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「……っ」

 そこに座っている人間に、飛鳥は心当たりがあった。

 呼吸を乱すことなく、飛鳥はその名を心の中でつぶやいた。

 枝垂。

 かつて、自分はその男のもとで働いていた。だが六年前を境に飛鳥はその男のもとを離れた。

 その男が、なぜそこにいるのか。

「歩幅八十四センチ。心音――BPM八二。君が来ることはわかっていたよ、飛鳥」

 ああ、と飛鳥は呆れ気味に笑う。変わっていないな、あの男は。

「君と久しぶりに話をしに来たんだが、顔を見せてはくれないのか」

 枝垂の低い声が、倉庫内に反響する。

 ざ、と音がして、枝垂がこちらへ足を向けたのがわかった。

 こちらへ近づく足音が、聞こえる。

 そのたび、飛鳥の心臓は大きく鳴る。首元の動脈が、破裂せんばかりに脈打つ。

 この男からは、誰も逃げられない。例えその手綱から離れた飛鳥でも、彼の手は完全に飛鳥を離してはいなかった。

「ああ……君に会いたかったんだ」

「そうですか、それは……光栄です」

 言って、飛鳥は立ち上がって物陰から踏み出す。あくまで、殺意は抑え込んで。

 月の光に照らされたその男の金髪に、飛鳥は懐古の念に襲われる。

 その色が、飛鳥を六年前に引きずり戻す。

「……はっ」

 思わず、そんな笑みがこぼれる。

「ああ、君も嬉しいか、私と会うことができて」

 枝垂は、壮年の皺の寄った頬を緩めて笑った。それは、心から許せる相手にのみ見せる表情だ。

 だが、飛鳥はそんな枝垂とは裏腹の心を抱えたままだ。

「それで、こんなところに何の用ですか? あれ、俺の獲物だったんですけど」

 枝垂の肩越しに見える積もった荷物のような「それ」は、人間の死体だ。

 飛鳥が今日、ここで殺すはずだった組織の連中だ。

「ああ、君のパトロンから話を聞いたよ。飛鳥は今どこだ? って」

「さゆりさんに……?」

 飛鳥は、目を丸くする。

「ああ、さゆりさん、と言うのか彼女は。楽しくおしゃべりさせてもらったよ、彼女とは」

 枝垂は目を細めてそう語った。

「とても可憐な人なんだね、あのさゆりさんという人は」

「……何の話ですか?」

「あれが君の新しい女の子? やっぱり、若い子が好きなの?」

「違いますよ。さゆりさんはそんな人じゃないですし、俺もその手の遊びはもうやってないですし」

 飛鳥はそう言って頭を掻く。つかみどころのない会話に、少しの苛立ちを見せていた。

「てか、さゆりさん俺のこと話したのか……」

「ああ、素直に話してくれたよ。ちょっと突いただけなんだが、彼女の怯えた目は見たことがないだろう? ははっ、可愛らしい目をしていたよ」

「……っ!」

 頭に血が上っていた。

 ああ、やっぱりそう言うことか、と飛鳥は隠していたナイフを枝垂の視界に入らない脇腹に突き刺そうと腕を振った。怒りを表情に表さないように。

「なっ……?」

 だが、それは枝垂の腕に阻まれる。がっちりと、飛鳥の右腕を掴んでいた。

「久しぶりに会ったって言うのに、昔の上司を殺そうだなんて、酷いじゃないか」

「……はは、枝垂さん、あんた、俺の職業が何だかわかって言ってんですか……?」

「ああ、なんだったか? ジゴロ?」

「殺し屋ですよ……!」

 右足で踏み込んで、左足で枝垂の鳩尾に蹴りを入れる。

 蹴りによってバランスを崩した枝垂の手から、飛鳥が解放される――かと思いきや、枝垂は飛鳥の腕をしっかりと掴んだままだった。

「はあっ!?」

 予想外の展開に、飛鳥は素っ頓狂な声を上げた。

 枝垂の転倒に巻き込まれた飛鳥は、逆に枝垂に組み伏せられていた。冷たいコンクリートに頬をこすりつけ、両手を後ろ手に拘束されている。

「何年経っても、君は狂犬だなあ、飛鳥。武器を持ったまま君と話すのは、私の命が危ないようだし、これは没収だ」

 言って、枝垂は飛鳥の手からナイフを取り上げる。それから、両手首を何かで拘束されていた。びくともしない。結束バンドか何かで固定されているのだろう。

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