しむくらいはしていた。世間はそれを節操がないとなじるわけでもなく、それが当たり前の感覚だと蔵野も分かっている。


 だが、目の前にいきなり、『魔法陣事件と失踪事件を解決するべく派遣されてきた神社の神主と寺の坊主』を連れてこられては、当然困惑する。


 ——天下の桜田門が、よりによって宗教勢力と思しき怪しい一団に事件解決を頼る? 冗談じゃない。上は何か思い違いをしているのではないか。それか、マスメディアの使う『神隠し』という言葉を本気で鵜呑みにしているのか。


 聞けば、今朝、またその失踪事件があり、京都のほうで、それも修学旅行生一行が一度に消えたという情報まで蔵野の元へ飛び込んできていた。もはや、事態の収束は一刻を争う。


「するとお二人は、もう打つ手がない、と?」

「ええ」

「残念ながら」

「それでは困ります。何か、方法は」


 蔵野の目の前を、光がはしった。


 蔵野は光源、光る魔法陣を凝視する。どうにも、まずい。魔法陣を構成する線に沿って、何度も何度も光が凄まじい速さで行き来しはじめたのだ。


「あかん! 蔵野はん、早う逃げな!」

「分かっています! 全員、魔法陣から少しでも離れろッ!」


 蔵野をはじめ酒田と鬼怒、それまで魔法陣の前のフェンスにいた警察官たちも、すぐさま渋谷駅構内や幹線道路へ向けて走る。最後尾の蔵野がまばゆい光に飲み込まれそうになりながらも、何とか改札までたどり着いたとき——全員が振り返った。


 即座に酒田が何かを唱えはじめる。祝詞なのか何なのか、蔵野には想像もつかない。鬼怒もまた、懐から取り出した経文を広げて唱えはじめた。二人の合唱は、その先にある光の塊、魔法陣の中央にいる黄金色の何かに向けて発せられていた。


 それは形を変え、光が失せてやっと、人型をしていることが見てとれた。


 黄金色の巻き毛の長髪に絡まる花弁と蔦、淡く光る肌は灰色の薄衣に包まれ、否が応にも蔵野のほうへ向けられている瞳からは目が離せない。


 ——人間? いや、違う。何だ、あれは。分からないが、人間ではないことだけは確かだ。


 蔵野は本能的にその生き物が人間でないことを見抜いた。勘だ。とにかく、目を逸らせば何が起きるか分からない。


 その生き物は、一つ伸びをして、指を二つ鳴らした。


 途端に、合唱していた酒田と鬼怒の顔面が凹み、吹っ飛ばされる。


「な……!」


 その生き物は、大きな声で、蔵野へ向けて話しかけてきた。


「その二人はうるさいから黙らせたわ。気を悪くしないでちょうだい、私だって忙しいんだから」


 女言葉、それに若い女の張りのある声。


 ——そうだ、言葉が通じる。


 そのことに気づいた蔵野は、問いかける。


「君は誰だ! 何をしている!」


 蔵野はゆっくりと歩を進める。魔法陣の光は、だんだん弱まっていっているようだった。


「見てのとおり、この魔法陣を閉じているのよ。こんなもの、放っておけないでしょう」

「君が作ったわけではないのか」

「はあ? 私だって巻き込まれたのよ! 何だってこんなところに私が来なきゃいけないの!」


 最後の、「の!」と言う瞬間、その女のような生き物は拳を魔法陣に叩きつけた。


 パキン、という盛大に馬鹿でかいガラスを叩き割ったかのような音が、渋谷の街に響く。


 ほぼ同時に、光る魔法陣は、消え失せ——てはいなかった。光が消えただけで、しっかりとスクランブル交差点を中心に黒い線が描かれている。


「はい、これで一応は閉じたわ。私も帰れなくなったけれど」


 蔵野はその女のような生き物の十メートルほど手前まで近づいていた。


 何者かはともかく、酒田と鬼怒がどうしようもないといっていた魔法陣が、あっさりと片付いた。いや、正確には片付けきっていないのだろうが——今はこの状態が最善なのかもしれない。


「閉じた、というのは、この魔法陣が無効化されたということか?」

「少し違うわ。私の権能は異世界と通じる魔法陣を管理することじゃないし、仕方ないから一時的に魔法陣を機能停止にさせたの。えーと、これで分かる?」

「あ、ああ……ともかく、我々は君に助けられた、ということだな?」

「理解が早くて助かるわ。ええそうね、でも一時的にだから、一ヶ月に一度は開くと思うけれど」

「何!?」

「困るでしょう? このしっちゃかめっちゃかで冥界にまで繋がる魔法陣が、誰の管理下にも置かれずに起動すると思うと、ぞっとするわ。だから、私が管理します」


 その女のような生き物は、少女のような笑みで、蔵野にそう言った。


 管理します、ということは、管理しなくてはならないものであり、蔵野たちの手に負えるものではない、ということに他ならない。


 ——さあ、こいつは困ったぞ。どうせ何を言っても無駄だ。


 しかし、蔵野の一存ではどうすることもできない。なので、蔵野は通じない無線ではなくスマホを取り出し、直属の上司に電話をかけた。


 蔵野の上司たちも、警察が設置したカメラで状況は把握、していないかもしれないが、女のような生き物が何かをして魔法陣の光を消したことは理解できているだろう。


「蔵野です。ご覧になりましたか。あの魔法陣は『一時的に閉じた』そうです。ええ、しかしこれから管理が必要なようでして……何なら代わりましょうか?」


 電話口で蔵野の上司は、そのまま交渉を続けろ、と言った。


 蔵野は「くそったれ」と叫びたいのを我慢して、女のような生き物にさらに質問を続ける。


「何となくだが、状況は分かった。だが、管理というのは、どういうことか、説明してもらってもいいか?」

「はあ、そこから? もっと上の人間出しなさいよ」

「悪いが、そこから話してくれ。上の人間は協議中だ」

「まあいいわ。私はね、違う世界から来た、精霊の一種よ。少しだけ、他よりいろんな世界を回ったりできる」

「せい、れい?」

「そう。あんまりにもこの世界を中心にいろんな世界への扉が開いていたから、びっくりして様子を見に来たの。そしたら、今のこの魔法陣、異世界にも冥界にも繋がるとんでもない代物だったわけ。それが開きっぱなしだとどうなるか、想像できる? 間違いなく、この世界は異世界のモンスターと霊魂だらけになって、人間は絶滅していたわ。まったく……いえ、話を戻しましょう。管理とは、一時的にしか閉じられないのであれば、毎月閉じ直せばいい。少しずついじればいい。それを管理と呼ぶことにしましょう」

「なるほど。それはごもっともだ。だが君にも事情があるのでは? ここに居続ける義理もないだろう」

「義理はなくとも見逃せません。それに、百年もすれば魔法陣は消えるでしょうから、百年くらい精霊の私にとっては大した時間じゃないわ」


 百年を大した時間ではないと言い放ったに思うところもないではないが、蔵野はこの案件は確かに人間の手には余ると感じはじめていた。


 蔵野の上司は——いや、そのまた上の上が、何かを言ってきたらしい。曰く、その案に乗る、と。世界最大の人の往来を誇る渋谷をいつまでも封鎖しておけない、と判断したのだろう。


「分かった、君の提案に乗ろう」

「あら、もっと駄々をこねられるかと思ったら、そうでもないのね」

「上の決定だ。ああ、そうそう、私は蔵野だ。君は何と呼べばいい?」


 はにっと笑い、答えた。


「時と波紋と現世の精霊、ニニブルカ・クンク・エフエジンよ。ニニでいいわ」


 こうして、二〇二〇年九月二十日午後〇時二十七分、蔵野たち警察は異世界の精霊の協力により、渋谷スクランブル交差点魔法陣事件に終止符を打つこととなった。


 だが、事件は終わっても、魔法陣の管理は終わっていなかった。

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