第45話 クスノキ祭⑤
僕は、何も言えなかった。
言い出すことが出来なかった。
いつか、離れる日が来ることは分かっていた。そして、それが徐々に近づいてきているということも分かっていた。
けれど、それから逃げていた。
けれど、それから逃げたかった。
僕は、それが嫌だった。
僕は、それが出来なかった。
「……いっくん?」
「……あずさ?」
立ち尽くしていると、あずさが声をかけてきた。
未だメイド服を着ているところを見ると、どうやらクラスのメイド喫茶談義は続いているようだった。
「いっくん、どうしたの? とても青ざめた表情を浮かべているようだけれど」
「……あずさ。いや、何でもないよ。何でも、ない」
「ほんとう?」
「…………ああ」
嘘を吐いてしまった。
嘘を吐くしかなかった。
嘘を吐くしか、道がなかった。
「あずさ」
「何?」
「……もし、僕と一緒に逃げようと言ったらどうする?」
「何、突然」
彼女は笑いながら、僕に語りかける。
彼女には――記憶がないのだろうか。
確か、今池先生と桜山先生がそんなことを言っていたような気がする。
でも、彼女の記憶が戻ってしまうのは――僕にとって悪いことだと思っていた。
「いや、ちょっと気になって」
「ちょっと気になって、ってどういうことよ。私だって気になるんだけれど。いったい全体、どうしてその話になった訳?」
「……えーと、UFOに連れ去られてしまったら大変だな、と思って」
「何、それ。馬鹿じゃないの」
そう言って。
あずさは走り去っていった。
僕はキットカットの入った袋を持ったまま、その場に立ち尽くしてしまうのだった。
「早く来なよ、いっくん」
あずさは笑って、語りかける。
僕だけ、全てを知っている。
僕だけ、自由に出来る。
僕だけ、彼女を自由に出来る。
あずさとアリスを、助けることが出来る。
夏が終わってしまう前に。
文化祭が終わってしまったら――彼女達は居なくなってしまう。
それだけは避けておきたい。
それだけは避けてしまいたい。
それだけは何とかしておきたい。
僕は、僕は、僕は――。
※
何も出来なかった。
ずるい存在と言われても仕方なかった。
ひどい存在と言われても仕方なかった。
だから、僕は――せめて。
※
「高畑さん可愛いー!」
そう言って頬ずりをするのは、藤岡さんだった。
藤岡さんは可愛いものが好きな性格だったようで、どうやらそれがアリスになってしまったようだった。アリスはメイド服を着ているがそれが随分とお気に召しているようで、すっかりメイド服の虜になっているようだった。しかし、実際メイド服を着たことのない女子は多かったはずだし、どういう価値観でメイド服を着こなすのかということについて、やっぱり考えたいという思いも出てくるのかもしれない。もしかしたら、出てこないのかもしれないけれど。
「……藤岡さん、それぐらいにしてあげたら? アリスが嫌がっているように見えるけれど」
「何処が?」
アリスはずっと無表情を貫き通している。
いや、少しは表情に出せよ……。
「ほら! あんまり気にしていないようだし、別に問題ないんじゃない? 可愛い、可愛いよ、高畑さんー!」
頬ずりをずっと続けている藤岡さん。
アリスはずっとぼうっとした表情でこちらを見つめている。何だ、止めて貰いたいのか。止めて貰いたくないのか。はっきりしろ。
「……ちょっと、藤岡さん。メニューの考案はどうなったの?」
そこで手助けが入った。
正体はあずさだった。
あずさが声をかけてくれたことで、藤岡さんは頬ずりをするのを止めて、こちらを向いてくれた。
「……あら? メニューなら男子が考えていると思っていたけれど」
「そう思っていたんでしょう? けれど、男子は料理の経験なんて皆無だからみんなちんぷんかんぷんになっているわよ。……やっぱりまとめ役には女子が居ないと」
「それで、私が?」
「だって、藤岡さん料理得意でしょう?」
「……そう言われると照れちゃうなあ」
おい、否定しろよ。
藤岡さんは漸くアリスから手を離すと、黒板の前でああだこうだ言っている男子達の方へと向かっていった。
「ほら、いっくんもやらないと」
「やらないと……って何が?」
「決まっているでしょう。料理のチョイスだよ。それぐらい決めておかないと後で変なこと言われても知らないんだからね。例えばフォアグラのソテーを作りますとか言い出したら料理にかかる費用をどう捻出するつもりなの?」
「学校でフォアグラのソテーなんて出せると思っているのか、お前は……!」
「冗談、冗談! でも、話に参加しないと後々ちょっかいを出す権利は失うよ? だったら、今のうちに存分にちょっかいを出しておいた方が良いんじゃない? って話だよ」
「ちょっかいを出す必要があるかどうか、って話だろ、実際には……」
「え? そういうもの?」
「そういうものだよ」
僕とあずさは会話をしている。
黒板の前では、藤岡さんがリーダーとなって料理を決めている。
少しずつ、クスノキ祭が近づいてくるのを――実感せざるを得ないのだった。
※
「諸君、原稿の進捗はどうかね!?」
久しぶりの部活動。部長は開口一番、僕達に向かってそう言い放った。
「そんなこと言われても、というのが正直なところですけれど」
僕は言い放った。実際の所、未だ原稿は半分も書き上がっていない。納期まではあと一週間近く――いや、正確には二週間あまり――残されているのにもかかわらず、だ。五月蠅い、僕は後からブーストがかかるタイプの人間なんだ。別に締め切りまでに書き上げれば何の問題もない訳であって、それ以上の意味はないはずだ。それ以上の意味など、関係ないはずだ。
「とは言ってもだねえ。新聞部との兼ね合いもあるし、出来る限り誤字脱字はなくしておきたいところだし、印刷のかすれとかあったら困るし……。だから出来ることならもちっと早くして貰いたいものなんだよねえ」
「そんなこと言って、部長は出来ているんですか、原稿」
「全然!」
いや、そんな笑顔で言われても……。
「実際問題、どれくらいの人間が書き上げているのか、というのが気になってな! いや、悪い話でもないだろう。それが難しい話になっている訳でもあるまいて。……だがな、しかしながら、実際難しい話になっているなら早めに相談して欲しい。何せ紙幅は有り余っているのだ。本来ならば、金山、お前にも参加して欲しいところだが……」
「言ったでしょう!? 私は、部活動よりも生徒会の仕事が忙しいって! 何処かの誰かさんが仕事をすっぽかさない限り、私は仕事が二倍になって降り積もってきているんだって! だから誰かが仕事をやってくれれば良いんだけれどねえ……?」
「……分かった。僕が仕事をやろう」
「お?」
金山さんはまさかそんな展開に発展するとは思っていなかったのか、首を傾げてしまっていた。
「どうした、金山? 僕がわざわざ仕事をやってやろうと言うのだ。だったらお前も余裕が生まれるだろう? そしたら、こちらの原稿も手伝うことが出来る。違うか?」
「それは、違わないけれど……」
「決まりだ。諸君、僕は今日から生徒会の仕事も手伝う。だから、金山に原稿を書かせる。これで紙幅はちょうど良い塩梅になるだろう。もし何かあったら生徒会室へ足を運ぶように。それじゃ、行くぞ、金山」
「あ、あ、ちょっと。手を引っ張るなーっ!」
そう言って。
半ば強引な形で、部長と金山さんは部室を出て行ってしまった。
「良いんですか?」
深々と溜息を吐く池下さんを見て、僕は言った。
「良い訳ないだろ。それってつまり俺に全ての原稿を任せるって言っているようなもんだぞ。……まあ、そうなるんじゃないかな、って思ってはいたけれどな。実際問題、スペースが有り余っていたのは事実だ。誰かの原稿を増分して何とかしようか、なんてことも考えていたぐらいだ。或いは文字の大きさをでかくして、そうすればスペースが埋まるだろうなんてことも考えていた。だが、それじゃ、内容のスカスカぶりが目立っちまう。だったら誰か、最悪ゲストライターでも呼んで紙面を埋めるしかない、という結論に至っていたところだった訳だが……。まあ、あれで良いなら良いんじゃないか?」
良いのか。
それで良いのか。
僕はそんなことを思いながら――原稿を書き進めていく。
残りのページ数を確認しながら、僕もまた深々と溜息を吐くのだった。
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