那曲光重の長征 10



 脱走の機会は思いのほか早く巡ってきた。


 銀竜江の治水工事は数十万人規模の大規模なものであって、そのごく一部を指示役の男が監督しているに過ぎない。

 光重の耳に「どこどこの誰々が脱走を計画している」と聞こえてきたのは、銀竜江で働き始めて二年と半年が過ぎた頃だった。

 興味本位で光重は脱走を考えている連中と接触してみたのだが、これがまた極めて阿呆な連中であった。彼らは田舎で借金を作り、強制労働として銀竜江へ連れてこられた。日々の労働に耐えきれず、すぐにでも逃げ出そう、と考える十五名が今回の計画に参加していた。

 そもそもまったくの無関係であった光重の耳に『脱走の話があるらしい』と聞こえてきてしまった時点で、計画は隠密性を失い、極めて脆弱かつ危険なものとなっているにもかかわらず……彼らは『逃げる気満々』だったのだ。

 具体的な計画を問うと主犯と思しき男が高らかに主張した。


「そら、誰もが寝静まった頃合いを見て、一気に走るんだよ。追いつかれないところまで走れば、脱走成功ってわけだ」


 話を聞いて光重は頭を抱えたくなった。

 十五人がそれぞれ異なる方向へ走れば、誰かは必ず逃げ切れる。そしてその『誰か』は『自分』であると信じて疑わない阿呆な十五人だったのだ。

 光重は参加の可否を答えることなく、なんだか馬鹿な連中だなあ、という感想を抱いただけだった。


 それから数日して、ふと夜に目が覚めた。


 銀竜江では珍しい冷たい風が吹く夜だった。

 起き抜けに尿意を催して光重は厠へと向かった。厠と言っても簡易なもので、ほとんどが銀竜江へ垂れ流しているようなものだ。

 冷たく強い風は冬の訪れを予感させた。

 放尿している放物線の先から「おい、光重! おい!」という声が聞こえた。

 ふと見れば、脱走を企てようと公然の密談をしていた阿呆のひとりがいた。彼はへその上まで銀竜江に浸かって、こちらを見ていた。


「なにをしているんだ?」

「なにって、いまから逃げるんだよ」

「ここは厠だぞ」

「そんな立派なもんじゃねえだろ。ささ、早く来いよ。ここからなら、誰も追ってこねえ」


 そりゃ誰もが用便をまき散らす場所であるから、銀竜江の流域といえども入水する者はいない。けれども、この阿呆は前歯の抜けた満面の笑みで光重を手招いた。


「夜の闇に乗じれば、絶対に平気だ。ほら、俺は行くぞ。さっさとしろよ!」


 小さいながらも明確かつ力強い声で彼は言い、音をたてぬように水をかき分けながら用便の沈殿した銀竜江の流域を対岸へ向けて進みだした。

 銀竜江は比較的浅い河であるが、川幅がとんでもなく広い。それを渡りきる事には少々の不安があったが、長室館から乗った船が難破した経験に比べれば屁でもない。

 今日は風が冷たく、月も出ていない暗い夜である。けれども、驚くほど銀竜江の流れは穏やかだった。風が冷たい冬場は、上流で雨が降れば一挙に銀竜江は水かさを増して表情を一変させる。

 光重は放尿の勢いが弱まるのを感じながら、行くべきか否かを考えた。

 断続的に続いていた放尿が散発的なものになったとき、光重は銀竜江へ飛び込んでいた。

 柔らかく不愉快な匂いの放つ沈殿物の感触を足の裏で感じながら、光重は対岸へ向けて歩きだした。

 仲良くなっていた指示役の男には、なにやら申し訳ないような気がしたが……もう飛びこんでしまった以上は進むしかないと思った。もしも明瞭な月が空に浮かんでいたのなら、考えは変わっていただろうと幾度か空を見上げて光重は思ったのだ。

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