ガルダの楽園 09



 脳天や肩や背に積ってゆく灰のような雪に白い猫であるヤブユムが気付き、僕らの風上に巨体を横たわらせて、大きなあくびをした。


「光重、あなたはガルダの国境を越えられない」

「やっぱり、行かせてはくれないんだね?」


 久しぶりに少女が声を発したかと思ったら、やはり否定的な事を言った。けれども、彼女は顔を左右に振った。


「ガルダとザルマーニの雪は人の命を容易に奪う」


 彼女はそう言ってから肩や身体にのしかかっている光重の手を一瞥した。


「どけてくれる?」

「あっ、ごめん……」


 光重が身を退かせてから、春塵はゆっくりと起き上がった。


「ヤブユムッ! 東のイザラマキスタンへ往く。力を貸して」


 春塵の言葉が理解出来るのか、巨大な白猫は地面に伏して彼女が背に乗るのを待った。


「手伝ってくれるのか?」

「誤解しないで。北部の山間に遭難した遺体をつくりたくないだけ」

「……ありがとう」


 光重は春塵の指示で白猫のヤブユムの背に乗った。

 白猫は力強い歩調で雪原を走り、山から山へと飛び移る。風も、雪も、雲の合間から刺す厳しい月光をものともせず、山岳を走り抜けた。


 ヤブユムの背はよく揺れた。


 小さな春塵の腹に両手を回し、彼女の小さな背に身体を預けながら必死に振り落とされぬよう光重は踏ん張った。

 この巨大な猫は『ユキヒョウ』という動物なのだと春塵は教えてくれた。『ヤブユム』という名は男女両尊の意があるのだとか。


「ヤブユムは両性具有の個体で、それが原因で瀕死の傷を負っていた。わたしが再生の胎から産まれたとき、この子も街外れの山で生死の境をさまよっていた」


 ガルダの街にヤブユムを降ろす事は出来なかった。

 けれども、この忠実なユキヒョウは春塵が山岳地を巡回する時やヤクの世話をする時に大いに力を貸してくれる。

 大切な同性でもあり、頼れる異性でもある。

 なぜヤブユムが両性具有なのかはわからない。けれども、バディ師僧は過去の破滅が多くの動物にたくさんの『異常』を植え付けたのだろうと説いたのだとか。人間が『老衰』を失った事も、その『異常』のひとつなのだ、と。

 半日もしないうちに、幾度も空は晴れ、また雪を降らし、強い風を吹き下ろした。

 変化に富む山の天気を見上げながら、この世界はなんと表情が豊かであろうかと思った。その一方で、この天気を制することなど小さな人間には無理であるとも悟った。

 そうしているうちに、東方の国境地帯へと一行は進んだ。

 だいぶ低地になってきたのか、呼吸も比較的楽になったし雪も穏やかな降り方になっている。


「この先が獄領ゼルバの『イザラマキスタン』よ。そこで光重の知る街へ往って。交通の要衝だと聞くから、光重の知る街に往く馬車もあるでしょう」


 ありがとう、と光重が頭を下げたとき春塵が腰に帯びていた剣を抜きとった。

 最初、剣を抜いたのかと思った光重は全身に緊張を走らせたが……すぐにそれを解いた。


「持ってって、光重」

「で、でも……」


 春塵は自らが帯びていた剣を差し出した。

 鞘に入れられた長い剣は、見方によっては濶剣のようにも見えた。それはヤブユムの背から光重を斬ろうと振り上げた剣であった。


「俗世は暴力に満ちている。経文と箴言は人の心を打つことがあるけど、聞く耳を持たぬ暴力には効果がない。そのときに使って。丸腰では不安だから」


 差し出された剣と春塵の顔を交互に見ながら、光重は顔を振った。


「持っていけないよ。武器を手にする事は、また誰かを傷つけてしまう事にもなりかねない」

「ガルダの剣は平安をもたらす願いによって作られている。剣で人を斬る時は『相応の想い』がある時だけ。光重なら、その誓い通りに剣を扱える」

「……」

「持って行け。そして――返せ!」

「えっ?」

「返しに来い。この剣『カドガ』はわたしの剣だ。だから、ちゃんと返しに来て。いい?」


 春塵は半ば押し付けるようにして光重に剣を渡した。

 そして彼女は一度も振り返ることなく、ヤブユムの背に乗って元来た険しい山岳の岩肌を去って行った。

 彼女の後姿に光重はなんども声を投げようと力を込めたが、やめた。

 暴力に抗うための剣。でも、平安の願いが込められている剣。


 一見矛盾している。


 でも、その願いはひとつだ。


「また、返しに来るから」


 光重はそう呟いて剣を帯びた。

 それから緩やかになっている傾斜を下山し始めた。

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