ガルダの楽園 15



 那曲光重は最前線で戦う猛将の印象は薄い。


 けれども、その膨大な智慧を使った行政運用と地域開発については類を見ない実力を持っていた。

 彼は農業を発展させるために飲料水と農業用水の確保を優先的に行った。

 進州北部『アラゼ』は年間を通して雪解け水が北端のワギャップより流れ込んでくる。光重はその雪解け水の水路整備に多くの人員を割いた。また雪解け水は冬季に凍結する恐れがあったため、水脈を測定し、湧水地と湧泉地を特定した。そのほとんどが内陸部にあり、川の源流となっている場所だった。

 この開拓において、既存の地図がまったく意味を成さない事を光重は理解していた。そのため最新の地図の作成を急いだ。

 山の標高や平原の広さなどの測定を急いだのだが、そういった技術を持った人間が極端に少なかった。


 そのため昼の土木治水工事と並行して、夜間学校の創設を進めた。


 これは『若野林屋』で培われた精神といっても過言ではない。多くの農民は読み書きが出来なかったが、冬季の間に八割を越える人々が読み書きが出来るようになったという伝説が残るぐらいである。

 また弾圧されていた箴言密教、さらには他の宗教指導者や司祭といった指導的立場の人々を北部『アラゼ』で教員として迎え入れると宣言した。

 この宣言は北端のワギャップ湾を通過する交易船にも告知され、厚治国や慶国、さらには草楷平地にまで広がった。木簡や紙片に記された募集の文句は旧松治語をはじめ、慶国語、ザルマーニ語、さらにはガルダ語や梵語で書かれた。これらはすべて光重が主導して交易船へ託した。

 また、この作業で港湾整備の必要性を痛感し、北端のワギャップ湾に簡易的な船着き場が作られた。漁船や小舟が停泊し、冬の間は閉鎖される貧相なものであるが……交易船とのやりとりには非常に役立った。小舟で沖合の交易船へ荷物を預けたり、引き取ったりする事が出来るようになったのだ。

 進州北部『アラゼ』は、弾圧や差別をされていた人種や宗教の人々でも平等に土地を与えてくれる。開墾した分だけ、土地を与えてくれる……そのような噂が交易船を通じて一挙に広まり、南部『ギヨレン』を通って、険しい山々を越えてたくさんの人々が集まってきた。


 一方で食料の確保についても光重は方針を策定していた。 


 この地では年間を通して作物を育てることが出来ない。そのため光重は慶国の草楷平地で目にした農業を手本とした。草楷平地は昼は灼熱、夜は極寒の寒暖差の激しい大地である。雨もまともに降らず、また降れば豪雨となることの多い、まったく農地には向いていない地域である。

 それでも草楷平地に住む人々は羊と駱駝を飼い、ヒエやアワといった雑穀を栽培して命を繋いでいた。

 光重は北部『アラゼ』で、まずヒエ、アワ、キビの栽培にとりかかった。さらに南部『ギヨレン』より米の稲を買った。米については長丁場になると踏んでいたため、厚治で密かに入手していたトウモロコシの種などを撒いた。

 初年度は餓死者を出したが、開拓団が長く留まれる環境を獲得したのは、これらの作物に大いに助けられたためだ。




 ある逸話がある。


 大きく租税を課さない光重の生活は、大いにひっ迫していた。

 光重は知恵を出す事はするが、金を求める事はしなかった。一方の農民たちは作物を南部『ギヨレン』へ売り、金を得ては果実や牛などを買ってきた。

 とある早朝に光重があまりの空腹で道端に倒れた。

 このとき、農民たちは那曲光重だけが極度の貧困の中に居るのだと理解した。それからというもの、たくさんの『施し』が農民達から光重の住む、いまにも崩れそうな庁舎に届けられた。


「やはり施しがないと死んでしまうな」


 そう言いながら光重はせっせと米を食い、次なる開墾の計画案を練ったのだとか。

 光重もリリアも、誰も彼もが土と泥に紛れ、収穫期には大いなる実りを頂き、長く厳しい冬に備える。

 そのような生活が確立でき始めた二年目の春に――彼女はやってきた。

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