第二章 那曲光重の長征

那曲光重の長征 01



 太陽暦877年 飾摩13年――。



 春の驟雨が森をしっとりと濡らしていた。


 人の寝静まった深夜に、ひとりの少年の呻きが響いた。

 驟雨に混じった稲光が、わずかな間を置いて雷鳴を轟かせる。

 十歳の少年が産み落とした子は、まさに忌子であった。

 少年が妊娠するという禁忌が現実となり、少年は苦悩の果てに子を産んだ。人知れず、野性的な枯葉の上に産み落とした。そのまま子を放置し、逃げ出そうと思っていた。忌々しく膨らんだ腹が解消されれば、このような悪夢は生涯に二度と訪れないと少年は考えたのだ。

 けれども、わんわんと泣く赤子を前にしたとき……彼は一筋の涙を流した。

 そうして一心不乱に森を走った。

 下半身には体験したことのない、筆舌に尽くしがたい激痛と疼痛が走っている。

 けれども少年は細くて小さな足で走り続けた。

 彼が目指したのは松治国の『常盤院』という箴言密教の寺院だった。

 寺院の住職は、下半身が血に染まり、ずぶぬれになった少年とその腕に抱えられた赤子を見てすべてを悟った。


「ささ、中へおはいり。誰にも見られなかったね?」


 住職の言葉に否定も肯定もせず、少年は抱えていた赤子を手渡した。

 そして、言ったのだ。


「正しき道を往きます」


 少年はそう言うと踵を返して松治城下へと駆け去っていったという。

 少年が子を孕んだ場合、それは忌子が産まれるとされていた。

 見つかれば父子ともに殺されるのが通例である。

 だが、少年は分国法に従って自首したのだ。子を産み落とし、自分が忌子を産んだ事を行政に告白したのだ。

 そうして、投獄された。

 常盤院の住職は人づてにそれを聞き、かくまっていた赤子に『光重<ミツシゲ>』という名を与えて僧侶として育てる事を決意した。

 那曲光重の名が定まった瞬間だった。




* *




 太陽暦886年 飾摩22年――。




 幼少の光重は箴言密教の寺院『常盤院』ですくすくと育った。

 僧侶たちに混じって読み書きを覚え、算術の計算などもあっという間に理解してしまった。誰もが彼を『神童』であると目を見張ったが、事実を知る住職だけは「これが忌子か」と不安と期待を抱いていた。

 なににつけても光重は優秀な成績を収めた。

 記憶力がよく、飲み込みも早く、それでいて活発で、健康体である。

 そんな光重が9歳のとき、初めての転機が訪れた。

 松治城下で漢方問屋を営む女将の『あかね』が、光重を小僧として引き取りたいと申し出てきたのだ。

 漢方問屋の女将あかねは、古くから常盤院へ通う信徒であった。

 町医者であった亭主を亡くしてから、女将として漢方問屋の舵取りをしている女性だ。村の藪医者と言われた体たらくな亭主を城下一の官医としたのは、疑うことなく女将あかねの力量である。

 いつしかあかねも医者としての技術を磨き、漢方薬の調剤から鍼灸での治療などなんでもこなす。その多くが常盤院に所蔵されていた仏教書、密教書から引用したものであると言うのは、あまり知られていない。

 女将あかねは熱心な箴言密教徒で、週に一度は住職の説法を聞くために常盤院を訪れていた。その際に光重を見かけ、興味を持ったというのだ。

 住職は忌子である光重を可愛がっていたが、この神童とも呼ばれる『忌子』をいつまでも寺院に置いておくわけにはいかないとも考えていた。そのため、あかねの申し出は願ってもいないものだった。その一方で忌子を俗世に放つことへのためらいもあった。

 思い切って女将あかねに『光重は忌子である』と告げた。

 すると意外な事にあかねは――。


「忌子だろうと落とし子だろうと構いやしない。うちは優秀な子が欲しいだけなんでね」


 そう返答してくれたのだ。


 こうしてとんとん拍子に光重の処遇が決まった。




 その年の夏に光重は漢方問屋『若野林屋』に小僧として移り住む事となった。

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