開かずの間

 開かずの間、というテーマは、これまで数多くの怪談で取り上げられて来ているに違いない。


 古今東西あらゆる場所で、開かずの間の話は散見される。はっきり言ってしまえば、開かずの間の話は怪談界隈にあっては「十分足りている」のであって、わざわざ私が屋上屋を架す様な真似をする必要は、本来全くないのである。


 だが、最近になって開かずの間に関する奇妙な物語が江戸時代中期に存在している事を知った。それは、とある古本屋で二束三文で売られていた『異風草紙』という仮名草紙本に収録されている物である。


 この『異風草紙』の筆者は甘夏堂、版元は須原屋市兵衛であった。


 刊行された年を調べると、安永2年(1773)であり、須原屋市兵衛が、彼の有名な『解体新書』を出す前年という事は分かった。


 須原屋市兵衛と言えば少しは名の知れた版元であるから、調べればこの甘夏堂なる人物についても分かるかと思ったのだが、どうやらこの人物が市兵衛の所から出した作品は『異風筆録』のみであるらしく、他の版元に関してもわかる範囲で調べてみたのだが、甘夏堂なる人物を見出す事は出来なかった。


 須原屋市兵衛と言えば、平賀源内等、蘭学者の関係の書を出すお堅い版元というイメージを私は勝手に持っていたので、『異風筆録』などという怪談集を出版している事に驚きつつ、内容を確認したのを今でも覚えている。


 その中で、特に興味をそそられたのが、以下に記す「柏屋豊兵衛屋敷不開間風聞之事かしわやとよべえがやしきあかずのまのふうぶんのこと」なる物語である。現代において語られる開かずの間の怪談とはやや趣の違う雰囲気があったので、これを紹介するのもあながち無意味な事ではなかろうと思い、筆を起こした次第である。


 つまらない話だと思われるかも知れないが、蒸し暑い夜の暇つぶし程度に考えて、少しばかりお付き合い頂きたい。




 この話の舞台は、越前の某村、時期は明和7年(1770)の事とされている。正確な村の名称が出て来ないのが残念なのだが、各地の風聞を知り合いから聞き集めたという『異風筆録』の成立過程を考えるのであれば、それもまた致し方のない事なのかも知れない。


 この村に、柏屋豊兵衛という商人の屋敷があった。材木問屋として名を馳せた家であるらしく、先代からの教えを着々と守って、家勢を盛り立てて来た一族であったと『異風筆録』では語られている。


 この柏屋豊兵衛の屋敷というのは、先々代の時に建てられた物なのだそうなのだが、特に目立った増改築をするでもなく、建てられた当初と全く同じ構造を維持しているのであった。


 その様な豊兵衛の屋敷には1つの不思議があった。


 屋敷の奥に開かずの間があり、家人はおろか当主でさえも決して開けてはならないという事になっているのであった。それは、屋敷を立てた先々代が固く禁止していたからであり、わざわざ、先々代が作成した「柏屋家訓条々」にもその事が記されているほどであった。


 ところが、当代の柏屋豊兵衛という人は、良く言えば進取の気風に富む、悪く言えば先例を毛嫌いする傾向のある人物であったらしく、ある時、この開かずの間に関して難癖を付けたのだという。


 自分は柏屋の当主として、一族に関する事は全て知っておく必要がある。それは、屋敷の中も同様である。ところが、この屋敷には先々代の言いつけという理由で、開かずの間になっている空間がある。1つの部屋が丸ごと、よくわからない理由で使えなくなっているのは極めて不都合であるから、近い内に自分が直々に、開かずの間の中を改める、と言うのであった。


 この発言に、家中は大いに驚き、家人は言うに及ばず、番頭以下の奉公人までもが、それは止した方が良いと諫言したが、豊兵衛は一向に耳を貸さず、結局、改めを行うと宣言した翌日には、実際に開かずの間を開いて中を検分したのだと言う。


 この開かずの間、というのは先ほども言った通り、屋敷の一番奥にある一室であった。


 その中へと続く襖には木釘が何本も打ち込まれており、全く開かない様になっていた。


 そこで、豊兵衛は屋敷にあったくぎ抜きを使って、自分でその木釘を全て引っこ抜き、家族や奉公人が恐々と遠巻きに眺めているのを尻目に、襖を勢いよく開けたのであった。


 すると、どうした事か、襖を開けると、すぐ目の前にまた襖が立ちふさがっていたのだという。しかも、この襖にも何本もの木釘が打ち込まれており、びくともしない様になっていた。


 この様を見て、豊兵衛は再びくぎ抜きで木釘を全て引っこ抜き、襖を開けた。


 するとどうであろうか、またもや目の前には木釘を打ち込まれた襖が現れたのである。


 これには流石の豊兵衛もたじろいだが、すぐに気を取り直して、またもや同じ作業を繰り返した。


 こうして、くぎ抜きで木釘を抜いては襖を開け、また木釘を抜いては襖を開けるという流れが、都合15回も繰り返された。


 そうして、15枚目の襖を開けると、漸くそこにはだだっ広い空間が現れた。


 だが、その空間の有様を見て、豊兵衛ばかりか、背後に控えていた家人や奉公人までもが、その場で凍り付いてしまった。


 というのも、その空間は4畳半ほどの広さであったのだが、部屋一面が黒焦げになっていたのだという。しかも、たった今まで焼けていたとでも言う様に、煙がそこかしこから出ており、何かが焦げた臭いが漂っていたのだそうだ。


 この余りにも異様な光景に、さしもの豊兵衛も驚き、慌てて使用人に命じて、それまで抜き続けた木釘を再び打ち直させて、15枚の襖全てを綺麗に元通りに封じたのだと言う。


 だが、それでもまだ心配だった様で、開かずの間を改めた翌日には、これも使用人に命じて近くの神社へ火難除けの札を買いに行かせ、その札を開かずの間の襖に貼ったり、岡村家の菩提寺である楊浅寺ようせんじの住職にお願いをして、開かずの間の目の前で読経をしてもらっている。


 正に、困った時の神頼み・仏頼みを地で行く様な行動であった。


 ところが、その2日後に、豊兵衛の屋敷は原因不明の火を出してまる焼けとなってしまい、豊兵衛以下家族は全員が焼死、奉公人も多数が焼け死ぬという大惨事となってしまったのだという。




 この物語の顛末は、大火事の時に命からがら助かった奉公人の1人が甘夏堂の知り合いに語って聞かせたのを、更に甘夏堂がその知り合いから教えられたのだ、と記されている。


 この話に関して、甘夏堂は特に何の解釈も下してはいない。最後に「いと奇怪なる風聞かな」と記しているのみである。


 それ故、開かずの間の奥にあった黒焦げの座敷と、豊兵衛の屋敷から出た大火事に何らかの因果関係があると考えるべきなのかどうかは、残念ながら不明と言わざるを得ない。


 ただ、開かずの間の物語としては、変わり種と言えそうな物であったので、特にここで紹介をした次第である。

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