第60話 さようなら愛しき家族
「ミーシャ?!」
突如ミーシャの口から放たれた人外の叫び声―いや、雄叫びに驚いたアルクは腕に抱く妹の変貌に目を白黒させ、思わずその手を緩める。
「くっ…アルクさん、離れて!」
ミーシャの突然の病の進行を先ほど、スキンヘッドが投げたナイフに塗られていた毒の効果だと判断したシノアはアルクをミーシャから引き剥がし、数歩下がった。
「グギガ…イタ…イ…タスケテ…シノ…オニイ…クル…シイ…オニイチャン…」
シノアとアルクの視線の先、くぐもった声で苦し気に悶えているのは、ミーシャであってミーシャではない。
小さくとも凛とした強さがあった背中はゴツゴツとした背骨が飛び出し、可愛らしく幼かった手は固い皮膚と毛に覆われ、指先には人など簡単に切り裂けそうな爪が突き出し始めていた。
段々と人間でなくなっていく妹の姿にアルクは言葉を失いその場に跪いた。
ただ一人の家族、親を失い自分が守ると誓った存在が今目の前で散ってしまったのだ。
そのショックたるや人が許容できるものではない。
「み、見よ!わかったか村人たちよ!これが異形の姿だ!」
ミーシャの変身に驚き茫然としていた村長だったが、まだ生き残っている村人たちを煽り立て自分から注意をそらそうと努力する。
しかしそれを許すシノアではない。
この場にいる全員を即座に殺しかねないほどの殺気を放ちながら、桜小町を持つ手に力をこめる。
「よくも…」
「ひっ…よ、よせ!私を殺せば後悔するぞ!きっと、貴様に神の天罰が―」
シノアに標的として定められ焦る村長だったが、シノアから殺される心配はなくなった。
「グルルルゥゥ…」
「ガハッ…き、きさ、ま」
突如動いたミーシャーいや、黒獣によって心臓を貫かれたのだ。
獣の爪に胸を貫かれ、ゆっくりと訪れる死を彼は地面に這いつくばって感じることしかできない。
愚者に相応しい最期である。
「ミーシャちゃん…もう意識が…」
「そんな…ミーシャ…嘘だろ…」
村長の胸を無造作に貫いたミーシャを見て、シノアとアルクは絶望する。
彼女がもう、ミーシャではなくただの獣と化してしまったことを。
「ひぃぃっ!化け物!来るな、来るなぁあぁあ!!」
「ギャアァァ!腕が!腕がぁぁ!」
「ギュオオオ!!」
村人たちを無残に喰らい、血色の雄たけびを上げる黒獣。それはもはや人間としての面影を一切残しておらず、完全なる獣と化していた。
黒獣は村人たちを満足するまで貪ると、とうとうシノアにその牙を剝く。
「っ…!ミーシャ…ちゃん!」
振り下ろされた獣の腕を刃を背にした桜小町でなんとか受け止めたシノアだったが、その膂力に驚き思わず後ろに後ずさる。
「くっ…なんて力だ…」
一年間自分を限界まで追い込み、数々の修羅場をくぐってきたシノアをもってしても手加減どころではなく、下手をすれば狩られるのはシノアの方だろう。
独りで相手をするのは分が悪いが、隣で呆けるアルクは戦力にならない。絶体絶命といえる状況にシノアは思わず歯噛みする。
そしてまた、同じ過ちを繰り返してしまう。
キュワァァァ!!
突如、奇怪な音と共に黒獣の口から光線が発射されシノアとアルク目掛けて飛んできたのだ。
それは、体内の魔力を圧縮し純粋な塊として放出する黒獣の厄介な攻撃手段の一つである黒魔放射。
触れれば鋼鉄すらいとも簡単に塵と化す絶対的な死の衝動に、シノアは目を見開いた。
だが、それで終わる彼ではない。
「“我ここに神の守りを望む、
まず自分とアルクを守る包囲結界を張り、それを桜小町の桜刃で包み込む。
ダイヤモンドを上回る強度を有する護りを即席で作り上げたシノアの魔法制御技術、戦闘能力がどれほど洗練されているのかは、言うに及ばずだろう。
黒獣の黒魔放射にかろうじて耐えた結界と桜刃は、攻撃が止むと同時に役目を終えたように消え去った。
あとに残されたのは小ぶりの刀を携えた青年と、妹の変貌に怯える非力な兄だけだ。
「グガガガ…ガウッ!」
「くっ…間に合わな─」
攻撃を防ぎきり、無防備となった二人に黒獣の牙が迫る。
終わりを感じ取り思わず目を閉じるシノアだったが、いつまでもそれは訪れなかった。
いや、肉を引き裂き血が滴り落ちる音はたしかにシノアの耳に届いている。
だがそれは彼自身のものではない。
では、一体誰の?
「…っ?!あ、アルクさん!!」
「カハッ…ぶ、無事かい?シノア君…」
シノアの隣で茫然としていたアルクはいつの間にか彼の前に立ち、黒獣の牙をその身体で受け止めていた。
黒獣の牙が首から離れると口から血を吐きながらその場に倒れる。
「アルクさん!そんな…僕なんかを庇って…」
シノアは倒れ伏したアルクを支え、必死にその命を繋ぎとめようと処置を施す。
だが、彼から流れ落ちた血の量はもはや魔法であろうとも再生不可能で、それをわかってのことかアルクも、シノアに最期の言葉を届けようと声を絞り出す。
「シ…ノアくん…たの…む…」
必死にアルクの出血箇所を押さえるシノアだったが、アルクが託そうとしている最期の言葉を聞き逃すわけにもいかず、治療の手を止めて耳を傾けた。
「はい…僕は…どうしたらいいんですか?」
「君に…伝えたいことが…あるんだ…」
弱弱しい力でシノアの手を握り、消えかけている命の灯火に最期の薪をくべるアルク。
彼からの言葉は今のシノアにはあまりにも辛すぎる言葉ばかりだった。
「ありがとう…守ってくれて…ありがとう…笑顔をくれて…君は…本当にいい子だ…」
口から血をこぼしながら必死で繋ぎ留められた言葉たち。
それらは一つ一つがシノアの心に届けられ修復されかけていた傷口に塩を塗り込める。
「クフッ…はぁ…はぁ…最期に…頼む…」
段々と弱くなっていく声と失われつつある目の光を必死にとらえ、アルクの最期の言葉に耳を傾けるシノア。
そして、最後の願いはとても残酷でとても慈悲深いものだった。
「…ミーシャを…解放してやってくれ…」
シノアにそれだけ告げるとアルクは目を閉じ、命の終わりを待った。
「あぁ…父さん…母さん…ごめんよミーシャ…先に…逝くよ…」
その言葉を最後にアルクの灯火は消えその魂は天へと昇る。
妹を思いその身を粉にして支え続けた献身的な兄は、その儚い命を散らした。
最期まで誰かを助けるために自分の身を捧げその一生を終えた。
「アルク…さん…僕は…そんなこと…」
かつて喪った大切な存在を思い出しながらシノアの口からこぼれた言葉はあまりにも悲痛で聞いていられない。
そして、その言葉は振動をやめたアルクの耳、そしてもう一人の元へと届いた。
「グギガ…オニ…イ…チャン…」
アルクを離してなぜかその場に佇んでいた黒獣からくぐもった声が響く。
聞き間違いとは思えないその言葉に思わずシノアは自分の耳を疑った。
「ミーシャ…ちゃん…?」
「オニイ…チャン…オニイチャン…」
何度も何度も獣の口から放たれたとは思えない言葉はだんだんと大きくなっていき、同時にその瞳から大粒の何かをこぼし始めた。
「オニイチャン…オニイチャン…オニイチャァァンン!!」
黒獣の悲鳴は海を越え山を越え、その寂しげな声をどこまでも響かせたという。
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