ガルダの楽園 22



 デルデ峠を越えたあたりで、幌馬車が泥にはまった。

 そこで光重は話をやめた。

 アダン会戦が終わり、一同はお土産と補償を持って庁舎へと戻る道中である。


「ルモイ、車輪が泥に落ちちまった。ちょっと馬達を手伝ってあげて」


 シグネの声に熊のルモイは幌馬車の車体を後ろから押した。すると簡単に車輪は泥から脱したのだ。


「考えてみると、長かったんだな。光重との旅も」


 フェオドラは感慨深く呟いた。


 彼女にとってみれば草楷平地で出会い、ラーディンと別れ、よくわからない雪国でアダン会戦を戦い抜いた。

 内幸流斬星との大きな戦を勝利で飾った那曲光重の『アラゼ』だが、これですべての問題が解決したわけじゃない。

 その問題をシグネが提起した。


「でもよお、そのリュドミラって初恋の子は、まだ流斬星の野郎の元に居るんだろう?」

「厳密には流斬星の父親である源流道の元だ。もっと南の厚治国にいる」


 光重の返答にシグネとフェオドラが腑に落ちない声で唸った。


「どうするんだ。リュドミラはまだ敵の手中にあるわけだろう。このあと、リュドミラを使った嫌がらせを受けるぞ?」


 フェオドラの言葉にシグネが同意する。


「わたしが相手なら、殺してしまうぞ。悪いが、光重の弱点はその娘だ。その娘を盾に、交渉を進める。汚い手だが、必ず勝つためには絶対にそうする」

「僕は内幸流斬星を信じてるんだ。彼の事も昔から知っているけど、そこまで悪い人じゃない」


 どうだかね、とリリアをはじめ全員がため息をついた。

 光重だけが流斬星の味方のように思えた。


 けれども、その期待もあっさりと裏切られてしまった。




* *




 アダン会戦の和平交渉が終わり、光重が久しぶりに自宅である庁舎に戻ってきた。

 これからは収穫高と公共工事の状況と戦う番だ。

 そう考えていた矢先に凶報が内山文京によってもたらされた。


「最悪だよ、なっちゅ。内幸源流道が宗教婚姻の儀と腹孕妇<はらぼてれん>の儀を行うと発表した。それも内幸流斬星が統治する南部『ギヨレン』で、だ」


 この凶報にリリアは持っていた書類を床に落とした。

 一方、偶然同室に居合わせたフェオドラが首をかしげる。

 内山文京はさらに言葉を続けた。


「南部『ギヨレン』には箴言密教徒が多い。また今回のアダン会戦の結果を踏まえて、箴言密教徒に天現宗派として慈悲を与える名目で……進州南部『ギヨレン』にて儀式を行うそうよ」


 こんな話があっていいのだろうか。

 光重は拳で机を叩いた。あまりの衝撃で、机に亀裂が走ったほどだ。


「それは、いつだ……?」

「わからない。近く移送されて、速やかに儀式は行われるでしょうって」


 怒りに震える光重を前にしてフェオドラが「ちょ、ちょっと待ってくれ」と立ち上がった。


「なんだ、その小難しい儀式は……?」


 この問いかけに戸惑いながらも、リリアが答えた。


「宗教婚姻の儀は強制婚のこと。たぶん、南部『ギヨレン』でやるって事は内幸流斬星の何番目かの奥さんになるってこと」


 フェオドラは腕を組みながら「なるほど」と頷いている。しかし、光重が激怒するにはちょっと刺激が少ない気がしていただろう。

 だからリリアは腹孕妇<はらぼてれん>の儀について話した。


「腹孕妇<はらぼてれん>の儀は強制妊娠をさせること。宗教融和の意味合いが強いから、宗教婚姻の儀と併せて行われる。まず流斬星と初夜を過ごして、その後街の中心に出される」

「……街の中心に、出される?」

「街の人々にも祝福を戴くのよ。代わる代わる強姦されるわけ。そうして子を強制的に孕み、流斬星の子として育てられる。これはあくまでも宗教融和のシンボルだから、王位や相続の対象とはならない」

「なによ、そんなの……。えっ、冗談でしょ?」


 けれども、このような強制妊娠の慣習がある事も事実であり……その危険がリュドミラに迫っている。


「どうするの。助けに行くの?」


 リリアの発言に光重は強く拳を握ったまま動けなくなっていた。

 いまはアダン会戦が終わったばかりで、民衆は疲弊している。冬を越え、春先には平和な時間を過ごさなくてはいけない。まして内幸源流道の厚治国と戦う力は北部『アラゼ』には残っていない。

 そうなれば……リュドミラを見捨てることになる。

 気張っていた光重の頬に一筋の涙が流れた。

 その場に居た誰もが「あっ……」と声を漏らした。

 とくにリリアは悲しみを含んだ感嘆だった。光重は未だにリュドミラの事を愛しているのだ、という事を裏付ける涙に見えたのだから。


「出来ない。戦いなんて、出来ない。でも、リュドミラを見捨てる事も……」


 呻くような、誰もが初めて聞いた光重の弱音だった。

 それを聞いたフェオドラが「やれやれ」といった具合に椅子へ腰掛けた。


「アラ・カチューだ」


 フェオドラの発言に全員が眉を寄せて、視線を送った。


「それはなにかしら?」


 内山文京の問いかけにフェオドラは話し始めた。


「男女の悪習はアッガーナ朝でも未だにある。その代表格が、ベルベル朝の西部で今も行われている『アラ・カチュー』だ。わかると思うが、ザルマーニ語で『誘拐婚』を意味する」

「……誘拐婚」


 光重は震える声で繰り返した。

 フェオドラはじっと光重を見据えた。


「もし、なっちゅがリュドミラの強制妊娠を黙認して、子どもが出来てみろ。わたし達は永遠に南部『ギヨレン』に手が出せなくなる。もしかしたら交渉や主張が出来なくなる恐れもある。そんな不平等の種を黙認するつもりか。それが『アラゼ』を率いる者の判断か?」


 いや……と光重は顔を振った。


「なら、覚悟を決めろ。『アラ・カチュー』でなっちゅの行く先を決めろ。それは『アラゼ』を導くことにもなる。この地は過酷だが、この地で生活する人々は過酷故に強い。それを最も知っているのは、なっちゅじゃないのか?」


 フェオドラの言葉にリリアも内山文京も頷いた。

 彼女が提案しているのは、単純にリュドミラを誘拐しようというのではない。

 この誘拐を実行すれば、確実に光重は内幸流斬星と衝突する事になる。もしかしたら、内幸源流道も軍を差し向けてくるかもしれない。そうなれば、もうおしまいだ。

 北部『アラゼ』の民衆を再び戦禍の危険にさらす事になる。しかも光重の個人的な感情によって。

 だから、フェオドラは決断を促しているのだ。


「また、長い旅に出よう」


 この言葉に光重はしばらく沈黙していた。

 そうしてリリアや内山文京に視線を配った。


「シグネを呼んでくれ。この手の荒事は、彼女の尽力なくして成就しない」

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