3

「……さゆりさんに何をした」

「だから言っただろう? ちょっと突いた、と」

「はっきり言え……! 適当な言葉で誤魔化すな……!」

「なってないなあ。久しぶりにあった上司に、その口の利き方はないんじゃないかな?」

 ずし、と背中に体重がかかる。枝垂が、飛鳥の背中に馬乗りになって、ナイフを飛鳥の目の先にちらつかせる。

「君に頼みたいことがあって来たんだ」

「お断りだ」

「まだ何も言ってないんだけどなあ」

 呑気に言いながら、枝垂は容赦なく飛鳥の頬にナイフを当てて、引き裂く。

 頬に熱が走った。生ぬるい何かが、頬を伝ってコンクリートに落ちた。

「私の組織に害を成す存在が現れた。柳が殺されたのは知ってるだろう?」

「ああ、知ってる。俺が殺した」

 正しくは、飛鳥と緋澄だが。

「……ほう?」

 かかっていた体重から解放される。それから、枝垂が飛鳥の肩を掴んで仰向けに転がす。

 天井の隙間から、大きな満月が見える。今日は、明るい夜だ。

 月の光を背負い、枝垂は、飛鳥のそばに膝をついた。逆光して、影になった枝垂の顔から表情は読み取れない。それが一層、不気味さを演出していた。

「ああ、君の言うさゆりさんという彼女に何をしたか、だったか? せっかくだし、答えてあげるよ」

 言うと、手に持ったままのナイフの柄を、飛鳥の下腹部に突き立てる。

「このあたりか、そうだ、彼女はここが弱かったみたいでね」

 その一言で全てを理解したと言わんばかりに、飛鳥は怒鳴る。

「あの人は……てめえみたいな野郎が触っていい人じゃねえ……!」

「ははっ、怖いなあ。だが、ふむ。この光景も中々の絶景だ」

 ナイフの柄が、飛鳥の下腹部から臍、鳩尾、となぞり、胸を通って顎にひた、と柄が添えられる。服越しに伝わる感覚に、背筋に走る不快感を、飛鳥は感じた。

「どんな気持ちだ? 自分の体を他人に好き勝手されるのは」

「……は、最悪だよ。しかもこんなクソ野郎に」

 そう吐き捨てると、枝垂のくつくつと笑う声が耳に届く。

「彼女――さゆりさんとやらもそんな想いだったのだろうな。だが、私はその感覚が一生わからないだろうね――何せ」

 枝垂に胸倉を掴まれ、引き起こされた飛鳥の耳元に、枝垂の息がかかる。

 鼻腔に届くこの匂いは、タバコの匂いか。

「――俺は、常に奪う側の人間だからだ」

 じんわりと、まるで煙のように脳の奥にまでその声が届いた。

 胸倉を掴んでいた右手が、飛鳥の左胸へと添えられた。どくん、どくん、と高鳴る心臓の音が、自分でもわかる。服の上からでもわかるその人肌の生ぬるさに、飛鳥は唾を吐きたい気持ちにかられる。

「その気になれば、君の心臓だって私が握りつぶすことだってできる。君がどこにいるかなんて、全て私は見ているのだからな?」

「……ああ、そうですか」

 苦笑いしながら、飛鳥は返した。

「いい加減、手え離してくれません?」

「そうか? それが君の望みか」

 にんまりと、笑った枝垂の表情が視界に入った。ぞっと、背筋が凍る。

「っ……!」

 爪を立てて、飛鳥の左胸を掴む。唐突の痛みに、飛鳥は顔を歪めた。

「存外いい顔をするんだな、君は。ああ、そうだ。言っておくことがあるのだが、別に君の言うさゆりさんを輪姦するようなマネはしていないぞ。彼女とは会ってもいない。そこは勘違いされては困るからな」

「……っ、じゃあ、なんでそんな紛らわしいことを……」

「君を戸惑わせてみたかったからだよ。いい顔を見せてくれてありがとう、飛鳥」

 いい加減な男だ、と飛鳥は吐き捨てたい気持ちになると同時に、さゆりが無事であることに胸をなでおろした。

「さて、話は終わりだ。君の協力を仰げないとなるのは痛手だな」

 と、飛鳥から手を離して立ち上がった。ようやく枝垂の手から逃れられた飛鳥は、小さく息を吐く。

 枝垂は、飛鳥に背を向けて出口へ向かおうとする。枝垂の方へと寝返りを打って、飛鳥は吐き捨てる。

「……ああそう。ざまあみろだな」

 その声に振り向いた枝垂は、冷たい視線で見下ろしていた。それから、静かに飛鳥のもとへ歩み寄る。

 腹部から食道に、胃液がせり上がりそうになる。枝垂が飛鳥の腹を蹴り飛ばしたのだ。

「げはっ……あ……」

 うまく息が吸えない。喘ぎながらも、何とかして肺に酸素を取り込もうと口を開く。

「昔はブイブイ言わせてた殺し屋が、こんなザマ晒すなんてなあ。堕ちたもんだな、クロウ」

 懐かしいコードネームだ、と飛鳥は笑みをこぼす。

「ああそうだな。年は取りたくねえな」

 自嘲気味に、そう笑ってみせる。

「……ふん、歳なんて関係ないよ。私は君より年上だ。だが、私がここ六年で堕ちたとは思っていない。君が堕ちたのは、君だからだ」

「……はは、痛いこと突いて来るな」

 確かに、いつからか飛鳥は自分のことをどこか諦めていた。もう歳だから、とか、なんとか。

 それが自分に暗示をかけていたのだろう。自分が堕ちたものだ、と。

「とっとと帰れよ、枝垂。次会う時は殺すから」

「こっちもそのつもりだよ、飛鳥」

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