ガルダの楽園 08



 ガルダの街をあとにして、光重は長い峠を振りかえる。

 そこは夢の中で師僧と会話をした小高い丘の上であった。夢の中ではガルダは炎上していたが、現実の世界では師僧もいなければ街も炎上していなかった。


 けれども――。


「光重どうした。こんな夜の日に」


 ふと掛けられた声にびくりとした。

 見れば、そこには白い巨大な猫に乗った春塵の姿があった。


「春塵か。キミこそどうしたんだ」

「夜の日は遭難者が多い。山を不用意に越えようとして、命を落とすひとが多いから。キミのように」

「僕は命を失っていない」


 そうだったな、と春塵は返答したが、その表情は硬かった。


「さあ家へ帰ろう。これから吹雪くと思うよ」

「いや、戻らない」

「……どういうこと?」

「宣託を受けた。僕にはいかなくちゃいけない場所がある」


 春塵は認めてくれるはずだ。

 そう思ったのに、彼女は首を左右に振った。


「ダメだよ、光重。キミはバディ師僧と会って、このガルダの秘密を知った。魅力にとりつかれてさえいる。そういった人間が山を越えてしまうと、どうなると思う?」

「……どうなるんだい?」

「外界の連中にガルダの秘密を喋るんだ」


 不意に起こった飄風が山の上方より硬い雪を舞いあげた。

 ぼたぼたと頬にぶつかる雪に眼を細めたとき、白銀の風にぎらりと白刃が輝いた。月の光でもない、太陽の光でもない――雲の合間から漏れる黄昏の輝きを煌めかせた閃光だった。

 光重は雪原を転がるように白刃を避けた。

 巨大な猫に乗った春塵は、ナタのような濶剣を右手に光重を睨んでいた。


「春塵ッ、やめてくれ! なぜ僕を斬ろうとする!」

「ガルダは至高の聖地だ。この地に留まって!」

「バディ師僧より宣託を受けたのだ。僕はそれに従わなくちゃいけない」

「ただの幻想よ! その幻想に従って国境越えを求め、わたし達に斬り殺された修行僧はたくさんいるの!」


 あっという間に剣身が雪にまみれる。

 春塵はそれを振り払うように濶剣を振った。


「光重、お願い……」


 わずかに呻くように春塵は言った。


「光重……わたしの願いを聞いて。あなたはガルダから出てはいけない。あなたは類稀な箴言密教徒だ。あなたのような清らかな異国人を見たことがない」


 だから、いかないで……。


 春塵はそう言って器用に猫の上で剣を構えなおした。

 片手で剣を構える型は異界の馬上剣術の一種だ、と光重は直感した。これは図書館で読んだ剣術書にあった。


「僕は……春塵に感謝しているんだ。山越えで僕は死を覚悟した。もしかしたら、一度は死んでしまったのじゃないかと思うぐらいの苦痛を体験した。でも、キミのおかげで僕は師僧に会う事も出来た。感謝している」

「……ならっ、行かないで! 光重ッ!」


 春塵の声に少女らしい鋭さ、一方で女々しさが混じった。

 彼女は叫んだ。


「わたしはずっとガルダにいる。あなたみたいに外征の宣託を受けたことがない! これからも、たぶんこれからもずっとガルダに居る! あなたとなら、仲良く出来ると思ったの。そんな矢先に――ダメよ、行かないで!」


 白い巨大な猫が春塵の叫びに遭わせて身を低くして跳躍の気配を漂わせた。

 光重はその動きをじっと見極め、暴雪の中を突き抜けてくる猫の動きに身体を合わせた。春塵が太刀を振り上げ、猫が突進してくる。

 間一髪のところで光重は横に逃れ、振り下ろされた太刀の軌道に合わせて身を捩った。代わりに春塵の細くて小さな手首を掴み、勢いそのままに彼女を猫の背から引きずり降ろした。


 わずか数秒の出来事だった。


 春塵と光重の立ち位置が入れ替わったとき、少女は雪原に押し倒され、濶剣は吹雪の山に落ちていた。

 光重は春塵の上に覆いかぶさるようにして、白くて幼い少女の清廉な瞳をじっと見つめた。


「頼む、行かせてくれ」

「嫌よ。あなたとずっとガルダに居たい。わたしをひとりにしないで」

「助けなくちゃいけない人たちがたくさんいる」

「大切な人たち?」

「大切な人を待たせている」


 この返答に春塵は顔を背けた。

 光重が次の句を継ごうとしたとき、巨大な白い猫が爪を露わにして飛びかかろうとした。


「ヤブユムッ!」


 横たわった春塵は不意に叫んだ。

 彼女の声に従うように、巨大な白い猫は飛びかかるのをやめた。

 殺気によって逆立った毛を舐め、ごろんと雪原に転がった。

 春塵は奥歯をぐっと噛むようにして光重の目を見返した。


「わたしは外征するのが怖い。あなたのような勇気がないの。だから、ずっとずっとヤブユムとふたりだけ。そんな狭い世界に、あなたが現れた。どこか心を許せる、光重が」


 だから春塵は懸命に世話をしてくれたのか、と光重は問いかけた。すると彼女はわずかだが、小さく頷いてくれた。

 そうしてしばらくの沈黙が漂い、びゅうびゅうという雪と風の音に僕らは包まれた。

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