ガルダの楽園 12



 太陽暦899年 豊北2年――。


 那曲光重は元服した二十二歳の青年となっていた。

 若野林屋襲撃事件から、9年の歳月が流れていた。

 この長征を『那曲光重の長征』と銘打った放浪記を内山文京は蘭海から松治への船上で書き留めた。

 光重は船上で経緯を語る中で、唯一ブルフィンチバードに残してきたフェオドラの事を伏せて話をしていた。それは傍らのリリアが、涙で目を輝かせながら「ああ、よかった」「また光重に会えた」「大きくなったんだね、格好良くなったね」などと繰り返すものだから、フェオドラの事、春塵の事を仔細に述べるのは控えたのだ。

 一通り、光重が長征の経緯を述べたとき、今度は内山文京が話をする番だった。


「リリアさんが興奮している時になんだけど、そろそろ現実を伝えなくちゃいけない」


 文京が切りだしても、リリアは光重の袈裟をわしわし触ったりして離れない。


「どういう事ですか、文京さん」

「政変が起こったの。飾摩という時代は終わり、いまは豊北という時代になった」

「松治国はどのような影響を……?」

「松治国主は西国に召集され、その道中で何者かに暗殺された。不意の死去だったせいで、松治国内で後継者争いが起こった。その後継者争いの中でとある家臣が仮の後継者として戴冠する事となったけれども……まもなく病死した」

「じゃあ、いま松治国は統治者がいないの?」


 ううん、と文京は顔を振り、ため息をついた。


「病死した家臣を国主に推挙したのは、剣術指南役であった『内幸家』なの。つまり、内幸源流道が松治国の副国主の立場にまで登りつめて……その後に国主が病死したわけ」

「そ、そんな……」

「いま、松治国という国はなくなった。松治国、厚真国を併せて『厚治国』として世間からは呼ばれている。言うまでもないけれども、国主は内幸源流道で、国教は天現宗派よ」


 光重は震えた。


 松治国主がどのような人物であったのかは、詳しく知らない。けれども、旧国主は宗教に対しては寛容であった。箴言密教徒も天現宗派も、抑圧せずに自由な活動を認めていた。だからこそ、常盤院のような寺院が尊敬を集めていた。

 内山文京は目を伏せた。


「旧松治国主が西国の道中で殺された一説には、過激な箴言密教徒の仕業との話もある。実際のところはわからないけど、あまりにタイミングが良すぎるし、どこの箴言密教徒が凶行に及んだかも発表されていない。でも、この一件で多くの箴言密教徒が捕まって、殺されたわ」

「……そんな!」


 驚く光重を前にして文京は顔を振る。


「わたし自身も箴言密教徒だから、この事件に対してはすごく憤りを感じている。なんでもかんでも箴言密教徒が悪くて、正しいのは天現宗派だと内幸源流道は主張しているようだから」


 身体の中がカッと熱くなるのを光重は感じた。

 自分が苦難の長征に出た動機を思い起こせば、『若野林屋襲撃事件』がきっかけだ。あの事件は内幸道場と関係のある無頼者が凶行に及んでいた。もっと元をただせば、箴言密教徒と天現宗派の対立から、あの事件が発生したのではないかと光重は思っている。だからこそ、内幸道場へ乗り込んで人を斬ったのだ。

 まさか、その報復として箴言密教徒を弾圧しているのだろうか。

 それだとしたら、内幸源流道を赦すわけにはいかない。


「僕はまた、人を斬らなくちゃいけないのかもしれない」


 そう呟いたとき、光重に絡みついていたリリアが「ダメなんだ」と首を振った。


「リュドミラを見捨てること、光重に出来る?」


 彼女が口にした言葉に光重は目を見開かなくてはいけなかった。


「リュ、リュドミラ……?」

「忘れちゃった? 屋敷奉公の可愛い女の子。あの子、すごく綺麗な人になって、みんなから崇められてるよ」


 忘れるわけがない。


 いつも女将あかねの傍で淑やかに奉公を続けていた少女だ。

 光重はリュドミラが好きだった。初恋の人だった。けれども、彼女と深く言葉を交わす余裕も時間もなかった。そんな少年期の記憶と気持ちが一挙に胸の中に膨れ上がった。


「リリア、崇められているというのはどういう意味なんだ?」

「リュドミラは箴言密教の偶像として、内幸源流道の奥の院にいる。人質だよ。箴言密教徒が反乱を起こしたり、起こしそうになったらリュドミラを前面に押し出して、言わせるの。『正しき箴言密教徒よ。その怒りを沈め給え』って。内幸源流道は、そういう宗教的な偶像をいくつも持っていて、箴言密教の場合はリュドミラが『それ』にあたるの」


 ふざけている。


 卑劣だ。


 天現宗派を頂点とした各宗派、各宗教の構造を作り上げてしまっているではないか。

 内幸家が天現宗派を護り、その下部に有象無象の宗教宗派がぶら下がっている。つまり箴言密教は天現宗派の軍門に下り、リュドミラは内幸家の傀儡として意のままに操られているというのだ。民衆の信仰心までも、内幸源流道は意のままに扱っているというのか。


「……光重?」


 リリアは不安そうに光重の名を呼んだ。

 光重は泣いていた。

 こんなに悲しいことがあっていいのだろうか。

 宗教は平等でなくてはいけない。

 神でもない、ただの道場の剣術指南役だった男が……なぜ箴言密教を圧するような立場になっているのだろうか。

 霊峰ガイラスのふもとに広がっていたガルダの街の様子が思い出された。

 あの地に存在した唯一の老人である最高指導者バディ師僧がこの話しを聞いたら、どのような言葉をお返しになるだろうか。

 春塵は、たぶん怒るだろう。


「……やろう」


 光重は呟いた。

 そしてリリアと内山文京をしっかりと見据えた。


「やるために、僕は帰ってきた。多くの人々を導く……。そのために、僕はガイラス山を仰ぎ見て、ここへ戻ってきた」

「戦うのね?」


 リリアの問いかけに光重は首を振った。


「戦わない。血を流さずに、箴言密教を解放するんだ。戦ってしまえばリュドミラの命も危ない。だから、戦わずに箴言密教を解放して、リュドミラも助け出す」


 光重は極めて真剣に話したのに、内山文京はけらけらと笑いだした。


「すごいよ、ああ、すごいよ、あなた! こんな事を真面目腐った顔で言った人を初めて見たよ。よしっ、決めた! わたし、あんたに命を預ける。箴言密教徒としてあなたが素晴らしい経験を積んできた事はわかる。だから、あなたに賭けるわ」


 そう言ってから、改めて彼女は真剣なまなざしを向けてきた。


「わたし何でもするわ。出来る事なら、なんでも。だから、なにか手伝えることはある? 内幸源流道を倒すために」

「じゃあ、ある場所へ行って欲しいんだ」


 光重の問いかけに内山文京は「えっ」と目を丸くした。

 けれども、文京もリリアも光重の力強くしっかりとした言葉に心を傾けてくれているようだった。光重が不在にしていた九年間で、箴言密教は大いに尊厳を踏みにじられてしまった。それを恢復させたい。それが光重達に共通している思いだった。

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