ガルダの楽園 02



 光重が連れてこられたのは、集落というよりは街であった。


 オレンジ色のレンガで造られた小さな家々が軒を連ねる街であり、山岳地域に築かれているためか、とても背の高い建物に囲まれているような錯覚に陥った。

 目抜き通りは山々の谷間に伸びており、その通りは蛇行しながら緩やかな上り坂となっていた。その峠道よりも穏やかな道を囲うようにしてオレンジ色の民家が立ち並んでいる。

 緩い坂道を登りきった先に、黄金色に輝く屋根の建物が見えた。


「あれはガンポ宮だ」

「偉い方の城ですか?」

「法王の宮殿だ」


 また一方には半球状の建物が見えた。その建物は半球状の構造物であったが、中心に大門があり、その左右に一定間隔で小さな扉が備え付けられていた。


「あの丸いのは……?」

「あれは大切な儀式で使用する場所だ。再生の胎と呼ばれている」

「……再生の胎」


 ガンポ宮も再生の胎も、目抜き通りから良く見える高台に建設されていた。まるでこの地を見守る両眼のように存在感を示していた。

 多くの僧侶とすれ違った。

 彼らは誰もが薄着の袈裟を身にまとっており、裸足で歩いていた。

 誰もが物静かで、誰もが静謐な雰囲気を発揮していた。

 光重を案内してくれた少女は一軒の家を示した。


「しばらくは療養した方がいい。最初のうちは苦しいが、修行によってそれらは薄らぐ。それから旅人の目的を聞こう。迷い込んだわけではないのでしょう?」


 彼女は力強く光重の身体を荷車から抱きかかえると、民家の中に運び込んだ。


「あなたは力強いのですね。子どものように見えるけれども……」

「若くに元服を迎えた。そして永くここへ留まっている」


 彼女は明確にそう返答してから、床に横たわったままの光重を置いて木の扉を閉めた。

 光重はよろよろと立ち上がって扉の元へ向かった。

 それは外側から鍵をかける仕組みになっているらしく、扉は押しても引いても開かなかった。

 小窓からは清廉な雪山の空気が絶えず流れ込み、底冷えするような寒さが部屋の中に満ちていた。

 火を焚く道具もなければ、水桶もなく、用便をどうしようかと悩んだ。

 光重は冬用の登山装備を解き、汗でぬれた身体を拭いた。

 服を脱ぐと当然に全身が震えた。

 こんな寒さの中で、なぜ袈裟一枚で平然としていられるのだろうか。

 そんな疑問が脳裏を過ったとき『彼らは奇術を使う』というラーディンの言葉を思い出した。なんとも便利な奇術だな、と光重は羨んだが……大きな問題は、すぐに彼の身に起こった。




 猛烈な頭痛と吐き気、更には寒気が光重を蝕み始めた。

 めまいによって平衡感覚を失い、寒気によって手指の感覚が消えた。

 嘔吐し、用便をまき散らし、強烈な耳鳴りに悲鳴をあげながら部屋の中をぐるぐるとのたうちまわった。

 苦しみの中で時間の感覚を喪失し、自分の肉体が液体のように溶けだしてゆくような錯覚を感じた。

 この不可思議な混濁状態のなかでありながらも、施錠を外して『あの少女』が様子を伺いにやってくる事は明瞭に理解出来た。光重をこの街へ連れてきた、袈裟がけの修行僧のような少女である。

 彼女はこちらをちらと見るなり、なにか呪文のようなものを唱えて立ち去ってゆく。外から鍵をかけて。

 それからわずかに時間が経つと、再びの苦痛が泡立つように戻ってくるのだ。

 幾度か少女は光重の様子を見に来た。その度に苦痛が引き潮のように消え、また少女が立ち去ると満ち潮のように溢れた。それらが幾度も繰り返される中で、次第に苦痛を苦痛と感じず、また耳鳴りや吐き気も勢いを逸してきた。




 どれほどのあいだ、光重は苦痛の中に居たのだろうか。

 気付けばゆっくりと意識を回復し始め、また苦痛を馴染ませることが出来るようになってきた。

 室内は荒れていた。

 まき散らされた用便と吐瀉物、壁にはひどくひっかいた痕と出血した両手の爪……。

 何者かに襲われたかのようなひどい有様が、室内にはあった。

 その一角で少女が掃除をしていた。

 嵐の爪跡をゆっくりと片付けてゆく現地人のように、彼女は布で光重の用便を拾い壺のようなものに入れていった。


「……あ、あの」

「目が覚めた?」

「え、ええ……」

「着替えを用意しているから、それに着替えて。汚れたものは捨ててしまうから」


 彼女は部屋の外に置いてある袈裟を示した。

 光重は身につけていた衣類がことごとく汚れている事を理解し、なにかよくわからないままに脱ぎ、用意された袈裟を身に付けた。

 袈裟に着替えると背中を斬りつけるような冷気が流れてきた。

 痛い、寒い……けれども、なぜだか平気だった。

 意識は次第に明瞭さを取り戻し、記憶と思考は奥行きと豊かさを光重に示していた。

 少女は光重が着替えを終えたのを確認し、外へ出でて懐より金色の鈴を取り出して、鳴らした。りんりんと音は風に溶けて山間の家々に鳴り響いた。

 すると複数の修行僧が家々から姿を見せ、こちらにやってきた。

 彼らは少女と目礼を交わすと鈴を受け取り、部屋の掃除を始めた。


「わたし達は、行きましょう」

「行くって……?」

「苦痛の回廊から解き放たれた事を祝いに」


 彼女はそう言って裸足のまま雪原へと歩みを踏み出した。

 光重も恐る恐る雪原へ裸足のまま出でた。当然に、冷たかった。

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