第二幕 光と闇の戦い

第1話 「別れ」

 遠くに広大な大海原が見える。快晴の太陽の光りを受けて、青く煌びやかに輝き、それはレイチェルに故郷のエイカーの海を思い出させた。

 そうして少しだけ気分が落ち着いて来たような気がした。

 あれから五日。彼女の心を幾度も動揺させ、後悔と悲しみを思い出せる墓標の姿を、今は冷静に思い返すことができた。

 火山の火口近くに拵えたクレシェイドの墓には、墓標代わりのミノタウロスの太刀が突き立てられている。残念ながら彼の遺灰は、埋葬する前に悪戯好きな微風によって大空へ運ばれてしまった。

 レイチェルはベッドを振り返った。三つ並んでいるそれの一番向こう側には、こちらに背を向けて横たわる有翼人の少女の姿があった。レイチェルは心配しながらその白い翼のある背を見詰めていた。

 クレシェイドが死んで誰もが悲しみ、それを引き摺っていた。だが、一番心に傷を負ったのはティアイエルのようであった。彼女はもう三日、ベッドに横たわったままであった。食べ物もライラが気遣い苦労して見繕って食べさせている。ティアイエルは、暗い表情でそれを受け取り、その半分も食べないのであった。仲間の誰もが、有翼人の少女の変わり果てた姿を気にかけていた。



 夜になり、一行は宿の一階にある食堂に降りてきた。

 そこは旅人や冒険者、船乗り達で満員で賑やかだった。昨日の晩まではそこに広がる音や声がうるさいだけの、不快で、どこか不謹慎な音にしか聞こえなかったが、今日のレイチェルはその賑わいに心が明るく満たされ、人々の思い思いの眩しい笑顔に励まされているかのように思えたのであった。

 彼女達は食卓に着いた。レイチェル、サンダー、ライラ、ヴァルクライム。そして一つだけ空いた空席を皆は悲しげな表情で見ていた。

 するとサンダーが言った。

「よーし! 昨日はカニでその前はタコだったから、今日はイカ……いや、エビ! いやいや、両方食うぜ!」

 その声に一同は鼓舞されたかのように視線を上げ、思い思いの食事を注文し始めた。レイチェルも、まだクレシェイドが死んでから間もないのに、不謹慎で後ろ髪を引かれる思いをしたが、今日は空腹の方が大いに勝っていた。

 彼女は声を上げて肉を注文した。すると声が聴こえた。

「良いわね、肉。アタシも肉が食べたい気分だわ」

 見れば階段の前に有翼人の少女が佇んでいた。その顔色はとても良く、いつも通りどこか気丈で冷静な表情も戻っていた。

「ティアイエルさん」

 レイチェルが言うと、ティアイエルは給仕に肉と酒を注文し、こちらに向かってきた。彼女は席に着いた。一同は軽く呆気にとられ、有翼人の少女を見ていた。

「何よ?」

 彼女はそんな視線を訝しげに見詰め返して尋ねてきたので、レイチェルは慌てて作り笑いを浮かべて目を逸らした。

 料理が運ばれてくると、レイチェルは夢中になって肉を頬張り、その絶妙な塩胡椒と、食べた事のない芳しい香辛料に舌鼓を打った。レイチェルとサンダーは、食事のおかわりをした。珍しくティアイエルも続いた。そうして腹が少しずつ膨れ始めた頃になってレイチェルは冷静さを取り戻した。周囲の賑わいが耳に入る。そんな中、ティアイエルが酒を注文した。

「すまん、ティアイエル。少し飲みすぎじゃないか?」

 ライラが言うと、有翼人の少女はそちらを見た。

「そうかもね。これで終わりするから、心配しないで」

 彼女はそう答えた。そうしてグラスでワインが運ばれてきた。レイチェルはティアイエルがそれに手を伸ばすのを見ていた。

 だが、その手は方向を変え、肉を切り分けていたナイフを手にしていた。ティアイエルはナイフを力強く握り締めていた。レイチェルが訝しく思っていると、彼女は次の瞬間、ナイフの刃先を自分の喉元に向けた。

「ティアイエル!」

 レイチェルが驚いた瞬間には、横合いからライラがその刃先を掴み取っていた。

 そうしてティアイエルは呆けたように一同を順繰りに見回した後、涙を流した。

「死ねない。どうして死ねないのよ……」

 彼女は机を何度も殴り付け、俯いた。すると、ライラが立ち上がり彼女を抱き締めた。

「ティアイエル、上に行こう。少しだけ飲み過ぎたんだ、きっと」

 ライラが優しく言うと、ティアイエルは嗚咽を漏らし、彼女に連れられて階段を上がって行った。

「少しびっくりした」

 サンダーが言った。レイチェルも頷き、ティアイエルのことが心配になった。するとヴァルクライムが言った。

「クレシェイドが死んで、我々も少なからず心に傷を負ったが、どうやらティアの嬢ちゃんのそれはかなり深刻なようだな」

 魔術師はワインを呷ると、その色を確かめるように眺めながらそう言った。

「どうすれば良いんでしょうか?」

 レイチェルは尋ねた。

「治る時が来るまで待つのが普通だが……。そうだな、クレシェイドの奴も、今のティアの嬢ちゃんの姿を見れば、安らかには逝けないだろう」

 レイチェルとサンダーは魔術師の言葉を待った。

「クレシェイドとちゃんとした別れができれば、良いのかもしれんと、私は思う」

 レイチェルもサンダーと驚いて顔を見合わせた。

「でも、おっちゃん、クレシェイドの兄ちゃんはもう……」

 サンダーが言うと、魔術師は頷いた。

「その通りだ。死者をちゃんとした形で生き返らせる方法は、残念だが、今、この世からは失われている。ならば、我々の記憶の中にある彼の姿を出すしかない」

「どういうことですか?」

 レイチェルは再びサンダーと顔を見合わせて尋ねた。

「幻覚を見せるのだ」

 魔術師は言った。

「ティアの嬢ちゃんの記憶の中にあるクレシェイドと、彼に対する思いを融合させ、ティアの嬢ちゃんにとって理想の別れ方を見せる事ができれば良いわけだ」

 サンダーは首を傾げた。

「わかるような、わからないような……でも、それって簡単にできるの?」

 その問いに対する答えが出る前にレイチェルは尋ねた。

「危険な方法なんですか?」

 魔術師は持ち前の落ち着いた口調で応じた。

「方法は簡単だ。材料さえ集まれば、そうする薬を煎じることができる。薬を飲んだ対象者は著しい興奮状態に陥るため、危険と言えば危険だな。そのような状態では、先ほどの様な行為に及ぶこともあるかもしれない」

 レイチェルは、ティアイエルがナイフで自分の喉を刺そうとしたところを思い出し、慌てて首を横に振った。魔術師が言った。

「薬は眠る前に飲ませることになるだろう。私と少年は、部屋に入る事が出来ぬ故、レイチェル嬢ちゃんと、ライラに見張りを頼むことになるだろうな」

「方法はそれしか無いのですか?」

 レイチェルは縋るように尋ねたが、魔術師は応じた。

「今のところはな……」

 どうするべきだろうか。時の流れが本当にティアイエルの心の傷を癒すかと言えば、それも疑問である。その間に、咄嗟の拍子に先ほどのような危険な行為に何度も及ぶ事だって考えられる。自分達も付きっきりで彼女を見ていることはできない。

「その時は、俺も姉ちゃん達のベッドの下に隠れてれば良いのかもしれない」

 サンダーが言い、レイチェルは相手を振り返った。

「へ、変な意味じゃないよ。真面目に、もしもの時のため抑えになればと思って。三人いれば、もしもの時でも何とかなるでしょう?」

 その言葉を聞いてレイチェルの心は決まった。まずは魔術師の言う方法を試してみよう。もしも、危険な方向に進んだようなら、必ず自分達が抑えてみせる。

「やりましょう」

 彼女が言うと、魔術師は頷いた。



 二



 翌日、朝食を終えると一行は行動を開始した。

 ティアイエルの面倒をライラに任せ、ヴァルクライムは、魔術師ギルドの研究室へ赴き、レイチェルとサンダーは、海岸で残りの素材探しをすることになった。

 集める素材は、ガンベロという名の小さなエビの仲間を桶二杯分である。何でも野山にいる赤いダンゴ虫の代わりだと言う。それをすり潰したエキスが必要だということだ。

「それじゃあ、行ってきます」

「気をつけてな。深いところには行くんじゃないぞ」

 ライラに見送られ、レイチェルとサンダーは網と桶をそれぞれ一つずつ抱えて宿を出発した。

 ティアイエルの手前、不謹慎かもしれないが、レイチェルはとても浮き浮きしていた。彼女の故郷エイカーは港町である。幼少の頃は引き潮でできた磯の潮溜まりに網を突っ込んで、そこに住む生物を捕らえてよく観察したものであった。あの時積み重ねた確かな経験と感が思い出され、彼女は武者ぶるいしていた。

 港から外れたところに磯が小島のように姿を延々と現わしていた。

 レイチェルは慣れた動作で磯を歩いたが、その後ろでサンダーは覚束無い足取りで追って来ていた。

「姉ちゃん、意外なところで身軽なんだね」

 サンダーにそう言われ、レイチェルは嬉しくて微笑んだ。

 ちょうど良い潮溜まりを彼女は発見した。彼女は神官の衣装をたくし上げ、ベルトに挟んできつく止めた。そうして靴を脱いで潮の中に足を踏み入れた。もうすぐ冬が近いためなのか、水はとても冷たかった。

「サンダー君は反対側からお願い」

「わかった」

 少年は不慣れな足取りで向こう側へと回ると、同じく潮の中に降りた。

「よーし、捕るぞ!」

 少年が威勢良く網を突っ込もうとした時、レイチェルは素早く制止させた。

「待って。闇雲に網を動かしても、たくさんは取れないよ。こう言うときは追い込めば良いんだよ。二人で海の底を蹴りながら網を近づけてくの」

「そうなんだ。わかった」

 そうして二人はジャバジャバと海面を荒立て、互いに網の口を向けながら近付いてゆく。互いの網の口が合わさり、レイチェルは網を引き上げた。

 水が海面に滴り落ちる音と共に、彼女は確かな重さを感じた。

 網の中には小さな生き物がたくさん掛かり、忙しく跳び上がっている。その中に目的のエビが何匹もいるのを彼女は見た。黄色っぽい鮮やかな色をし、両腕のハサミは丸みを帯びていて、それこそ事前にヴァルクライムに聞いた特徴だった。ただ、このエビは物凄く小さかった。もっともっと網を振るう必要がある。

「わぁ、姉ちゃん、何これ、蛇みてぇな魚」

 少年が網を差し出す。中を覗くと、それは長くて茶色のしっとりしていてそうな肌を持った中ぐらいの魚であった。

「ウツボだよ」

「食えるの?」

「うん」

 レイチェルは頷いた。故郷のエイカーではこれを開いて腸を取り、炭火で焙って甘いタレをつけた物が売られていた。

「ティアイエルの姉ちゃん食べるかな?」

「うーん、今は無理だと思うよ」

 レイチェルはそう答え、何と無くだが、たとえ元気になっても、この蛇に似た魚を、有翼人の少女が喜んで食すとは思えなかった。

「そっか。じゃあ逃がそうか」

 サンダーが手を触れようとした時、レイチェルは注意した。

「知らない生き物を掴むときは気をつけてね。中には毒を持った魚や生き物もいるんだよ」

「これは?」

「ウツボは毒は無いけど、噛みついてくるから気をつけてね」

 レイチェルの言う通り、ウツボは興奮し、少年の手に向かって幾度も噛み付こうとしていた。サンダーは、苦労しながらそれを掴んで海へ放り投げた。

「じゃあなウツボ、もう捕まるんじゃねぇぞ!」

 サンダーの網の中にも、ハゼなどの海の生き物に混じってガンベロの姿が幾つも見受けられた。二人はガンベロを桶に入れた。数はたくさんいるが、何せその小ささから、桶いっぱいにはまだまだであった。

 二人は場所を次々と変えて太陽が昼の位置に昇る頃まで、夢中になって網を動かしていた。そしてようやく集ったガンベロを今度は魔術師ギルドに運んだのだった。

 その道中、ふとした様子でサンダーが尋ねてきた。

「ダンゴ虫の代わりがエビって何か変じゃない?」

「そういえば、そうだね」

 レイチェルは思案して頷いた。

「もしかして、ダンゴ虫とエビって同じ仲間なの?」

「……」

 レイチェルには恐ろしくて答えられなかった。

「昨日、食べちゃったよ……」

 少年は落胆する様にしてそう言った。



 三



 ヴァルクライムが戻って来たのは、夕暮れが過ぎてからだった。掌ほどの大きさの包みを見せ、これが幻覚を見せる薬だと説明した。

 ティアイエルは眠っていた。その隣の部屋で、一同は手順を確認した。まず、薬を盛った茶を出すのは前例があるため、ティアイエルも警戒するだろうと考えた。その中で一番自然に茶を進めることができるのはライラだろうということになった。

「ティアイエルを騙すのか……。だが、私しかいないのなら仕方がない」

 ライラは不承不承という様子で引き受けた。それからは以前話した通りだった。有事に備え、レイチェルとライラと、ベッドの下に潜むサンダーは夜通し起きている。

「私も女ならば役に立てたのだがな」

 ヴァルクライムが言った。

「おっちゃんは、一日がかりで薬作ってくれたじゃん。後はしっかり寝てて俺達に任せてくれよ」

 サンダーが威勢よくそう応じた。

 そうしていよいよお茶に薬を盛る時が来た。紅色のお茶に、ヴァルクライムは包みに入っていた一摘まみ程の薬を注ぎ入れた。そうしてスプーンで掻き混ぜた。ライラが緊張の面持ちでそれを受け取り持って行った。

 扉が開いていたため、二人のやり取りが聴こえた。

「ティアイエル、お茶を持ってきたぞ。少しは水分を摂った方が良い」

「ええ……そうするわ」

 ティアイエルの暗い声が答えた。

「ありがとう、ライラ。アタシ、もう少し寝るから」

「わかった」

 ライラは戻って来た。

「とりあえずは、全て飲んだ」

 彼女が言うと、レイチェル達は頷いた。作戦開始だ。



 四



 そういえば、彼女はずっと眠っている。もしかすれば、今夜に限って目が冴えてしまうかもしれない。レイチェル達はそう危ぶみ、すぐさま行動に移った。

 部屋を覗くとティアイエルは枕に顔を埋めていた。レイチェルは軽く彼女の名前を呼んだが、反応は無かった。彼女はライラとサンダーに頷いて見せた。少年は、忍び足で行き、ライラのベッドの下の隙間へと潜り込んだ。

「ゴホン。うーむ、少し早いが、何だか眠いので消灯にするぞ」

 ライラがそう言い、カーテンを締め、蝋燭の灯りを消した。

 レイチェルもベッドに入った。部屋を照らすのは窓から差し込む月明かりだけになった。レイチェルは黙って天井を眺めていた。何処かの喧騒がぼやけた音となって聞こえていた。

 しばらくして彼女の腹が鳴った。彼女は恥ずかしさで身体中が熱くなった。そして、明日の朝まで空腹を我慢できるものか不安になった。それを紛らわすために寝返りを打とうとした時であった。

 俄かに外の灯りが強くなった。誰かが大きな鏡で太陽の光りを反射させてるのかもしれない。そう考えつつ今が夜であることを思い出した。

 隣でティアイエルがモゾモゾと動き、起きる気配が分かった。

 いよいよなのかもしれない。もしも薬の作用でティアイエルが自らを傷つける行為に走ろうとしたら全力で止めるのだ。レイチェルはうつ伏せになり、薄目を開けて有翼人の少女を観察した。

 ティアイエルは窓の方へ歩み寄ろうとしていた。

 カーテン越しに外から差す光りは青白い帯を床に投げかけていた。ティアイエルがその前に来ると、光りの中に影が現れた。

 何だろうか、レイチェルは訝しみながら様子を見守った。影はキラキラと星の様に輝いた後、見覚えのある一人の戦士の姿へと変化した。

 レイチェルは思わず驚きの声を上げそうになった。忘れる訳が無い、彼の鎧を、面の下りた兜を。そして途端に涙が零れそうになるのを必死になって堪えていた。

 そこには窓を背に、死んだはずのクレシェイドが立っていたのだった。

「あ、アンタ……どうして?」

 ティアイエルはか細く驚愕の声を上げていた。

 レイチェルはふと、現実に戻った。これはティアイエルの見ている幻覚なのだ。だが、何故、他人の幻覚を自分達まで覗き見ることができるのだろうか。ヴァルクライムの調合した薬にそこまで効力があったと思うしかない。そうじゃ無ければ、クレシェイドが恐ろしい亡者として現れた事になるのだろうか。

「ティアイエル」

 それは聞き覚えのある、あの素敵な声だった。

「生きてるの? アンタ、本当は生きて?」

 有翼人の少女の問いに戦士は軽く首を横に振った。

「すまない、残念だが俺は……。俺はもう、お前達と一緒に旅をすることはできない」

「そうよね……。やっぱりアンタは死んじゃったんだもの」

 ティアイエルが落胆するようにそう言った。

「じゃあ、何しに来たの?」

「お前に一言別れを言いに戻って来た。それと頼みごともある」

「頼みごとね……。ええ、分かってるわ、大体見当は着くもの。アンタの残してきたハーフエルフのあの女の子のことでしょう?」

「ああ。リルフィスの事をお前に頼みたい」

 ティアイエルは少し間を置くと頷いた。

「良いわよ。アタシが責任持って面倒見るから。たぶん、寿命が尽きるのはアタシの方が大分先だろうけどね。でも、それまでは、約束する」

「ありがとうティアイエル、すまないな。お前には世話になりっぱなしだった、本当に……」

「ねえ、アタシさ、本当はアンタと、もっともっと仲良くなりたかったんだと思う。いえ、なりたかったの」

 ティアイエルは俯いた後、相手を見上げた。

「今からでもなれるかしら。アタシ達、仲良く」

「勿論だ」

 クレシェイドは頷いた。

「じゃあ、握手して」

 ティアイエルが言い、二人は手を差し出した。が、ティアイエルは相手の腕を擦り抜け、戦士の懐に身を寄せた。

「言うわ。本当はね、アタシ、ずっとこうしたかったの」

「アタシさ、あんたのこと好きだったみたい。だけど、結局どんな風に好きなのかは自分でもわからなかったわ。でも、ずっとこうしたかったの。ね、頭撫でてよ」

 戦士の手が有翼人の少女の艶やかな髪に触れた。

「アンタが死ぬなんて、アタシ、今でも信じられない。凄く悔しいわ」

 泣いているのだろうか、ティアイエルの肩は震えていた。だが、やがて、彼女は相手を見上げて言った。

「クレシェイド、リルフィスのことは任せて。だから、アンタは逝きなさい。もう化けて出てくる必要は無いからね」

 戦士はゆっくり頷いた。

「ティアイエル……。本当にすまない。ありがとう。皆によろしく伝えてくれ。俺は俺の場所へ戻ることにする」

「そうしなさいよ。じゃあね、クレシェイド。元気でね」

「さようなら、ティアイエル。君も元気でな」

 そう言い残し鎧の戦士の姿は音も無く、星の様な煌めきだけを残して消えていった。その姿が消える直前、薄れ行く戦士の目がこちらを見た様にレイチェルには思えた。

 カーテンから差す灯りは、元々の柔らかな月の光だけとなった。その帯の中でしばらく佇むと、やがてティアイエルはゆっくりと背伸びをしていた。

「何だかお腹が空いたわね。まだ食堂は開いてるかしら」

 そう言って有翼人の少女は部屋を出て行った。

 それから少しだけ待ち、ライラが燭台に火を灯した。

 サンダーもベッドの下から這い出てきた。

「正直、感動するよりも、驚いちゃったよ」

 少年は開口一番にそう言った。

「そうだな、他人の幻覚を目にすることが可能だとは思わなかった。我々もまた、知らぬ間にヴァルクライムの気遣いで薬を盛られたのかと思ったほどだった」

 ライラが言い、レイチェルが頷くと、再びライラは言った。

「だが、ティアイエルは調子を取り戻したように思える。とりあえず、それは一安心だ」

「そうですね」

 三人が頷き合っていると、ヴァルクライムが入って来た。

「どうやら成功したようだな。下でティアの嬢ちゃんが、レイチェル嬢ちゃん顔負けの見事までの食べっぷりを見せようとしているぞ」

 するとライラが顔色を変えて尋ねた。

「酒は頼んでいなかったか?」

「いや、すまない、そこまではわからん」

「少々不安だ、念のため行ってくる」

 ライラは部屋を出て行った。少年が歓喜し魔術師に言った。

「それにしても、おっちゃんの調合した薬、凄かったよ。本当にクレシェイド兄ちゃんが出てきたのかと思ったよ。声もしっかり聞こえたんだ」

「ほう。まるで、実際にクレシェイドの奴を見た様に聞こえるが?」

 魔術師が尋ねると、レイチェルとサンダーは頷いた。

「そうだよ、俺達見たよ。クレシェイド兄ちゃんの事。さっきも言ったけど声だって聞いたし」

 すると魔術師は思案顔を浮かべた。レイチェルは尋ねた。

「あの、他人の幻覚を見ることができる薬なんですよね?」

 魔術師は首を横に振った。

「いや、嬢ちゃん、そのような薬は存在しないな、少なくとも我々正規の魔術師の間ではな」

 レイチェルは驚き、サンダーと顔を見合わせた。

「で、でも、俺達も、ライラ姉ちゃんだってクレシェイド兄ちゃんの事、見たし……」

「そ、そうですよ」

 サンダーとレイチェルが狼狽する様にして訴えると、魔術師は言った。

「ふむ、不思議な事もあるものだな。だが、お前さん方、三人が見たのだ、紛れも無く現実に起こった事なのだろう。お互い別れを交わせなかったからな、我が友もあの世に逝きながら、随分心残りだった、ということなのやもしれぬな」

「じ、じゃあ?」

「少年、そうだな、お前さん達は本当のクレシェイドを見たのだろう。ゴーストとは言え、紛れもない本当の彼の姿をな」

 レイチェルは、クレシェイドが消える間際にこちらを見た事を思い出し、感動で身が震えた。

 まるで安堵する様な涙が滲み出てきた途端、彼女は忘れていたお腹の減りを思い出した。ティアイエルと同じく、不思議なぐらい食欲が湧いてきていた。

「何だか俺も腹減ったな」

 サンダーが言いレイチェルも頷いた。

「食事にしよう。我々の元気なところを見せてやればクレシェイドの奴も安心して旅立てるだろう」

 魔術師が言った。

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