ガルダの楽園 03



 彼女は「祝う」と言っていたが、案内されたのは紅色の屋根をした巨大な建物だった。まるで箱のような建物には巨大な支柱が二本、三本と大屋根を支えている。


「多くの旅人はここを求めてくる。あなたの求めも、ここにあると思う」


 少女はそう言って建物の中に案内した。

 建物の中に入るといささか寒さは緩和されたが、充分に底冷えのする空間である。壁の高い位置に小窓が設けられており、そこから細やかな雪が太陽に照らされてきらきらと光りながら室内へ流れ込んでいる。

 光重はぐるりと巨大な室内空間を見回して「うわあ……」と感嘆の声を漏らしてしまった。

 遥かに高い天井に届くのではないかと思しき木製の本棚が、ずらりと床を埋め尽くしている。灯篭の火もなく、ただ小窓から差し込む心細い光のもとで多くの修行僧達が本を読んでいた。


「俗世で言う図書館になる。あなたが生まれた国の本もあると思う」


 少女はそう言って巨大な図書館を示した。

 それから少女は、この図書館がなぜ作られたのか、本がどのように運ばれてくるのか、どのような言語で書かれている本が多いのかなどを話していたが……光重はほとんど聞いていなかった。

 傍らにあった本を手に取り、それを読む。


 パラパラと、けれどもじっくりと……。


 慶国語、ガルダ語、梵語、さらにはザルマーニ語の本もある。

 それらの多くは歴史書、宗教書、商学書、さらには生産や練成といった職人の端書をまとめたものまで幅広く取りそろえられていた。

 少女は光重をしばらく眺めていたらしいが、気付くと彼女の姿はなかった。

 光重は子どものように本を読みふけった。それは若野林屋で行っていた勉学と同じように、自分が興味を持てた多くの事に対して深く没入していた。

 小窓に雪が舞い、冷風が流れ込んでくる。

 それなのにまったく意識が途切れず、尿意も感じず、喉の渇きも気にならず、じっと立ったまま書籍を読みふけった。


「そろそろ、いいかしら?」


 袈裟を着替えたのか、少女が光重の背をつついて声をかけてきた。


「えっ……あ、あれ……?」


 ここで光重は驚愕の事実に気付いた。

 自分の背後には複数の本が積まれている。

 それらは自分が読んだ本であったのだが……すでに分厚い書籍を八冊も読みこんでいた。


「ぼ、僕は何時間ここに……?」

「わからない。けれど、だいぶ楽しんでもらっている事は間違いない」


 そういって少女は微笑んだ。初めて微笑んだ少女の顔を見て、彼女が可愛らしい女の子である事にも、初めて気付いた。

 光重は慌てて本を片付けて、少女に向き直ろうとしたが……本の内容がびっちりと頭の中に刻み込まれていることにも驚いた。あの話題はどの本の何ページにかかれていて、それに関連する話題はあっちの本のあのページだ、というのが明瞭に浮かぶのだ。

 あまりの明瞭さに光重が混乱していると、少女はくすくすと笑った。


「ガルダの環境に少しずつ身体が慣れてくる。けれど、多少は身体に食べ物を入れなくてはいけない。あなたは俗世の悪しきものを吐きだしたばかりだから、とても身体が乾燥している。たとえ、ガルダに居たとしても」


 少女の発言に光重は首をかしげた。

 確かに部屋で汚らしくのたうちまわっていたが……まったく喉の渇きも空腹も眠気も感じないのだ。

 少女が図書館を出て「案内するからついてきて」と前を歩き始めた。

 このとき、標高の高いガルダの街を改めて見ることになった。

 光重はこの美しい白銀の光景に「ああっ……」と感嘆した。

 それは標高の関係で空は紫色に染まり、雪は灰のようにちらちらと太陽の光を反射させていた。


「ガルダは俗世と違う」


 少女はそう言い、この地に暦がない事を話した。

 ガルダの『楽園』に住む者たちは、寝ずに生き、わずかに飲み、わずかに食べる。叡智の集合体である書籍は豊富で、それらの記述は無限大に脳裏に焼きつく。たとえ、どのような衝撃と記憶の混乱があったとしても、この地で学んだ叡智は深く、明確に頭に刻み込まれる。

 季節の関係で太陽はわずかしか沈まない。短く、貴重な、ガルダの夜。

 仮に太陽が分厚い雲に隠れたとしても、すぐに竜胆色の空がガルダの天上に君臨する。


「……竜胆色の空、初めて見ました」


 光重は小さく呟いてから、灰のような雪に指先を伸ばした。

 少女は牛舎に光重を案内し、毛の長い巨大な牛を示した。


「ヤクの乳は永遠の命を与えてくれる。あなたも飲んでおいた方がいい。身体の渇きは急速に命を奪う時がある」


 慣れた手つきで彼女はヤクの乳を搾り、それを口に運んだ。

 彼女の手つきを真似て光重もヤクの乳を口に運んだ。味はさほどではなかったが、喉に液体が流れて行く事で、意識がさらに覚醒したように思われた。


「素敵なところだ、ガルダという地は。まるで、もう裸足である事も気にならなくなってきた」


 光重の発言に少女は頷く。


「標高が高いせいで、多くの人は大変に苦しむ。あなたが苦しんだように。でも、あなたは比較的短い期間で苦しみを抜けた。もっと苦しむと思っていたのに」


 ちょっと残念そうに少女は話した。

 光重はなんと答えて良いか分からず、苦笑いを浮かべた。


「そういえば、まだキミの名前を聞いてなかったね。僕は光重という」

「わたしは春塵<ハルカス>という名を法王より頂いた。あなたも名をもらえると良いわね」

「法王に会えるのか?」

「お導きがあれば。ここに居る修行僧の多くは、法王の御導きを待っているの」

「ずっと本を読んで?」

「ずっと本を読んで」


 この地で目立つ建物と言えば、法王の居城であるガンポ宮と半球状の『再生の胎』、そして先ほどの図書館である。他はどれも似たり寄ったりの住居で……誰もがこの三つの巨大な建造物を利用する順番待ちをしているようだった。


「法王がお呼びになったら、またあなたの元へ来るわ。それまで、あなたは好きに本を読むといい」


 そう言われて光重は悪い気はしなかった。

 ガルダへ向かい行方不明になる者が続出すると聞いたが……彼らは行方不明になったのではなく、自らの意志でガルダに居残り続けているのではないだろうか。光重はあの図書館の本をすべて読み切ってしまいたい衝動にかられていた。

 あの図書館の書籍は、どれも素晴らしい原書ばかりであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます