和風幻想万華鏡

伊予夏樹

湯呑みの中

 妻が買って来た黄瀬戸の湯呑みに飲み物を入れると、見知らぬ男の顔が映る事に気が付いた。


 ある朝、いつもの様にお茶の入った湯呑みを手にとって、ハッとしたのだ。


 茶色い水面に、若い男の姿が映り込んでいる。


 見た事もない男だった。


 彼は私の方をジッとみて、実に小憎らし気に笑っていた。


 私は思わず後ろを振り返ったが、勿論、そこには誰も居ない。


「どうしたの? 変な顔をして?」


「いや、何でもないよ」


 妻の質問を適当にはぐらかしながら、再び湯呑みの中を見ると、もうそこには男の姿はなかった。




 その事があって以来、私は湯呑みの中を確認する事が日課となってしまった。


 初めは見間違いか何かだろう、という淡い期待もあったのだが、それ以降も水面に男の顔が映るという現象は続いた。


 男はいつも同じ表情でこちらを見ていた。嘲笑っているというべきか、小ばかにしているというべきか、無性に腹の立つ顔だった。


 だが、それだけだ。


 男が何かそれ以上の悪さをしでかす、という事はなかった。


 ただ、ジッとこちらを見ているだけなのだ。


 しかも、男は一定時間が過ぎると、フッと水面から姿を消す。タイミングはいつもバラバラなのだが、必ず私が食事を終えるまでには消えている。


 一体、男がいかなる理由で現れているのかはわからない。


 黄瀬戸にいわくでもあるのかと思い、妻にどこで買ったのか聞いてみた事がある。


「あら、近くのスーパーで開かれてた骨董市よ。ほら、湯呑みを前に割っちゃったでしょ? それで新しいのが欲しかったから、丁度いい値段だったし、買ったのよ」


 当然の事ながら、妻は店の名前を憶えてはいなかった。


 行きずりの店の名前を一々覚えている人間など、珍しいだろう。


 私は妻の話を聞きながら、黄瀬戸の湯呑みに注がれた麦茶の水面をそれとなく見やった。そこには相変わらず、男の顔が映っていた。




 水面に映る男との別れは、実に唐突だった。


 妻が初めて黄瀬戸の湯呑みを買って来てから半年ほどが経った頃の事だ。


 その時期になると、湯呑みに映る男の顔をそれほど気にする事はなくなった。


 男は相変わらず腹の立つ顔をしてこちらを見てはいたが、それを日常的な現象として私は知らず知らずの内に受け入れてしまっていたらしい。


 朝食や夕食時に湯呑みの中に男の顔が映っても、ああ、またやってるのか、くらいにしか思わなくなっていたのだ。


 そんなある日の真夜中の事だ。


 その日、私は残業で夜遅くに帰宅した。


 遅くなると早めに連絡を入れていた事もあり、妻はすでに寝ていた。


 食事は外で済まして来ていたので、風呂にだけ入って寝る事にした。


 だが、その前に水を一杯飲もうと思い、疲れた体を引きずって例の湯呑みを食器棚から取り出して、台所の蛇口から水を注いだのだった。


 台所の電燈が、ユゥラリと湯呑みに注がれた水を映し出している。


 さぁ飲もうかと思って、私は湯呑みを口へと近付けた。


 その時だった。


 揺れる水面に、またあの男が映ったのだ。


 だが、それはいつもの男の顔ではなかった。


 男は確かに笑っていた。


 だが、食卓で見る男の顔とはまるっきり違っていた。


 男の顔は腐り落ちており、片方の目玉がなく、顔の骨が所々覗いていた。


 その様を見て、私は思わずゲッと叫んでいた。


 途端に、男の顔がニタァッと笑ったかと思うと、水面からフゥッと生暖かい吐息が吹きかけられた。それは、肉か何かが腐ったかの様な、それはそれは酷い臭いだった。


 私は思わず悲鳴を上げると、水の入った湯呑みをその場に思いっきり叩きつけていた。


 ガシャン、という音と共に、湯呑みは砕け、水が飛び散った。


 後には、肩で息をしながら放心している私だけが残された。

 その鼻腔には、まだ微かにあの腐った肉の様な臭いが残されていた……。




 その翌日、妻に黄瀬戸を誤って割ってしまったという報告をした。


 割ってしまった本当の理由など、話せるわけがなかった。


 妻は大層残念がったが、これからは気を付けてね、とだけ言って放免して貰えた。


 あれ以来、私は黄瀬戸が苦手になった。

 

 

 

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