那曲光重の長征 15



 冬が終わり、雪解けが始まった頃に僧侶たちと間道の見回りへ出た。


 ガルダ国へ続く間道は、想像していたよりも険しく急峻だった。足で立っていられるところは良いが、場所によっては崖っぷちを蟹歩きで通り抜けなくてはいけない場所があったり、ほとんど崖を両手と両足を使って昇るような場所もあった。

 国境に近づいてくると呼吸が苦しくなった。

 軽い頭痛と吐き気も相まって、帰り路では三度ほど転倒した。崖から滑落しなかったのは、幸運だったの一言に尽きる。

 この間道の見回りで三名の遺体を収容し、二名の遺体を確認した。後者の二名については谷底に転落していたため回収ができなかったのだ。

 光重は寺院に戻るなりフェオドラに道の険しさを伝えた。

 あの難所を越えてガルダ国へ入ったとしても、フェオドラが女性であるが故に捕えられてしまっては意味がない。それに彼女のガルダ語と梵語はまだまだ不明瞭な部分も多く、慶国人や男性を装い続ける事は不可能に近いと思われた。

 雪解けの穏やかな日々が続き、ついにガルダ入国の機会がやってきた。

 光重は入国のメドが立った晩にフェオドラとふたりきりで話しあいの時間を設けた。それは自分が松治国からガルダ国の霊峰『ガイラス』を目指す理由である。

 彼女は幾度か聞いた話であったのに、真剣なまなざしで光重の話を聞いてくれた。

 このとき、光重は自分が少年から産まれた禁忌の『忌子』であることを告げた。彼女が信奉するアッラーの宗教でも、この少年から産まれた子どもは『忌子』であり『禁忌』の対象であった。

 フェオドラは「本来は死ぬべき人が、目の前に生きている」と動揺していた。

 さらに松治国で人を斬ったこと、想い人がいたこと、そしていまはフェオドラが大切な人と感じるようになったこと……そう言った事を彼女に話した。


「だから、待っていてほしい。ガルダに入って、かの地の高僧から生きるべき道を示してもらう。そうしたら、またブルフィンチバードに戻ってくる。必ず戻ってくる。だから、それまで待っていてほしいんだ」


 この発言にフェオドラは戸惑いながらも、幾度か小さく頷いてから。


「待ってるわ。十年でも二十年でも。たぶん、光重を待っている間に元服してしまうかもしれない。一緒に元服を祝えないかもしれないけれども、わたし、ずっとここで待っている。だから、絶対に戻ってきて。たとえ偉い人から『わたしを捨てろ』と言われても、必ず光重が戻って来てくれるって信じて待ってるから」


 彼女はそう言って涙を流した。


 光重は頷いて、彼女の手を優しく握った。

 思いのほかに彼女の手は冷たく、また心細いほど小さく感じられた。

 高僧は僕に道を示してくれるだろうか。示した道の上にフェオドラの存在はあるだろうか。仮になかったとしても、彼女の希望通りに光重は戻ってくるつもりだった。

 翌日、予定していた間道へ僧侶ふたりと伴って光重は入った。

 間道の雪は溶け始めており、雪解け水が硬い岩の地面をちょろちょろと伝い続けていた。滑る山道を登り、断崖を蜘蛛のように這いながら越えた。

 しかし、予定していた間道にガルダの僧侶らしき槍を帯びた人間が立っている事に気付いた。ひとりの僧侶がお伺いをたてに往くとガルダの僧兵は「間道を抜ける輩を見張らなくてはいけない」と答えたそうな。そのため、頼りとしていた間道が通れぬことが明らかとなった。

 引き返そうとひとりの僧侶が提案してきたが、仮にここで引き返せば、次の入国の好機は来年の雪解けごろとなる。光重はなんとしても今年中に入国を果たしたかった。


「他に道はないのですか?」

「道はない」


 一人の厳格な僧侶はそう答えた。


 けれども、もうひとりの僧侶――お伺いを立てて戻ってきた僧侶――は西方を示した。


「道自体はないが、この連峰を西へ進むとザルマーニ国領に入る。ザルマーニ国領はここよりも標高が高いから、まだ雪が残っているだろう。けれども、そのぶんガルダ入国に希望が持てる」


 基本的にガルダへの入国は雪にまぎれて入ってしまえというものだ。

 雪解けで足場が安定し、かつ間道の見張りが立っていないギリギリの時期を狙うのが冒険者たちの間で試みられる現在の一般的な入国方法であった。

 光重はその道を往く事とした。

 ふたりの僧侶は土地勘のある獄領ゼルバ内の道を案内してくれた。そうして、ザルマーニ国領に入るところで光重はふたりの僧侶と別れた。

 僧侶は「ガイラス山を軸に太陽と星座の位置を見極めれば、ガルダへ往ける。幸か不幸か、あの山を目指せば必ずガルダへは往けるのだ」と教えてくれた。

 光重はひとりザルマーニ国領内の険しい山々を登った。標高が高くなるにつれて硬い雪が目立ってきた。

 晴れ渡っていた夕刻前に、猛烈な冷たい風が山の稜線に吹きつけてくる。

 そしてザルマーニ国領内の連峰の頂上に立ったとき、眼前にガルダの広大な雪原と険しい山々の数々、そしてガイラス山の峻厳な雄姿が目に飛び込んできた。


「もう少しだ……」


 光重は自分に言い聞かせてガルダ国領へと密かに入った。

 だが、その日の夜に信じがたいほどの吹雪に襲われた。

 連峰の北側にあたるガルダ国領は、依然として厳しい雪に見舞われていた。数歩進んで振り返ると、自分の足跡がまったく見えないほどの降り方だった。

 夜になればなるほど風も雪も強まり、いつしか立っているのがやっという状況に陥ってしまった。


 早く避難しなくては……。


 穴を掘って雪を凌がなくてはいけない。

 光重は必死で穴を掘って雪を凌ごうとしたが、上手く身体が動かない。

 そして次第に意識が遠のき、暗い雪山の黒い吹雪の中で身を横たえた。

 遠ざかってゆく意識の中で明確な『死』の気配を察知した。

 轟々と吹き荒れる猛烈な音が、穏やかに静まり始め、暗く冷たい山の急斜面が平穏な平原のように思えてきたのだ。

 このような錯覚は肉体と魂が分離を始めている前兆だと思った。

 けれども、それが理解出来たところでどうにもならなかった。


「ああ……女将さん、また、あなたのもとで――」


 ふと女将あかねの事を口にした。

 光重にとって母親と言える存在は彼女だけだったのだ。

 そのとき、遥か彼方の山の斜面に輝く金色の光を見た気がした。

 それが何であるか光重にはわからない。混濁し始めた意識の中で妙な幻覚を見ているのだと思った。

 けれども、その金色の輝きは断続的な光を放ちながらこちらに向かってくる。

 何者かが黄金の輿に乗ってこちらに近づいてくる……。


「あれが、迎えなのか……?」


 確実な『死』を光重は理解した。そしてゆっくりと目を閉じた。永遠の眠りへと落ちる閉幕の瞑目であった。

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