天井川

 学生時代に住んでいたアパートには、時折、天井川が流れる時があった。


 川が流れるのは決まって、私が眠っている深夜だった。


 それは、本当に突然に始まるのだ。


 暗闇の中で、私はフッと目が覚める。


 すると、耳に、微かに水のせせらぎが聞こえて来るのだ。


 まるで、岩の合間から水が流れている様な、チロチロチロという音が、天井の方からするのである。


 最初の頃は酷く戸惑ったが、慣れて来ると、ああ、またか、という様な感じで、取り敢えずぼんやりと天井の方を見上げる。


 暫く、水が流れている様な音を聞きながら、暗闇に包まれて全く見えない天井を眺めていると、スッと一筋の線が真上に走る。


 それは水色の線で、ユラユラと揺れている。


 それが、時間が経つに連れて段々と太くなり、それに比例するかの様に、チロチロチロという音が段々と大きくなって行くのだった。


 青い線はどんどんどんどん太くなり、やがてその中から、小さな小石や魚が流れて行くのが見え始める。


 あ、魚だ。こっちには石や水草がある……。


 そう思った時には、すでに私は轟音をとどろかせて流れる巨大な天井川の下に居るのだった。


 それは余りにも綺麗で、それこそハッと息を呑んでそのまま呼吸をするのを忘れてしまうかの様な光景だった。


 天井川からは様々な物が流れて来た。


 先ほども言った様な、小石や魚、水草もあれば、折り紙で織った様な可愛らしい色とりどりの小舟がプカプカと流れて行く事もあれば、鴨の大群が悠々と私の真上を流れて行く事もあった。


 そうやって、様々な物が流れて行った後に、ゆっくりと人が流れて来るのだった。


 それは若い青年の時もあれば、妙齢の夫人の時もあり、また、幼い赤ん坊がいるかと思えば、皺を深々と刻んだ老人が流れて来る事もあった。


 流れて来る人の数は常にまちまちで、服装もバラバラだった。


 ただ、皆、ゆっくりと上下にクルクルと回りながら、私の下を流れて行くのだった。


 その顔はどれも、色々なしがらみから解き放たれたかの様に穏やかな表情をしていた。目は閉じられており、薄らと口元に安堵の笑みが浮かんでいるのだ。


 そんな人々が流れて行ってしまうと、段々と川の音が小さくなり、それと同時に、川の幅も狭くなって行く。


 やがて、川は小さな水色の線となり、それもついには消えてしまうと、辺りは闇に包まれ、水の音も消えている。


 それを見届けると、私はホッと溜息を吐いて、すぐに目を閉じ、眠りに落ちるのだった。


 そんな生活を4年間続けたが、別に怖いとは思わなかった。


 勿論、最初の頃は大層戸惑ったが、別に悪い物ではないのだと気付くと、時折やって来る天井川を楽しみにする様になって行った。


 どうして、あのアパートの部屋の天井に天井川が流れるのか、私にはわからない。何か因縁でもあるのかも知れないが、それを積極的に知ろうとは思わなかった。


 大学を卒業し、会社員となってあのアパートから引っ越してしまった今でも、時折、ふと、夜中に目が覚める時がある。


 そんな時には、天井川が流れたりしないだろうか、などと勝手に期待してしまう自分がいるのだった。

 

 そうして、期待に胸を膨らませながら、暫しの間、耳を澄ませ、ジッと暗闇に包まれた天井を見上げている。


 だが、かつての様に天井川が流れる事は、もはやない。

 

 その酷く味気ない現実が胸に迫って来ると、私は耐えきれずに、大きな溜息を吐いて、眠りに落ちるのだった。


 どうか夢の中だけでも天井川を見る事が出来ます様に……。


 そんな事を願いながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます