第5話 粒子化
バイクを飛び降りながら、ああ、まずいな、とウサギは思った。
死を覚悟したのではなく、ただこの場から逃げたいがためだけの愚行。それを、ウサギの目の前の中年男は実行しようとしていた。
「カメ」
彼に似つかわしくないぼそりとした声でウサギは言う。Aという錠剤で強化された両の目が、ゆっくりと男の人差し指の動きを追う。
――なるほど、自分一人であったなら、男を救うまでは至らなかったのだろう。
それだけは、認めてやっていいのかもしれない。
ガキン、と金属と金属がかち合う音が響く。
同時に拳銃はあっけなく男の手から離れ、床を滑って行った。
「……まったく、お説教は苦手分野なんだがねぇ」
硬質化した足を突き出したカメが、イヤミったらしく男を睨みつける。
「いい年した男が恥ずかしくないのか? 好きなことを好きにやって、いざ追い詰められたならママの名前を呼んでサヨナラかい。自分の行動に責任を取る、これが最低限の大人の条件だというのに」
「……二人、いたのか……!」
「その通り。最初にこのアホがガラスを突き破った時に、僕はドサクサに紛れて侵入していた。それにすら気づかないとは、よっぽどそのバナナは美味しかったんだな」
唇を捻じ曲げ、カメは笑う。死ぬ手段も逃げ道も絶たれた男は、もはや抵抗する気力すら萎えたようで、ガックリとうなだれた。
ようやく、こちらの勝利である。ウサギは安堵に肩の力を抜きつつ、男と同じ目線の高さにしゃがみこんだ。
「ただのバナナ大好き坊やにこんな事したくないけど、規則だからな」
「……」
専用具で手足が拘束される間も、男はうなだれたまま何も言わない。完全に敗北を認めたのだろう。あるいは、スリープにぶち込まれるショックに絶望しているのかもしれない。
その姿に、ふと一つの疑問がウサギの頭をもたげた。
――この男の名は、何というのだろう。
「おお、ウサギよ。無事に大捕物が終わったようだな。あとはとっとと太陽君達に引き渡して、僕たちはめでたくクソつまらん日常へと戻ろうか」
あくびをしながら大型バイクに戻ろうとするカメだったが、ぐんと服の裾を引っ張られ足を止める。振り返ると、男から目を離さないままのウサギがカメの服を掴んでいた。
「なんだ。幼児退行か、ウサギちゃん?」
「うるせぇなお前は。まだこいつの名前を聞いてねぇだろ」
「ハン、必要無いだろう。これから楽しい楽しい夢の国に誘われる中年君の名前など……」
「ねぇねぇボク、お名前なんてぇの?」
「聞けや」
ウサギの問いに、男はぼんやりとした目で彼を見上げた。
「なまえ……?」
「そうそう、名前。あるだろ?ちなみにオレの名前はウサギってんだけど……」
「なまえ……なまえ? あれ? あれ……」
男の瞳が混乱に揺れる。奇妙に思ったウサギが次の言葉を投げる前に、男は取り乱したように呟き始めた。
「そんなはずは……! だって、僕はしがないサラリーマンで、小さいけど家を持ってて、子供だって……子供? 何人? 性別は? 妻は? 妻の名前は? 会社の名前は? 親の名前は? あれ? あれ? あれれ?」
――様子が、おかしい。
目の前で繰り広げられる異変に二人が動けないでいる中、正気を失った男はウサギに倒れこんできた。
開き切った瞳孔に、引きつった顔をした老人の姿が映り込んでいる。男は拘束具の下で芋虫のようにうねりながら、泣き叫んだ。
「どうして!! どうして僕には名前が無いんですか!! IDだけじゃなく、名前まで僕には与えられないというんですか!!」
「お、お、落ち着いて!」
「こんなにお腹が空いているのに! こんなに人が憎いのに! なんで! なんでだ!!」
「ウサギ、離れろ!」
カメの鋭い言葉に、ウサギは身をよじって男から飛び退いた。もたれかかる柱が無くなった男は、あああああと泣きながら床に倒れこむ。
「データがありません、データがありません、データがありません、データが……」
意味の分からない言葉に、ウサギの肌が粟立つ。これは、なんなんだ。一体何が起こっているというんだ。
とにかく、一刻も早く彼を太陽の元に連れて行かねばならない。そう判断したウサギは、男の拘束具の取っ手を掴んだ。
が、移動させようとする前に、第二の異変が起こってしまう。男は数秒前の激情では考えられないほど無機質な声色で、空に向かって言った。
「異常を検知。消去を開始いたします」
「は?」
「皆様、今までどうもありがとうございました。良い人生でした」
「な、何を……」
「3、2、1」
ゼロ。
その音が男の口から飛び出た瞬間、拘束具に包まれた男の体が粒子化し始めた。慌ててそれを掴もうとしたウサギだったが、カメに後ろから襟首を取られ阻止される。
「何するんだ!」
「バカが! 得体の知れんものを触ろうとするんじゃない!」
「このままだと逃げられちまうよ!」
「お前という能天気は、まだあれを逃亡と捉えているのか」
二人が言い争っている間に、男の体はどんどん崩れてただの粒になっていく。カメの骨張った手が、ウサギの金髪を掴んで男に向かせた。
「……死んでるんだよ。見ろ、あんなことになって生きているヤツなんているか」
「……!」
息をのむ。顔の半分が粒子になった男は、もはや何も喋らない。ただ、ウサギには、その目の中に助けを求めるような色が見えた気がした。
「初仕事は失敗だな。ああそうさ、僕たちは太陽君らに大層怒られるだろうよ!」
強張るカメの声も、決して任務失敗の無念が理由では無いのだろう。
「いずれにしても、僕たちの処遇が変わらないだろうのはこれ幸いかな。なんせ今より下なんて存在しない」
「……」
「オラ、ウサギ。返事ぐらいしろ」
カメにスパンと頭を叩かれ、ようやくウサギは我に返る。カメの仏頂面を見上げ、恐る恐る問いかけた。
「……なあ、カメ」
「なんだ」
「彼は、人間だったのか?」
その問いに、カメは心底つまらなそうに吐き捨てる。
「知らん」
あるいは、ただの虚勢だったのかもしれない。
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