第50話 クスノキ祭⑩
『十七時になりました。間もなく閉門の時間になります。お忘れ物のないようにしてください。……また、生徒の皆さんにご連絡します。後夜祭は、十八時より行います。片付けを済ませてから、是非ご参加ください。よろしくお願いします』
長い一日目が幕を下ろした。
どっ、と疲れが出た感覚に陥った。
不味いぞ、自分。未だ一日目なんだからな。未だあと一日残っているんだからな……?
「いっくん、どうしたの。そんな疲れたような顔して。未だ一日目が終わったばかりじゃない」
「あ、あはは……。それぐらい分かっているよ。大丈夫、大丈夫。問題なし」
「ほんとうに? ……何だか凄い心配になってくるけれど。いっくんが大丈夫と言っているなら良いか!」
本当に良いと思っているのだろうか?
答えは見えてこない。もしかしたら、あまり気にしていないだけなのかもしれない。
そうそう、気にしたら負け。答えはそういう風に決着が着いている。
「いっくんも片付け手伝いに行くでしょう?」
ずい、と手を引っ張られた。
「おい、手を引っ張るなよ。歩けるから……歩くから……」
「あら、そう。なら良いんだけれど」
おい、いきなり手を離すな! 危うく転びそうになったぞ。そんなことあずさは気にしていない様子で、ただ僕の顔をニコニコと見つめていた。何だ? 僕の顔に何かついているか? 顔はきちんと洗ってきたからそんなことはないはずなんだけれど。強いて言うなら、昼ご飯のガパオライスの肉片が口の周りについているとか? それはそれで汚い食べ方をしていると認めることになるのだけれど。
「……何か変なものでもついている?」
「いや、そんな訳はないけれど。ただちょっと気になっただけ」
気になっただけ?
それだけでじっと顔を見つめていたのかよ。
何というか、あずさらしいけれど。
「とにかく、片付けに行こうぜ。そうしないと先ずは話が始まらないんだろ。……さ、」
今度は、僕が手を取る。
あずさはそれを受け取って、僕と手を結んだ。
思えば、三ヶ月ずっと活動してきて、彼女と手を繋いだこともなかった。
「あずさばっかりずるい。私も繋ぐ」
もう片方の手を、アリスが強引に奪い取っていく。
何だかこれじゃ、カップルというよりは親子みたいな関係性みたいだ。
……でも、こんな日常も長く続かないことは知っている。
知っているんだ。クスノキ祭が終われば、大人達は全力で彼女達を戦争の道具に使う。
僕はそれから逃げなくてはならない。僕はそれから逃げ出さなくてはならない。
どうやって?
どうやって、逃げれば良い?
答えは見えてこない。
答えは――暗中模索といったところだった。
※
「遅かったね、いっくん達! 片付けはもう殆ど終わっちゃったんだよね! だからさっさと後夜祭に行っても良いよ? 後夜祭は例年通りだったら、噂によると面白いこと間違いなしらしいからね……ふふふ」
藤岡さんがそう言うなら。
そういう訳で、メイド服から制服に着替え終わるのを待っていた。
「よう。いっくん」
「……池下さん」
池下さんと会った瞬間、クラスでの喧噪が遠くに消えていったような、そんな感覚に陥った。
「何、抗戦態度取っているんだよ。俺は未だ何もしねーっての」
「でも、クスノキ祭が終わったら彼女達を連れ去るんですよね」
「……まあ、それが俺の役目だからな。勿論、他にも人間は居る。だから、俺以外の人間が連れ去る可能性だって充分にあるだろうよ」
「でも、僕は……」
「彼女達を逃がしたい、だろ?」
「……え?」
池下さんの言った言葉は、僕の想像を超えるものだった。
いったい、彼は今何と言った?
彼は、『彼女達を逃がしたいだろ?』と言ったか?
「どうしたどうした、いっくん。もう少しシンプルな話をしよーぜ。俺はあいつらを戦争の道具にすることは悪いことだってことは自覚しているつもりだ」
「は?」
「考えてもみろよ、普通に考えてこの国の未来を、十二、三そこそこの娘二人に任せるか? そんな国ならさっさと滅んじまった方が良いと思う。そうだ。そうだとは思わねえか?」
「それは言い過ぎなような気もしますけれど……」
でも、納得。
大人が前に出ないで、子供を使うんなら、そんな国はなくなってしまえばいい。
池下さんの話は続く。
「そうだよ、そうだよ、いっくん。もっと物事をシンプルに、かつ気分良く考えようぜ。物事はシンプルイズベスト、ってね。悪くない考えだろ?」
「でも、逃がしたら、責任を問われるのは、池下さんですよね?」
「それがどうした? 俺が責任を問われたところで、結局は子供のお世話だけじゃねえか。それで逃げられたのなんだの言うんだったら、最初から自衛隊がお付きを用意しておけば良かっただけの話なんだ。だのに、俺達みたいに偽装した人間を用意しておくこと自体が間違っているって話だよ。そうだろう?」
そうだろうか。
いや、そうなのかもしれない。
そんな風に思えてきた。
「だったら、いっくん。一歩前に出ようじゃねえか。話はそれからだ。どうなるかは分からねえ。けれどよ、逃げる権利を持っているのはいっくん、お前だけなんだぜ?」
逃げる権利。
それは正当な権利だと言えるのだろうか。
いや、正当な権利だ。そうとしか言い様がない。
「だったら、もっと彼女達を楽しませてやれ」
ぽん、と肩を叩かれる。
「あれ? 池下さん、来ていたんですか?」
ちょうどそのタイミングであずさとアリスが空き教室から出てきた。
「おう、ちょっとこっちに用事があってな。俺は後から行くから、お前達も後夜祭見に行けよ。後夜祭は例年面白いぞ?」
「はい!」
そう言って、あずさとアリスは走って行った。
僕は少し後ろめたさを感じながら――池下さんの下を離れるのだった。
※
「……可哀想な子供達だとは思わないの?」
池下の背後には、誰かが立っていた。
池下は頭を掻いてから、話を続ける。
「そんなこと言っても、彼女の『記憶』を解放するにゃあ、これしか方法がねえ、ってのは分かりきっている話だろ? たとえ彼女達の『監視』を一瞬解除しても、な」
「彼が無事動いてくれるかしら?」
「それはあいつの心持ち次第じゃねーの。俺は知らねえよ。これ以上は出る幕なしって訳」
「ちょっとあなたね……」
「さてと、あんたも後夜祭、出るのか?」
「先生としては出ないといけないでしょう。それぐらい分かっていての、発言ではなくて?」
「……それもそうだな。俺も行かないとな」
そうして、二人の会話は終了した。
その会話は、何処にも記録されることもなく、闇に葬られるのだった。
※
後夜祭はカラオケ大会だった。それも、誰もが参加可能な、ごった煮といったところの。
「これが面白いってことだったのか……?」
でもまあ、池下さんは恐らくこの学校に来て時期が浅いだろうから知識も浅いのだろう。
それを考慮したら、池下さんの知識を信用すること自体が間違っていたのかもしれない。
しかしながら、だとしたら。
「一番、『とおせんぼ』歌いまーす!」
明らかに酔っ払っている先生が、ボカロ曲を歌ったり。
「続いて『氷に閉じ込めて』歌います!」
同じ一年生の誰かがしんみりとした曲を歌ったり。
何だろ、悪くないな。こういうのも。
「いっくん、こういうのも悪くないね?」
「……ああ、そうだな」
そんなこんなで。
一日目は幕を下ろしていく。
二日目のために、英気を養うために、僕達は早く帰るのだった。
※
「お帰りなさい」
「……ただいま」
家に帰ると、父は居なかった。
「父さんは?」
「ごめんねえ、父さん。ご飯を食べる時間までは居ると思ったんだけれど、急に仕事が入っちゃったらしくて」
住み込みの料理人に『急な仕事』?
何だかきな臭くなってきたような気がするけれど――今は何も言えなかった。
「そうなんだ。じゃあ、僕と母さんだけで夕食にしようか」
「うん。いっちゃん、お腹空いているでしょう? 今日はカレーにしたからね」
カレー!
カレーは良いよ、カレーは。最高に素晴らしい食べ物だと思う。祖父だけカレーが嫌いだったのだけれど、それが全然理解できないレベルには僕はカレーが大好きだ。というかカレーが嫌いな人間の思考が理解できない!
「カレー! カレー!」
「はいはい、先ずは手を洗ってからね」
そうだった。
慌てちゃいけない。カレーは逃げないんだ。
そう思って、僕は洗面所へと足を運ぶのだった。
手を洗って、鞄を部屋に置いて、序でに着替えてきて、椅子に腰掛ける。
カレーがやって来る。カレーの良い香りが漂ってくる。母の作るカレーは絶品だ。父はいつも『お前の料理は味が濃い』などと言っているのだけれど、僕はそれがお袋の味って感じがして嫌いじゃない。次に好きな料理は肉じゃがだ。味が濃すぎて一個のおかずになってしまうレベルの肉じゃがが、僕は好きだ。
「文化祭、どうだった?」
母が言ってきたので、僕は笑顔で答える。
「楽しかったよ。あんなの初めてだったからちょっと興奮しちゃったかな」
けれど、表情には出さない。
僕はいつもクールだと言われるのだ。或いはポーカーフェイス?
「そう。それは良かったわね」
食事は進んでいく。
食事を終えて、皿をキッチンに運んで、風呂に入る。
風呂に入って、今日のことを思い返しながら、明日のことを期待していた。
明日はどんな出来事が待っているんだろう。
明日はどんなことが待ち受けているのだろう。
そんなことを思うと、僕は眠れなくて仕方ないのだった。
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