第7話 何でもない日でした。(その3)

 丘をのぼり、門をくぐって砂利道を走る。追いかけてくる者はもういない。それでも、私は走るのを止めなかった。湖に行ったときはいつも、裏口からこっそり入ってそのまま部屋に戻る。特に今日は、誰にも見咎められたくない。私は、館の正面玄関には向かわず、庭園ガーデンの方向へ走っていく。

 

 ブナの木々を抜けると、咲き乱れるダリアの花のそばでまーくんが立っていた。相変わらず、真っ黒なローブを着て、ぼんやりと足元を見下ろしている。蝶がゆっくりと舞い、彼の肩に止まる。まるで時間の流れが極度に遅くなったみたいだ。私は、足を止めて、魅入られたように彼を眺めていた。あんなに逸っていた心が凪いでいく。


「やぁ、お帰り。」


 まーくんがゆっくりと顔をあげて、こちらを見る。


「『お帰り』はこっちの台詞だよ。こんなに長い間どこほっつき歩いていたの?」


「そんなに長かったかな?」まーくんは、怪訝な顔をする。


「長かったよ。最後にあったのは何か月も前だもん。」


 私は、飛びつきたいのを我慢して、あえてゆっくりと近づいていく。まるで、手を出したらすぐに逃げてしまう猫に近づくみたいに。そして、手の届くところまで到達すると、そっとローブの端を掴んだ。


「どうしてずっとそばにいてくれないの?」


「なんで僕があんたのそばにずっといなきゃいけないわけ?」


 まーくんは、質問に質問で答える。私は言葉に詰まった。そりゃそうだ。まーくんが私のそばにいなければならない理由なんてない。なんて面倒くさいことを言ってしまったんだろう、とひどく後悔する。だけど、まーくんの顔を見ると、私は嬉しくて、その反面無性に寂しくて、それに今日はいろいろなことがあったから混乱もしていて、こんな変なことを口走ってしまったんだ。


 何を言ったらいいか分からずに下を向いていると、ぐいぐいと頬っぺたをローブの裾でこすられる。


「な、なに?」


「水、だと思ったら、涙だった。」


「何言ってるの? これは水だよ。さっき、水飛沫がかかったから。」


 あれだけ走ってきたのに、まだ水滴が残っていたらしい。そんなに濡れたのかと思い、顔や髪にやろうとした手をまーくんにやんわりと握られた。


「まー……。」


 ベロリという湿った感覚があって、一瞬かがみ込んだまーくんの顔が私の顔から離れていく。


「やっぱり涙だよ。しょっぱいからね。」


 私は、固まったまま手だけ動かし、ペタと自分の頬に当てた。まーくんは、その様子を無表情で見下ろしている。


「おい。」


「なに?」


「いま私の頬っぺた舐めた?」


「舐めたよ。」


「なんで?」


「水か涙か、確認するために。」


 どうして今日はどいつもこいつも、かくも私を困らせるのか。私の中で何かがプツンと切れた。せっかく我慢していた涙が、私の目にブワッと溢れる。


「うわっ、また出てきたっ。」


 なぜかはしゃいだ声を出すまーくん。私の頬を挟み、涙が流れるそばから舐めとっていく。私はどこからつっこみを入れていいやら分からず、されるがままになっていた。


「ねぇ、まーくん。それで、今日はどうして来てくれたのかな?」


 私はふと思い当たって尋ねる。彼の訪れはいつも唐突だが、必ず理由がある。


「あぁ。」


 彼は生返事を返してから、ポツリと「夏が終わるから」と言った。私の頬を新しい涙が伝う。


(私は、なんで泣いていたんだっけ。)


 ベドビアの寂しそうな横顔が気がかりだった。パーシーという、やっとできた年の近い友達を失った。ランスロットの笑顔が怖かった。


 でも、それだけじゃない。

 だから、あなたは来てくれたのよね?

 夏の終わりに一番変になるのは、私だと知っているから。


 止めどなく涙を流す私と、それを美味しそうに飲むまーくん。私たちの顔は、ものすごく近い。まるで、睦み合っている恋人たちみたいだが、その実は、好物にありついた獣と、抵抗を諦めた獲物でしかない。


「私の不幸が美味しい?」


「ああ、美味しいね。他には何もいらないって気分になる。」


「そっか。じゃあ、もっとたくさん食べて。」


 私は背伸びをして、かがんでいるまーくんの背中に腕を回した。まーくんの瞳が少し揺らぐ。水銀で満ちた盆が揺らぐように、それは美しいきらめきを放つ。


 私とまーくんは一つになったみたいに身を寄せ合って、長いキスを交わした。













 





 

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