第6話 対カリスマ主婦
その日、帰ってきたお袋は機嫌がよかった。
ネット上の古平団地のライン、掲示板から俺の名前がすべて消えたらしい。ロリコン男がいるという噂も「デマだった」と注釈つきで削除されていたそうだ。お袋が団地内のことを仕事場でどうやって知っているかわかった。
「あたしがちゃんと抗議したおかげよ」
お袋様さまだ。
翌日、俺が公園のベンチでゼリーこんにゃくを食いつつ自宅警備をしていると、例の風紀委員がやってきた。
こないだ助けた「万引きしたらカツアゲにあったでござる少年」の母親、塩谷恭子だ。10メートルほど距離を置いて、こちらをうかがっている。今日はテニスウェアではなく、パールホワイトのチュニックにミントグリーンのスカート。犬のちーちゃんの紐を持っている。清楚な主婦像が堂に入ったものだ。一方こちらは上下ジャージにサンダルというどうしようもない格好。俺はちゅるりとゼリーこんにゃくを吸うと、会釈をした。
「あの・・・ちょっと来ていただけますか?」
こないだとちがって今日はしおらしいな。目が合わないように視線を落としてこちらをチラチラ見ている。
「はい、なんでしょう」
ついていくと、彼女はテニスコートの日陰にちーちゃんをつなぎ、俺を事務室に入れた。中には事務机と折りたたみ椅子と長椅子、テニス用具置き場がある。
「どうぞ」と椅子を出されたので座る。風紀委員は俺の正面に立つと、用具室のコンクリートの床におもむろに土下座をした。
「もうしわけございませんでしたあ!!」
うお、突然きたな。
「先日のわたくしの無礼なふるまい、ネットでの中傷、にもかかわらず南山様はわたくしの愚息を助けてくださいました。今にしてようやく自分の愚かさ、器の小ささに気づいた次第です。どうか、どうかお許しください。この身は南山様に捧げます。煮るなり焼くなりご存分にどうぞ!」
いや、45歳の主婦から存分にと言われても、まあ確かに美人だし、見た目35歳で、そそらないことはないけど、どうしたもんやら。とりあえずにっこり笑って大人の対応だ。
「どうぞお手をお上げください。私はこの団地を自分の家だと思っているのです。だから団地住人が困っていれば、当然助けたくなる。家族のように。」
「そうなのですか」
「恭一君はその後どうですか?」
「はい、不良たちは一切寄り付かず、目も合わせないそうです。リーダーは腕を折って学校を休んでいます。本人は階段から落ちたと言っているそうですが、あれは南山様が?」
「いや、階段から落ちたんでしょう。お気になさらず」
「でも、でも、もしものとき南山様が犯罪者になったりしたら・・・」
「なりません、大丈夫です」
「はい。昨日、恭一からすべてを聞きまして、万引きをした電気店には謝りに行きました。そして南山様にも」
その前にネットに書き込んだ中傷をすべて削除したんだろうな。そこを突っ込むのはやめてあげよう。それにしても風紀委員のこちらを見る目がウルウルしてる。顔も上気して赤いし、なにか期待されてる?いやいや、カリスマ風紀委員なんかにセクハラしたらそれこそ団地に住めなくなるぞ、勘違いするなよ、俺。
「あなたは正しいふるまいをなさる方ですね。私もそうありたいのです。こないだ一緒にいた少女は、隣室で虐待を受けていたので通報したのです。それ以来妙になつかれてしまいまして」
「そうですか、やはり南山様は正義の方ですね。あの子の気持ちもわかりますわ」
いや、お前はなつくなー
「では南山様はあの子に恋愛感情とかは持っていらっしゃらないのですね」
風紀委員が膝をついたままずりずりと近寄り、座っている俺の靴に手を置く。なんだ、この体勢、やばいだろ。股間に顔が近いよ。
俺は彼女の手を取って立たせる。
「ありません」
「・・・それを聞いて安心しました」
「それで、どうして息子さんを助けたのが僕だと分かったのです?」
「息子から警備員さんにゼリーこんにゃくを頂いたと聞いたもので、すぐに南山様を思い出しました」
よし、これは想定内。
「そうでしたか。これは私のミス、いや、あなたの頭がいいのか」
「そんなことは、でも、学校の成績は良かったですわ」
褒められてすごく嬉しそうだ。主婦仲間には容姿は褒められても、成績を自慢する機会なんてなかったんだろうな。ここはおだてておこう。
「成績がよくて、テニスがうまくて、容姿も美しいとあっては、周りからねたまれるでしょう。困ったことがあったらぜひご相談ください」
「まあ、そんなんじゃありませんわ。それに団地の皆さんはとても仲良くしてくれますの。・・・こちらこそ、その、南山様がして欲しいこととかあれば、で、出来る範囲でですけど、お、お手伝いしますから」
うん、その言葉を引き出したかったんだ。ただ、顔を赤らめて息が荒いのは見なかったことにする。
「本当ですか?ではその、さっそくですが、私のお願いをひとつかなえていただきたいのです」
風紀委員が目を見開き、両手で胸を押さえる。
「は、はい!」
手がお肉にめり込んている。うん、胸がでかい。
俺は彼女にお願いを言った。
◆
塩谷恭子(古平団地のカリスマ主婦)
最初に息子から万引きの話を聞かされた時には、崖から突き落とされた気分だった。この団地で築き上げた私のステータスが崩れ去ってしまう。・・・いや、問題はそこではない、息子が悪の道に片足を突っ込んでいるのだ。自分の立場とかどうでもいい。
だがその先の話はさらに悪かった。ええ?!不良先輩に脅迫されているの!そ、そんなの、あのいかがわしい動画とか漫画にあるやつじゃない。団地の主婦友から息子がひどい本を読んでるって相談されたとき見たアレ。不良が子供をさんざんひどい目に合わせたあと、うちに押しかけて、母親に「おい、ババア服を脱げ!」と言って、もう凌辱の限りを尽くす、あのパターンじゃない。ひいいいいいい、恐ろしい。体中におぞましい言葉を落書きされたり、きゃああああああああああああー・・・え?解決した?!あんたが自分で?警備員?誰それ?
息子の話が終わったときには安堵で全身の力が抜けた。さっきまで想像していた悪夢のような光景は文字どおり悪夢として終わってくれたの。た、たすかった。その謎の警備員さん、いや、警備員様には何としてもお礼をしなければ。でも名前も名乗らないなんて、なんという奥ゆかしい人なの。そんな人にお礼のお金を渡すなんて失礼な気がする。ど、どうしよう。こんな年増の肉体とかは・・・不良にババアと言われたけど、あ、言われてなかった。あれは想像しただけで、見た目はまだ結構いけてるわよ・・・え?なに。
彼とゼリーこんにゃくを食べたという息子の話で、記憶が刺激された。最近そんな光景を見たわね。なんかテニスコートのそばで、、、
思い出したああ!
あの生意気な少女とロリコン男。
でもそんな、あの男が私の家族を助ける理由なんかない。むしろ憎んでるはず。
疑惑はしかし、どんどん確信に変わる。
野外でゼリーこんにゃくを食う人なんてほとんどいない。ではあの男はいったいなぜ?もしかしたら単に困っている人を助けたかったのかも。私の息子とは知らずに、いや、たしかあの男の母親から抗議のレスが来ていたから知らないということは考えにくい。
もしかして彼はロリコンではなかったのかも。息子と同じようにあの少女も困っていて、助けただけかも。母親の抗議にもそんなことが書いてあった気がする。それらしい事件があったことも聞いている。転落した人の話は団地で話題になったが、情報が流れないのであっという間に噂は収束してしまった。もっと噂して、マスコミが押しかけてもおかしくないのに不思議だ。
母親の話通りだとすると、彼は正義の行動をとったのに、近所のろくでもない主婦にロリコンの濡れ衣を着せられたことになる。そしてその主婦の息子が困っていると、再び正義感からその子を助けたという、、、これはマズイ。完全にやっちゃいました。自分の貧相な人間性がモロに出ちゃったわ。前々から自覚はあったのだけれども。
ノートパソコンを取り出し、訂正と記事の削除。
お詫びはメールやラインではなく直接するべきだろう。息子を助けてくれた恩人なのだから、ちゃんと謝るのよ。失敗は誰にでもある。ただ、お詫びとお礼ができない人間にはなってはいけないのよー。
翌日、公園のベンチでゼリーこんにゃくを食べている南山様を見つけた。
私はテニス場の事務室で土下座をして謝った。思った通り心の広い人で、笑顔で許してくれた。不良を懲らしめたはずなのに、そのことはおっしゃらない。きっと私たちに迷惑をかけないようにだろう。そして自分の行動を全く鼻にかけない、、、なんて大きな人なんだろう。正直、お礼の代わりに私の体を求めてくるのでは・・・と心配した自分が恥ずかしい。ああ、恥ずかしい。
「本当ですか?ではその、さっそくですが、私のお願いをひとつかなえていただきたいのです」
私は目を見開き、両手で胸を押さえる。
「は、はい!」
あれ?やっぱりきた?ついに求められる?ちゃんとシャワー浴びたけど、まさかここでってことはないわよね。ドキドキ。
「その、私とテニスの試合をしてほしいのです。全力で」
「・・・へぇ??」
そんなわけで、私は今、南山様とテニスコートで試合をしている。
女性ではなくテニスに興味があったという南山様の言葉は本当だった。
大学生の都大会でベスト8に入った私と完全に互角に打ち合っている。こう見えてもトレーニングは欠かしていない。あの頃の私とだって戦えるかもしれない。
南山様と激しいボールの応酬が続く。主婦がやる運動量ではない。息が切れ、汗が飛び散り、心臓が悲鳴を上げている。だが、ラリーを繰り返すうちに私の中で何かが外れた。常識?リミッター?
私は今までにない喜びを感じた。ここでの私のテニスは社交テニスだった。他人とうまく付き合い、できれば自分のステータスを上げるテニス。みんなと楽しくやるテニス。それは悪くない。
だが今、私の前にはボールとネットと南山様だけが存在する。私は今、本当のテニスをしている。何も考えずにボールを追いかける時間。こんなことは長らく忘れていた。単純で真剣で素晴らしいこと。わずらわしい人間関係も、社会的立場も今は忘れていい。
南山様はこれを私に教えたかったに違いない。息子だけでなく私にも大切なことを教えてくれた。わたしはそのことを「わかりました」という笑顔で返す。勝つか負けるかはもうどうでもいい。私は南山様が開いてくれた世界に飛び込むのよ。
◆
南山(自宅警備員)
やばい、なめてたー!
この女めっちゃ強い。
そりゃあ、こっちは長いこと引きこもってたけど、筋トレはしてたし、ここ数日はスピード重視の運動をしてたんだ。
テニスは高校時代やってたし、大学時代もナンパするのに使ってたから、中年主婦に勝つくらい楽勝だろうと思ったら、なんだよ、この女の動き。ウィンブルドン目指してるの?
団地のマジョリティーである主婦たちのカリスマに勝てば、団地のすべてを制覇できると思ったのに、甘かった。試合が長引くにつれ、こっちはなりふり構わずフェイントをかけまくり、コートのギリギリを狙っているのにガンガン打ち返してくるし、風紀委員はだんだん笑顔になってきてるし、こわいよー。あれ、ランナーズハイと同じやつだよね。もう勝敗なんかどうでもよくなってるよね。
こっちは勝つのに必死になってる、ってことは完全に負けコースに入ってる?
いやあだあああ、勝つんだあああ。
どうすればいい?
よし、俺も笑顔だ。肺も筋肉も限界を超えたが、笑顔で耐えるんだ。
うわはははー(泣)
◆
渡辺ひとみ(小平団地の主婦)
午後、いつものようにテニスコートに行くとみんなが集まっている。人数が多いわね。誰かの試合を見ているらしい。でも様子がおかしい。楽しそうとかそういうんじゃない。固唾をのんで見守っている。それに打球の音がおかしい。プロの試合みたいに切れがあり間隔が短い。本気のテニス?
私はあわてて見に行き、あっけにとられた。
え、あれ塩谷さん?ええ?あの人あんなに動けるの?夢でも見てるみたい。
相手の男の人は知らないけど、この人もうまい。そしてえぐいようなファールぎりぎりのボールを打ってくるのに、塩谷さんはものすごいスピードで追いつきボールを打ち返す。
そして二人ともさわやかな笑顔。
まさにスポーツってこうあるべきっていう見本みたいに。
正直、私は塩谷さんに少しだけ反感を持っていた。年上でほかの主婦たちに「綺麗だ」と持ち上げられ、テニスがちょっと上手いくらいでいい気になっていると思っていた。でも、ちょっとじゃなかった。めちゃくちゃうまかった。私たちの前では隠していたんだ。
そして私は今、真剣にボールを追いかける塩谷さんを美しいと感じている。
憧れている。
ボールが中央のネットにぶつかり、真上にはねた。
全員が息を止めた。マッチポイントだ。ネットのどちらにボールが落ちるかで勝敗が決まる。
塩谷さんも相手の男性も見守っている。
ボールは塩谷さんの側に落ちた。
男の人の勝ちだ。
塩谷さんはがくりと膝をつき、男の人は天を仰いだ。
肩で息をしながら彼が塩谷さんに近づく。
「素晴らしかったです」と素敵な笑顔で言い、手を差し出す。
塩谷さんがその手を取って、立ち上がる。「南山様も」
自然と見ていた全員が拍手をした。私も手を叩いて二人をたたえた。
塩谷さんはこちらを見てびっくりしている。
どうやら観客が集まっていたことに気が付いていなかったようだ。
「え?え?」
とラケットを抱きしめ後ずさっている。そんな塩谷さんを見て私は前より彼女を好きになった。多分みんなもそうじゃないかな。
南山と呼ばれた男の人は、大勢の女性を前に気まずくなったようで
「そいじゃあ僕はこれで」
と急いで帰ろうとしていた。
その手を塩谷さんが両手で引き留める。
「あ、あのぉ!」
「はい?」
「も、も、もしよろしかったら、ここ、ここでコーチをしていただけないでしょうか?少しですがお給料も出ますけど・・・」
塩谷さんが赤い顔をして声を震わせている。
見ていた私たちは全員、顔を見合わせた。
みんなの目が肉食獣のようにギラリと光る。
あの品行方正な塩谷さんが!?
・・・これはちょっと面白いんじゃない?
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