那曲光重の長征 09



 見た事もない港町に降ろされた光重は、肌の色が白い者、また黒い者と一列に並んでぞろぞろと市場の中を歩いた。

 そうしてから大きな屋敷の中庭で長い時間を待機させられ、次に馬車の先導によって黄色く埃っぽい平原へと連れてこられた。これだけでも丸二日の行程で、さすがの光重も疲れを感じた。

 近くに色の濁った大河が流れており、お粗末な小屋のふもとで行列は止まった。

 馬車に乗っていた良い召し物を着た男が何かを指示したが、まったく聞き取れなかった。


「あ、あの、もう一度、言ってくれませんか?」


 光重が声を張ると、衛兵らしき簡易的な鉄帽子をかぶった男に頬を殴りつけられた。


「なにをするんだ!」


 黄色い大地に崩れた光重の首を衛兵は強く組み伏せた。


 それから何か強い口調で言葉を発したが……やはりわからない。

 手枷と足枷をされているせいで、反撃はもちろん防御なども出来ない。港町からここまで歩いてくるのも、大変につらいものがあった。足首の皮膚ははがれ、血がにじむような痛みすらあった。


「ど、どうして……くそっ……」


 その日は一杯の水と匂いの強い餅のようなものを与えられた。粗末な食べ物だった。

 けれども、空に広がる満天の星空は松治のそれとは比較にならないほど美しかった。

 その星の輝きを見つめながら、光重はある疑念に思い当たった。

 世界は杯の上にあるとされている。

 蘭海は世界の端っこにあり、もしかしたら長室館の港から出港した船は、嵐によって『異界』の杯へ転がり落ちたのではないだろうか。

 杯に満たされた海から巨大な滝を下り、下界の杯の海に知らぬ間に落ちてしまった。

 もしそうであれば、先般立ち寄った港町が光重の知らぬ場所であるのも無理はない。さらに言葉が通じないと言うのも、異界ならではの障害である。

 もしかしたら長室館の港から出港した船に乗り合わせた松治国か厚真国の人間がいないか探したが……そのような人物は見当たらなかった。

 光重は空を見上げたまま「困ったなあ……」と呟く一方で、こんなにゆっくりと夜空を見上げたのはいつ以来だろうか、と多忙だった若野林屋の生活を振りかえることが出来た。




* *




 翌日から労役が始まった。


 手枷と足枷は外され、鍬のような道具を与えられた。

 そうして数十名の人々が濁った大河のほとりへと連れていかれて、穴を掘るように言われたのだ。半日ほど作業をして、光重は大河の治水工事をやらされているのだと理解した。また工事の中で指示役の男と監視役の男がいること、頻繁に交わされる単語とその意味などを意識的に確認していた。

 昼食はなく、午後の三時ごろに臭くて骨の多い魚と水を与えられた。その魚は生魚で、他の者たちは器用に手で身をほぐして食べていた。光重はとてもではないが食べることが出来ず、水だけを飲んで済ませてしまった。

 午後も作業を行い、再び満天の星の元で水と臭い餅のようなものを与えられ、眠った。



 このような肉体労働が長い期間続いた。


 食べ物と水が良くないのか、多くの労働者が下痢になったり腹痛から死んだりした。また労働は苛酷を極め、夜眠り、朝起き上がれなくなる者もいた。

 定期的に新しい労働者が港から手枷と足枷をして連れてこられる。

 その状況を考えると、どうやら自分は奴隷としてここで働いているらしいと推理できた。

 そもそも『若野林屋』で昼も夜もなく働き、勉学に勤め、稽古を続けていた身である。この程度の労働一辺倒の環境で光重は音をあげることはなかった。

 毎日が同じことの繰り返しであるため、三週間もした頃からは与えられた鍬を木剣の代わりにして稽古をしたり、指示役の男から端的な読み物を貸してもらい、読書を試みたりした。

 言葉は通じなかったが、文字は光重の知るものが多々あった。また意味合いもそこまで違わないということが分かり、地面に文字を書いて指示役の男や仲間の労働者と意志疎通を図った。

 それでわかった事だが、ここは慶国という国であること。目の前の濁った川が銀竜江という大河であり、数年に一度大規模な氾濫を起こすこと。その氾濫で慶京という都が大変な被害に遭ってしまうことなどがわかった。

 そのため慶京の役人たちは、若い労働力を集めて銀竜江の治水工事を急務で進めていると言う事だった。

 そう言うことであれば、この工事を急ぎ完遂したい。

 けれども、光重はここに長く留まりたくはなかった。出来る事なら、ガイラス山を目指す旅を再開したかった。

 指示役の男にそれを文字と曖昧な言葉でそれを伝えると、やはり「それは許せない」と首を横に振られた。

 指示役の男は気性が荒く暴力的な一面もあったが、話を聞いてくれる良い人物だった。また、食事がまずい事と役人からの給金が少ない事、嫁と喧嘩をして別居中であることを話してくれた。なかなかに気さくな人物で、光重は彼の事を少し気に入ってしまった。彼もまた光重を「言葉の知らない変なヤツだが、悪いヤツではないようだ」という具合に思っていてくれたのだろう。

 彼と良好な関係が出来ていたためか、夜に鍬を振って稽古をつけていても、とやかく言われずに済んだ。

 季節が移り変わり、治水工事は一時中断され、今度は慶京へと続く道路の工事をさせられた。伸びきった草を鎌で切り、でこぼこの道を道具を使って平らに馴らし、踏み固めた。そうして厳しい冬の時期を過ごし、再び銀竜江の治水工事へと戻ってきた。

 肉体的には厳しい日々であったが、若野林屋が襲撃された事を忘れるにはちょうど良い労役だった。なにより、女将あかねやリリア、そしてリュドミラが死んでしまった事と向きあわずに済むのは幸せなことだった。


 まずい餅を喰い、ときどき甘い饅頭を指示役の男からこっそりと貰い、臭い魚を放り捨て、泥臭い水を飲んで仕事に励んだ。


 一年と少し経った頃、密教徒だという慶国人と出会った。


 この慶国人も慶京から労働力として連れて来られた人物で、光重とよく気があった。

 この密教徒の男にガイラス山の事を聞いたところ、もっと北で、もっと西の方角だと言った。なにより慶京から遥か遠くで、そこまで行くのは無理だろうと笑われた。

 それでも光重は嬉しかった。

 ガイラス山がどこにあるのかまったくわからなかったが、やはり異界には『異界の事情』を知る者がいたのだ。ガイラス山の方角がわかり、ますます心は軽くなった。

 こうして丸二年が過ぎたとき……光重は当然のことに気づいて愕然とした。



「どうした、光重。なにか質問でもあるのか?」


 工事の進捗表と仕様書を片手に朝の打ち合わせをしていたとき、光重は「ああっ!」と声をあげたのだ。指示役の男が怪訝に眉を寄せた。


「体調でも悪いのか。今日は休めるよう、うまく役人に言ってやろうか?」

「ああ、大丈夫です。身体は全然平気です」

「そうか。でも、顔色が悪いぞ。光重が体調を崩すのは珍しいな」


 指示役の男とそのような会話を交わし、一日の工事の流れを把握したうえで『いつものように』小屋を出た。

 光重は数名の労働者を束ねる班長のような役割を担っていた。

 指示役の男から受けた指示を出し、一日の作業が始まる。

 その作業を見ながら、自分の鍬を振り上げた。

 作業をしながら痛切に実感したのだ。


「僕は、いつの間にか慶国の言葉がわかるようになっている……」


 会話だけじゃない。文章だって書けるし、文字だってしっかり誤りなく読めるようになっている。

 たった二年ではあるが、不自由なく慶国の銀竜江で生活が出来ている。

 松治国で使っていた言葉と慶国の言葉はまったくの別物だ。それでも光重は言語を理解できるまでになっていた。


 どうしてこんな当然のことに気付けなかったのだろうか。


 そう思いながらその日の作業を終えた。

 だが、そこに気づいてしまったが故に……。


「異国の言葉がわかるなら、ガイラス山へ一気に行けるかもしれない」


 そういった想いが強く芽生え始めた。

 光重の目的は銀竜江の治水工事を完遂することではなく、聖地ガイラスに到達し、高僧から生きるべき道を説いてもらう事であった。

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