後ろ

 私が大学院生だった頃、教授の紹介で、とある私立高校の非常勤講師を1年間だけしていた事がある。


 何でも、日本史のクラスを担当していた非常勤の教員が1人病気で倒れてしまい、新年度に欠員が出てしまうので、急いで補充したい、との事だった。


 私が通っていた大学は、その私立高校に何人もの非常勤講師を送り込んでおり、今回の欠員補充に際してもその様な事情が働いたのであろうと思う。


 私は当時、貧乏大学院生であったから、少しでも生活費の足しになればと思い、教職免許を持っている事を幸いに、その依頼を引き受けたのであった。


 その時、私は2クラスを担当していたのだが、その内の1つがやたらと授業時に妙な感覚に襲われるクラスであったのだ。


 もう20年近く前の事であるから、今の様に少人数形式ではなく、1クラス40人を前にして授業は行っていた。


 先ほども言った通り、私が担当していたのは日本史のクラスで、問題のクラスの授業時間は週2回の授業のどちらもが昼休憩の直後であった。


 当然、生徒の大半は爆睡している。


 通常、その様な状況で行う授業は、かなり侘しい物なのだが、私語で喧しかったり、積極的に授業妨害をされないという点では、無駄な緊張をしなくても良いというメリットもあった。


 だが、そのクラスでは話が別だった。 


 生徒たちの様子が特におかしい訳ではない。


 ごくわずかの生徒を除いて、全員が眠っている。


 昼休憩後の授業風景としては、極めて普通だ。


 中には健やかな寝息を立てている者もいるが、うるさいと感じるほどの物ではない。


 それなのに、私はそのクラスで授業をしていると、後ろが気になって仕方がないのであった。


 想像して頂ければ良いと思うのだが、普通、教師というのは授業時には、生徒と面と向かった状態で話をしている。だが、今の様にプロジェクターや電子黒板といった様な物がない時代の話であるから、時には黒板に板書をしなくてはならない。 


 その際、当然の事ながら、板書をする時には生徒に背を向けなければならない。


 解説をしながら板書をしようとして、チョークを手に持ち、後ろを向く。


 途端に、背中に強烈な視線を感じるのである。


 しかもそれは1つではない。


 無数の視線がジッとこちらを凝視している様な、そんな感覚に襲われるのだ。


 そこでギョッとして後ろを振り返る。


 だが、そこには眠りこけていたり、急に私が振り向いたために少し驚いた顔をしている生徒が見えるばかりだ。


 そして、振り返った瞬間に例の視線は、それが嘘だったかの様に感じなくなるのである。


 そこで気のせいかと思い、再び後ろを振り向いて板書をしようとする。


 すると、またもやあの無数の視線に凝視されているという感覚に襲われる。


 その繰り返しなのだ。


 当初は、生まれて初めての授業であるために緊張して神経過敏になっているのかとも思ったのだが、どうも違う。


 それが証拠に、授業の回数を重ねるたびに、緊張はしにくくなって行ったのだが、後ろを向くと感じる強烈な視線だけは相変わらず感じていた。


 自分がおかしいのか、それとも何かわけがあるのか。


 そのクラスの授業を担当して2ヶ月ほど過ぎた頃には、私はその様な問いに心底悩まされていた。


 そこで、先輩に当たる倉田さんという非常勤講師に、ある放課後の時間に職員室でこの件について尋ねてみた事がある。


 その人は、職員室の机が私の隣で、物静かながら尋ねれば気さくに色々と教えてくれる、という様な人物であった。


 それもあって、この人であればある程度気軽に、あのクラスで感じる視線に関しても教えてくれるのではないかと思ったのである。


「あの、倉田さん、ちょっとよろしいでしょうか?」


 私は帰り支度をしながら、さりげなく倉田さんに声をかけた。


「うん、何かな?」


 彼はいつもの様に、穏やかな顔でこちらを見た。


「いえ、ちょっとですね、僕が担当しているクラスの事でお聞きしたい事がありまして……」


 僕がそこまで言った時だった。


「ああ、〇〇組でしょ?」


 やや食い気味に、倉田さんがそう尋ねて来た。


 それは、正に私がこれから話を切り出そうとしていた問題のクラスだったので、思わず目を見開いてしまった。


 すると、その様子がおかしかったのか、倉田さんは苦笑とも何ともつかない笑みを浮かべて、大きく頷いた。


「やっぱり、図星だね。まぁ、あれはあんまり気にしない方が良いよ。ジッと見られてる様に感じるってだけだから」


 そうして笑顔のまま、ポツリとこう言った。


「それに、あんまり気にしすぎると、君の前任者みたいになっちゃうからさ……」


 倉田さんの言葉を聞いて、私は何も言う事が出来なくなってしまった。


 その様子を暫く倉田さんは見ていたが、やがて自分の荷物を持って立ち上がると、私の肩をポンポンと叩いた。


「まぁ、気にしない事だよ。そういう事もあるんだなぁって思ってれば良いんだ」


 穏やかにそう言うと、彼はそのまま職員室を後にした。


 私は倉田さんの後姿をただただ、見つめる事しかできなかった。




 それ以降も、私はそのクラスで背中に強烈な複数の視線を感じつつ授業をしていたのだが、極力それを無視して、何とか無事に、その年度の仕事を終えたのであった。


 自分ではそれほど上手く授業ができたとは思っていなかったのだが、学校側は、もう1年間非常勤講師をしてみないか、と誘って来た。


 だが、私はその誘いを、来年度は研究が忙しくなってしまうから、等と適当な理由を付けて丁重に断った。


 あの無数の視線を背中に受ける生活を、後1年やると考えただけで、耐えられそうになかったのだ。


 その後、私の代わりに誰が入ったのかはよくわからない。


 私の経験から20年近く経った今でも、その高校は存在している。


 だから、今日もきっと誰かが、あのクラスで、背中に強烈な無数の視線を感じつつ、授業をしているのではないだろうか。

 

  

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