第16話 「東へ」(後編)

 襲い掛かってきた猛獣キマイラを打ち倒し、レイチェル達は再び歩みを進めていた。

 ヴァルクライムが、盗人を追う使い魔の隼の視点で情報を知らせた。

「相手は未だに湿地を歩いている。どうやら、沼地に嵌らずに行ける正しい道があるらしいな」

 そして魔術師は突然、狼の様な顔を顰めてみせた。

「どうしたの、おっちゃん?」

 サンダーが尋ねると、魔術師は答えた。

「敵は、遠くの水面に何かを投げているな」

 ふと、先を行くクレシェイドがビクリとして振り返った。

「まさか、ギラ・キュロスをか?」

「いや、そうではない。隼をそちらへ近付かせよう」

 そうして魔術師は告げた。

「浮かんでるのは、ただの棒切れのようだ」

 どういうことだろう。レイチェルもだが、サンダーも、ライラも思案していた。

 後ろで咳払いが聞こえ、振り返るとティアイエルが言った。

「水中の魔物を呼び寄せているのよ、きっと。そんなところにいるのは、ヒュドラとか、そうでなければワニとか、そんな類の連中かしらね。アンタの使い魔、感付かれたんじゃないの?」

 有翼人の少女が魔術師を見た。

「そうかもしれんな。なかなか鋭い相手だ」

 魔術師は笑った。だが、レイチェルとサンダーは、深刻そうに顔を見合わせていた。お互いの顔にその胸の内が現われていた。二人はかつて戦ったヒュドラとの一戦で、そのような水中に潜む怪物に対して、心底苦手意識を植え付けられてしまったのだ。あの暗い色をした鱗の肌に、曲がりくねった胴体、そして極めて暴力的な本能の現われた顔と、それらを思い出すだけで足が竦みそうであった。

 そうして森は開け、広大な湿原が姿を現したのであった。遥かに広がる暗い沼の色を見て、レイチェルは軽い戦慄を覚えていた。恐ろしいが、行くしかないのだ。彼女は人知れず腹を決めたのだった。

「相手は既にここを抜けた。今は再び森の中を進んでいる」

 ヴァルクライムが告げた。

「さて、どう進めばよいだろうか。迂回すべきか?」

 ライラが言った。だが、両端の岸辺は遠く、東側はどうにか森の際の影を頼りに、その存在を望めたが、西側は目の及ばぬずっと遠くにあるらしい。それでも、沼地の真ん中には、雑草の茂った狭い道があり、ポツリポツリと木も聳え立っていた。

「盗人は、真ん中を進んで行った。東から迂回するか、それとも、我らも中央を突っ切るか、決を取ろう」

 魔術師が言った。レイチェルは即座に思案した。彼女は水中に潜む脅威を恐れていたが、だったら尚のこと、勇気を振り絞って中央を行くべきだと、ヤケクソ気味に自ら奮起し、意見を固めた。

 結局のところ、誰もが中央を行くことに賛同していた。おそらくはクレシェイドの心中を思ってのことだろう。宿での彼の萎縮しきった態度を思い出した。レイチェルはギラ・キュロスの恐ろしさを未だによく解ってはいなかったが、自分なりに自覚してもいる部分もある。

 ヴァルクライムを先頭に、殿をライラとして、一行は沼地の中をゆく、曲がりくねった狭い道へと足を踏み入れた。辺りは不気味なほど静かだが、時折、水鳥の甲高い鳴き声が、羽音と共に響き渡った。レイチェルはその都度、肝を潰していた。また岸辺の傍に生い茂る水上葉の下に、小さな蛇が鎌首を持ち上げているのを見た時には、そのおぞましさに悲鳴を上げそうにもなった。

 早く森へ入りたい。彼女は幾度もそういう不甲斐無い思いと葛藤していた。

 そうして遠くに目指す森の影が見えてきた頃、背後の方で、突如として荒々しい咆哮が鳴り響いた。

 一行が振り返ると、彼らの後を追い、キマイラが飛沫を上げながら疾駆してきていた。

「あれはおそらく別のキマイラだ」

 ヴァルクライムが言った。と、いうことは、この辺りの森には恐ろしい猛獣がたくさんうろついているのかもしれない。レイチェルは森と沼地と、どちらがマシなのか薄っすらと思案していた。だが、この一大事に不謹慎だと頭を振って雑念を吹き飛ばした。

 そうしている内にも猛獣は迫って来ていた。黄色のような茶色の毛皮が見えるほどまでに近付いてきている。

「俺が迎え撃とう」

 クレシェイドが、列を抜け出し、泥を跳ねながら最後尾へと急いだ。そして彼は曲がりくねった道をどんどん戻ってゆく。ライラも逡巡する素振りを見せて、後に続いた。

 すると、ティアイエルが翼を広げて上空へ飛び立った。彼女もクレシェイド達の後を追った。

 キマイラは、沼の中を駆けて進み、クレシェイドの側面へ突進してきた。

 クレシェイドはミノスの大太刀を抜き、迎撃の構えを見せる。少し離れたところではライラが、上空ではティアイエルが待機していた。

 そのまま猛獣がぶつかってくるはずであった。

 だが、少し離れた水中から大きな黒い影が揺らいだかと、思った瞬間、それは飛沫を巻き上げ、太い首を鞭のように撓らせて猛獣の横腹に喰らいついた。

 現われたのは、大きな大きな蛇であった。緑色と赤色の斑模様のある毒々しい胴体とその首は、色違いのヒュドラにさえ思えた。その三角形の頭は、猛獣の身体を挟み込み、そして高々と持ち上げたのであった。

 キマイラが、怒り狂ったような咆哮を上げる。が、次の瞬間その身体を大蛇の胴体がグリルと一周し、猛獣は水中へと引き摺り込まれようとしていた。やや、あって、キマイラはズルズルと引きこまれてゆき、大きな泡が何度も忙しげに浮かび上がったが、ついにはそれも途絶えてしまっていた。

 レイチェルは、恐ろしさのあまり、ヴァルクライムの胴衣の裾を脇から引っ掴んで震えていた。

「お、おっちゃん、こんなところさっさと通り過ぎちゃおうぜ。俺、何だか嫌な予感がするんだよ」

 サンダーが表情を引き攣らせながら魔術師を見上げて言った。

「そうだな、少年の言うとおりだ。水の中ほど怖いものは無い」

 ヴァルクライムは震えている少年少女の肩に労わるように手を置いた。

 クレシェイド達は、少しだけ水面を眺めると引き返してきた。

「驚いたぞ。見たかレイチェル? あんな大きな蛇がいるとはな。蛇の肉は滋養強壮の妙薬みたいなものなのだ。あれだけ大きいならば、どれだけの黒焼きができるだろうか」

 ライラが感心するように言ってきたが、レイチェルは苦笑いを浮かべて応じるしかなかった。

「あの大きさだと、ただの爬虫類というよりも、むしろ亜竜の域かしらね」

 空から舞い降りるとティアイエルが言った。

 すると、その声に反応したのか、遠くの水面にゆらりと長い首が持ち上がった。そしてそれはパシャリと水を跳ね上げて沈んでいったのだった。

 そうして一行は湿地帯の真ん中を、狭い陸地に沿って歩んでいった。道は長く、その途中では、あの大蛇どもが首を覗かせる様を何度も目撃した。しかし、レイチェルに言わせれば奇跡的に発見されずに済んだ。彼女は足元の水面に泡が湧き出たり、波紋が広がったりする度に、身も凍るような思いをしていた。そして、ようやく新たな森へと葉辿り着くことができたのであった。

「相手は森を抜けているな。どうやら、この先に奴らの根城のような場所がある。おっと」

「どうしたのだ?」

 ライラが尋ねた。

「いや、敵は隼がこちらの斥候だと本当に気付いたようだな。矢を射掛けてきた」

「そりゃあ、不自然だものね」

 ティアイエルが言った。一行は歩き始めた。そこは明らかに人の手によって作られた道であった。草が刈られ、気の切り株が目に付いた他、茂みの中に荷車が放置されているのも見付けた。

「ヴァルクライム、剣はどうなっている? 相手は箱を開けたのか?」

「いや、分からん。相手は小屋の中に入ってしまった。それにどうやら数人の仲間がいるようだな。軽装だが武装している。きっと盗賊団とやはりその根城なのだろう」

 魔術師が答え、クレシェイドが落ち着かない様子で咽を唸らせていた。

 そのまま無言で道を進んで行った。ヴァルクライムも何も告げなかった。前方に開けた場所と、三軒ほどの家屋が見えてきた頃には、夕暮れに差し掛かっていた。

「敵は複数だ。まず私とクレシェイドで行こう。少年、お嬢さん方のことを頼むぞ」

「うん、わかった」

 ヴァルクライムが言い、サンダーが頷いた。そしてレイチェル達は、傍の茂みに身を潜め、クレシェイドとヴァルクライムの背を見守っていた。



 二



 周囲は静かなものであった。建物は全部で四軒あったが、どれも粗末な小屋であった。

 どの小屋の中だろうか。クレシェイドは、魔術師を仰ぎ見た。

 ヴァルクライムは一番奥の小屋を指差した。そこへ行くためには、他の小屋の間を突っ切らなければならない。無論、その中に敵が潜んでいる可能性もある。それならそれで良い。この鎧を貫ける刃があるとは思えない。彼は堂々と真ん中を進んで行った。

 そして不意打ちも無く、問題の小屋の前へと辿り着いた。やはり粗末な作りだが、この建物だけは他よりも大きかった。頭目の寝床か、あるいは牢獄、宝物庫か。木の棒が突き出ただけの取っ手に手を掛ける。扉は大きな箱の底板か何かをそのまま使っているようであった。

 そして彼は勢いよく押し開き、中を一望した。

 そこには血みどろの光景が広がっていた。

 盗賊と思われる者達の亡骸が、自らの血の中に倒れていた。

 一人、二人……見えるだけで全部で十人の遺体が其処彼処にあった。既に嫌な予感はしていた。

 奥の方に佇む人影があった。その手に握られているのは、黒く燃え盛る炎の如く切っ先が覆われた妖剣に違いなかった。

 俯く影がよろりと二、三歩歩み出し、そしてゆっくりと顔を上げた。

 双眸は瞳の失われた白であった。一つに結わえられた長い茶色の髪が揺れる。それは女であった。

 すると、その女は天を仰ぎ、甲高い叫び声を上げた。途端に、剣を振り上げ、こちらを睨み、突進してきた。

「ヴァルクライム、下がれ!」

 クレシェイドはミノスの大太刀を構えて相手を迎え撃った。

 剣と剣がぶつかる。相手は野獣のように吼え猛り、片腕で大剣を振り下ろしていた。女性とは思えぬほどの力であり、完全にこちらを凌駕していた。

 女の咆哮は続いた。そして両腕で剣を握るや、ミノスの大太刀の頑強な刃が大きく撓り始めた。

 何という力だ。そしてクレシェイドは、僅かだが疲労を感じていた。この身体にとっては無縁の感覚であるはずだ。しかし、現実に力が落ちてきている。

 いや、ギラ・キュロスが闇を吸収しているのだ。この鎧の内側を満たす闇の力を剣越しに奪い去っているのだ。

 クレシェイドは相手に蹴飛ばされた。凄まじい力であり、彼は家屋の中から外へと吹き飛ばされていた。

 身を起こすと、相手が家屋の入り口からゆらりと姿を見せる。

「ギラ・キュロスか……」

 後ろでヴァルクライムの絶句する声が聞こえた。

 女は狂った悲鳴を上げて剣を振り下ろす。クレシェイドは即座にミノスの大太刀を突き出し、革の鎧ごと相手の胸を貫いた。おそらくは盗賊の仲間だが、もしも余裕があれば助けてやりたかった。しかし、そうはならなかったのだ。

「クレシェイド!」

 ヴァルクライムが声を上げた。

 ハッとして相手を見ると、女は白目を剥き出したまま怪しく微笑んだ。口からも鼻からも、そして目からも血がビュッと噴き出した。

 まだ動く。

 クレシェイドが慌てて剣を引き抜こうとするや、相手はこちらの頭に向かって、横薙ぎに剣を振り払った。

 重厚な金属の音が鳴り響き、衝撃が全身を揺るがした。間一髪、ミノスの大太刀を引き抜き、敵の一撃を防御した。しかし、剣越しでもこの振動は凄まじく、彼の意識は一瞬だけ混濁した。

 再び力を吸い取られているのだ。身体の内側で、幾つかの闇の精霊が萎んで、消えて行くのを感じた。

 クレシェイドは後退した。しかし、相手は追って来た。おぞましい狂った笑い声を上げて、髪を振り乱しながら妖剣を振るってくる。

 振り下ろされた剣を避けたが、身体は大きく揺るがされ、その風圧だけで全身の甲冑が激しく軋みを上げた。これが、暗黒卿や、サルバトールの腕を捥ぎ取った、剣の巻き越した強烈な闇の風圧に違いなかった。生半可な鎧ならば、それごと骨と肉とを持ってゆかれてしまうだろう。

 だが、闇の殺戮者と果てた女の攻撃は単調過ぎた。クレシェイドは残った力を振り絞り剣を薙いだ。甲冑の内側に漂う闇の精霊達が呼応するかのように明滅する。

 女の首は胴から分断された。血煙を上げた胴体がよろめき、そして倒れた。今度こそ終わったのだ。

 クレシェイドは息が乱れていることに気付いた。それだけ剣越しに、妖剣によって闇の力を奪われたということだろうか。ギラ・キュロスを見下ろすと、亡骸の手は未だにしっかりと妖剣を握り締めていた。

 彼は空を見上げた。夕暮れの茜色に染まっている。夜であれば彼の纏う闇の精霊も力を大きく発揮しただろうが、陽の光が未だに支配しているならば、妖剣を迂闊に握るわけにはいかなかった。握ったが最後、需要と供給とが追いつかなくなるからだ。ひとまずは、ミスリルの箱を探さなければなるまい。それを傍まで持ってきて、剣を即座に収めることにしよう。

「もう大丈夫だ」

 ヴァルクライムが、茂みへ呼び掛けると、仲間達が集まってきた。

 悲鳴こそ上げなかったが、レイチェルは、その亡骸を前に顔を青褪めさせていた。クレシェイドは、彼女のために配慮が行き届いていなかったことを多少悔やんだ。だが、そんなことをしている暇も無い。この恐ろしい妖剣を急いで封じてしまわなければならない。

 彼は亡骸が散乱する家の中へと入り、その奥で探していた箱を見付けた。そして外へ戻ると、すぐに剣を収めた。

「さて、一件落着だな」

 ヴァルクライムが言った。そうして見計らったかのように夜が訪れた。

 自分は夜目が利くが、仲間達はそうはいかない。軽い話し合いの結果、ここで夜を明かすことに決まった。

 亡骸を埋葬する暇も無いので、全てを、大きな家屋の中へ纏めることにした。血のにおいを嗅ぎつけて、キマイラのような猛獣がやってくるかもしれない。そのため、クレシェイドが不寝番をかってでた。仲間達は粗雑な夕食を取ると、それぞれ男女に分かれて、他の小屋へと引き上げていった。

 

 

 三



 埃っぽい狭い小屋の中で、ティアイエル達は並んで横になっていた。

 左右からは安らかな寝息が聞こえているが、彼女は起きていた。どのぐらい時間が経っただろうか。ティアイエルは落ち着かない気持ちであった。レイチェルもライラもぐっすり眠っているようだ。外の方からも小屋の扉が開くような音はしなかった。少年と魔術師もそろそろ深い眠りについているころだろう。

 それにしても、どうして心が落ち着かないのか。何故、クレシェイドのことを気遣ってやらなければならないのか、彼女は悶々とし、寝不足になったら、アイツのせいだと胸の内で呟いた。

 前のヴァンパイアとの一件で、クレシェイドは闇の精霊を擦り減らしてしまったかもしれない。そのような考えが浮かんだ途端、彼女は眠れなくなってしまったのだ。でも、自分の身体には自分で責任を持つものよ。アイツが、このアタシに頼んでこないということは、特に心配するような状況ではないかもしれない。もしも、そうだったらわざわざ赤っ恥を掻く為に出て行くようなものだ。

 そんなの御免だわ。

 彼女は寝返りした。レイチェルの横顔がそこにはある。彼女は反対側を向いた。ライラがこちらを向いて眠っていた。彼女達を羨ましく思いながら、ティアイエルの脳裡には再び、鎧の戦士を気遣う様が過ぎっていた。

 眠れない。ティアイエルは起き上がった。そして外から特に声が聞こえていないことを確認すると、ゆっくりと扉を開けた。

 クレシェイドは、焚き火の前に座り、太刀を磨いていた。

 よし、やった。ジミーもヴァルクライムの奴もいない。

 そうしてクレシェイドの横顔を改めて見ていると、相手がこちらを振り返った。

「ね、眠れないだけよ」

 ティアイエルは慌てて答えた。そうかとクレシェイドは答えた。そうして未だにこちらを凝視している。ティアイエルは居心地が悪い思いをし、出て来たことを半分後悔していた。

「今日は星が綺麗だな」

 クレシェイドが言った。そうして彼女は渡りに船とばかりに頭上を見上げた。満天の星空が広がっている。その壮大な夜の灯火の流れが、彼女の心を感動させ、気持ちを鎮めてくれた。

「不思議だが、どんな嫌なことがあっても、こうして星を見上げていると、何もかもが小さなことに思えてくる。それが良いことなのかはわからないが……」

「何してるの?」

 剣を磨いているのは見れば解るが、ティアイエルはそう切り出した。

「少し考え事だ」

 戦士は剣を掲げ、その鏡のような刀身を回転させ、左右から調べるように見詰めていた。

「この剣を見ていたら、ミノタウロス達のことを思い出した。ゼーロン・ゴースが、ブライバスンの魔術師ギルドの支部長だが、彼が上手くやってくれていれば良いが……」

「出て行った女の人達も戻ってくれれば良いけどね」

 ティアイエルが言うと、クレシェイドは頷いた。そうしてしばらくお互い黙したままであった。

 間が持たない。その間、ティアイエルは、何度も口から出掛かっている言葉を呑み込んでいた。そうして、クレシェイドを恨めしくも思った。ほら、アンタ、もう一回、アタシに何しに出てきたか訊きなさいよね! そうしたらアタシもしっかり答えてあげるんだから!

「どうする、火に当たるか?」

 クレシェイドがこう尋ねてくると、ティアイエルは苛立ちながら口を開いた。

「アンタの中の闇の精霊が減ってるんなら、増やしてあげても良いけど!?」

「すまない、よろしく頼む」

 相手は静かにそう言った。

 ティアイエルは頷き、相手の方に歩んでいった。そうして隣に座るべきなのか逡巡した後、ゆっくり地べたに腰を下ろした。

 彼女は片手を掲げ、闇の精霊を呼び寄せた。それらは突如として空間の中に咲く様にして現われた。紫色に光る小さな小さな粒である。それが彼女の手に集い合い、大きな塊となっていった。それをクレシェイドの背中に押し当てると、鎧の表面に吸い込まれるようにして消えていった。

「身体に力が湧いてくる」

 クレシェイドがしみじみとした口調で言った。

「夜だもん、闇の精霊は活発になるわよ」

「そうだな。ありがとう、助かった」

 礼を言われ、ティアイエルは言葉に詰まった。相手が真っ直ぐこちらを見詰めている。彼女は動揺しつつも何とか言葉を口に出していた。

「べ、別に!」

 そして彼女は勢い込んで余計な言葉を続けそうだったが、どうにか止めることができた。自分の心臓の早鐘の音が聞こえる。彼女はもう寝床に逃げ戻りたい気分であった。

 クレシェイドは再び剣を磨き始めていた。ティアイエルは、しばらく隣に座りつつ、悶々としながら寝床に戻る機会を伺っていた。そうして、何でそんな気持ちにならなければならないのかと、馬鹿らしく思え、彼女は言い聞かせるようにして立ち上がった。

「アタシ、寝るから」

「わかった」

 彼女は立ち上がり、小屋へと歩き始めた。

「おやすみ、ティアイエル」

 背中に掛けられた優しい声に、彼女の心臓は驚きと照れ臭さとで飛び上がった。

「う、うん」

 彼女は振り向かずに答え、小屋の中へと入って行った。

 暗がりの中を見下ろすと、レイチェルがちょうど寝返りを打ち、ティアイエルの場所の半分を奪ってしまっていた。そうして後輩冒険者の衣服がずれて、へそがはみ出ているところを見ると、彼女はまったくしょうがないと、胸中で溜息を吐き、服の裾を整えてやった。そうしてティアイエルはライラの方へ目を向けた。彼女は仰向けになってか細い寝息を立てている。ライラが、クレシェイドを「従兄上」と呼んだ事を思い出し、彼女はその素直さがとても羨ましく思った。



 四


 

 レイチェルは肌寒さを感じて目を覚ました。見れば、服の裾が乱れ、お腹とへそが見えていた。レイチェルは慌てて裾を戻し、ティアイエルとライラに見られなかっただろうかと、それぞれを振り返った。二人は眠っていた。ティアイエルは鼾を掻き、ライラは何やら寝言を口にしていた。「ベル」と、だけ聞こえたが、レイチェルはライラが自身の弟の夢を見ているのだろうと察した。そして彼女はティアイエルと自分の場所が入れ替わっているような気がしたが、結局気のせいだと納得した。

 さて、寝直すべきか。窓の無い小屋は薄暗かったが、入り口の隙間からは白い陽の明かりが差し込んできていた。せっかくだから起きてしまおう。レイチェルは二人を起こさぬように爪先立ちで忍び足をし、身体が滑り込むぐらい扉を開けて、ゆっくりと外へと出た。

 早朝の薄明かりが大地に注いでいた。焚き火の炎は未だに燃え上がっていて、クレシェイドが傍に座っていた。

 レイチェルは彼に声を掛けようとしたが、不意に聞こえた低い声の絶叫が、彼女の身を硬直させた。その声はすぐ傍であり、似たような声に聞き覚えがあった。どこか、憎悪と呪いに満ち溢れた声だ。そして彼女は思い出した。ヒュドラと出会った森で聞いた声とそっくりだ。

 クレシェイドは既に立ち上がり、ミノタウロス族から授かった片刃の剣を抜いて、大きな小屋の入り口を睨み付けていた。

 程なくして扉が乱暴に押し開かれ、そこから人影がヌッと姿を現していた。

 左右の小屋の扉が開き、仲間達が駆け付けてきた。

 大きな小屋から現われたのは、昨日クレシェイドが退治したはずの盗賊の女であった。

 しかし、その身体に首は無く、それは左腕に抱えられていた。

「キリオンと同じ呪いか。ならば」

 ヴァルクライムが言い、彼はクレシェイドに告げた。

「奴の弱点は抱えている首だ」

「首か。よし、わかった」

 女の化け物の首が再び吼え声を上げた。何と言う邪悪な声だろうか。レイチェルの肝は萎縮した。もはや別の魂が宿ったそれの声であった。

 クレシェイドが駆け、大太刀を横から薙いだ。それは敵の左腕ごと、抱えた頭を斬るはずであった。

 しかし、太刀は弾かれた。見ると、化け物の身体からどす黒い霧が噴き上がり、その身をすっぽりと覆った。

 クレシェイドは再び剣を繰り出したが、甲高い金属の音と共にそれも弾き返されていた。

 そうして、霧の中から姿を現したのは、紅い甲冑に身を覆った首無しの騎士の姿であった。兜を被った頭部はやはり左脇に抱えられている。

「デュラハンだ!」

 サンダーが叫んだ。

 そうして化け物は右腕を掲げ、不気味な声でこう言った。

「我が剣をよこせ」

「ギラ・キュロスのことだ」

 ヴァルクライムが言った。

「ギラ・キュロス……我が剣をこの手に」

 フッと、化け物の姿が突然消えた。誰もが驚いているとヴァルクライムが言った。

「クレシェイド、奴はギラ・キュロスを狙っている。必ず来るぞ!」

 魔術師の声が終わるとクレシェイドの真後ろに何の前触れも無く紅い甲冑が現われ、彼の背負っている箱を、篭手で固められた右腕が引っ掴んだ。

 クレシェイドは振り返り、太刀を振り下ろしたが、化け物は再び音も立てずに姿を消失させていた。

「奴の狙いは俺だ。皆、近付かないでくれ!」

 クレシェイドが声を上げて訴えた。ヴァルクライムが手を横に伸ばして、レイチェル達に後退するように求めた。

 レイチェルは後退りながらクレシェイドを見詰めていた。

「おっちゃん、あいつは一体なんなんだ?」

 サンダーが尋ねると魔術師は答えた。

「ギラ・キュロスの強烈な呪いに囚われてしまった憐れな亡骸だ」

「じゃあ、何、呪いに抵抗できなかったら、クレシェイドの奴もああなっちゃうわけ?」

 ティアイエルが声を鋭くして尋ねた。

「そうだ。きっとそうなるだろう。前の持ち主、偉大なる悲劇の英雄キリオンがそうだった」

 魔術師は頷いた。

「何て厄介なもんを拾ってくるのよ……」

 ティアイエルが恐ろしげに呟いた。

 クレシェイドは周囲を冷静に見回し、敵の襲撃を待っている。その度、レイチェルも、クレシェイドのがら空きの背に危機感を募らせながら見入っていた。

 しかし、しばらく待ち続けても、紅の首無しの騎士は姿を現さなかった。

 クレシェイドが警戒を解いてこちらを見た。

「奴は仕掛けては来ないが、まだこの空間の何処かから、こちらの様子を伺っているだろう。お前達は先に町へ戻っていてくれ」

 するとライラが言った。

「敵はギラ・キュロスが抜かれるのを待っているのかもしれない」

「そうに決まっているわ。だったら、アンタ一人を置いてくことなんてできないわよ!」

 ティアイエルが同調した。

「だが、この脅威を人里まで引き摺ってゆくわけにはいかない」

 クレシェイドが言い、彼はきっぱりと告げた。

「ここで終わらせる」

 そうしてレイチェル達の見ている前で、彼は妖剣の納まった棺のような箱を地面に置いた。

 レイチェルは、アルマンの宿で、クレシェイドが妖剣を手にした時のことを思い出した。柄を握って間もなく、彼は気を失ったのだ。鎧の内側を満たす、彼の原動力である闇の力を吸われて。彼女は気をつけるように声を掛けたかったが、クレシェイド自身も、他の誰もが知っていて、危惧しているはずだと思い口を閉ざした。

 クレシェイドが紐を解き、蓋を開ける。ミスリルの鏡面に囲まれた中央に黒々とした闇の塊をつけた妖剣が姿を現した。

 漆黒の戦士はゆっくりと右腕を伸ばしてそれを掴もうとした。

 しかし、突如、首無しの騎士が姿を見せ、横合いからその柄を掴み取った。

「ついに見つけたぞ、我が剣!」

 悪魔のような異質な声が笑い声を上げて剣を掲げ持った。

「しまった!」

 クレシェイドは驚きの声を漏らすと、左手に持ったミノタウロスの太刀を繰り出した。

 だが、敵は素早い薙ぎ払いで、クレシェイドの身体を打ち付けた。彼は弾き飛ばされていった。

 そうして首無しの騎士はクレシェイドを見つつ言った。

「お前には強力な闇の力を感じる。それを頂くぞオオオオッ!」

 絶叫し、首無しの騎士が躍り掛かろうとするところで、突如、その足元が爆発した。

 敵が身を崩す。ヴァルクライムが杖を向けていた。そしてライラが敵の背を目掛けて駆けて行き、斧槍を突き出した。

 首無しの騎士は消えたかのような動きで身を反転させ、妖剣で攻撃を受け止めた。ライラは素早く得物を戻すや、嵐の如く猛攻を繰り出した。それが敵の甲冑や剣にぶつかり、甲高い金属の音を鳴らし続けた。

 そうしてライラは攻撃を続けながら聖なる唱を詠んでいた。首無しの騎士が、彼女の攻撃を物ともせずに剣を振り被ると、ライラは間合いをとった。そうして振り下ろされた剣を、白い光りに包まれた斧槍は受け止め、互いの得物から激しい蒸気が立ち昇る中、素早い一撃を繰り出した。

 それは敵の抱えた首を貫いていた。

 首無しの騎士は耳を劈くような鋭い悲鳴を上げて崩れ落ちた。甲冑と兜、そして妖剣がガラガラとぶつかり合い地面に転がった。終わったのだ。

「従兄上!」

 ライラがクレシェイドのもとへ駆けて行く。そうして彼を抱き起こし、絶望的な顔をこちらに向けた。

「大変だ! 息が無いぞ!」

「落ち着いてライラ!」

 ティアイエルが駆け寄って行く。

「従兄上! クレシェイド!」

 ライラが必死に呼び掛け続けると、ティアイエルが冷静な口調で言った。

「ライラ、思い出して。クレシェイドは、もともと死んでるのよ」

 そうして、自省するかのように溜息を吐き、申し訳なさそうにティアイエルは言葉を継ぎ足した。

「ごめん、最初に言うべきだったわよね」

 レイチェル達もその場に合流すると、有翼人の少女は立ち上がって言った。

「ヴァルクライム、コイツのことお願い。アタシは闇の精霊を見つけてくるから。ジミー、アンタも来るのよ」

 ティアイエルはサンダーを引き連れて森の中へと入って行った。

 ヴァルクライムが魔術を唱え、クレシェイドの肩に右腕を置いた。クレシェイドがピクリとも動かないので、レイチェルは不安になった。すると、魔術師が言った。

「心配するな二人とも。随分と力を奪われたようだが、クレシェイドは無事だ。ティアの嬢ちゃんが戻ってくれば、立ち上がれるにまで回復するさ」

 レイチェルはライラと暗い顔を見合わせていた。

 少し時間が経ち、どこかで小鳥の囀りが聞こえてきた頃に、クレシェイドは目を覚ました。

「油断した」

 クレシェイドが不意にそう告げたので、レイチェルは驚きつつ、そしてすぐに安堵した。

「ヴァルクライム、もう大丈夫だ。これ以上は、お前の方がもたなくなるぞ」

「わかった。だが、しばらく横になっていろ。ティアの嬢ちゃんと少年が、お前さんのために闇の精霊を探しに出掛けている。そろそろ戻る頃合だろう」

 クレシェイドが頷き、言った。

「受けてみてわかったが、あの剣は正に強力な切り札だ」

 サンダーとティアイエルが戻って来た。有翼人の少女の右腕には、紫色に光る輝きが、小岩のように膨らんでいた。レイチェル達が退くと、ティアイエルはその闇の精霊の塊を、クレシェイドの背中に押し付けた。光りは吸い込まれるようにして消えていった。

「もう心配要らないのか?」

 ライラが、恐々とした面持ちでティアイエルに尋ねた。

「そうね。あとは、闇の精霊が鎧の隅々まで力を行き渡らせてくれれば、それで大丈夫よ」

「良かった」

 ライラは顔を明るくした。ヴァルクライムが言った。

「ならば、その間に我々はやるべきことをやってしまおうか」

「何をするの?」

 サンダーが尋ねた。

「そうだな、哀れな盗賊達のために墓を築いてやらねばならん。その後は、彼らの家の中を少し拝見させてもらおう」

 そうして亡骸を埋葬する作業が始まった。森の中に穴を掘り、遺体を運んで埋め、墓標代わりの十字に組んだ木の棒を突き立てた。レイチェルと、ライラは、死者が冒涜により、甦ることの無い様に、それぞれ墓前で、獣の神と、戦の神に祈りを捧げた。それだけで昼近くまで掛かった。

 その後は、サンダーと、ヴァルクライムとが、盗賊の小屋の中をそれぞれ探索し、棚の下の更に床下に隠されていた、革袋に詰まった大量の貨幣を見付けた。サンダーは喜んだが、レイチェルは複雑な心境でその様子を見ていた。それは盗まれた物に違いないし、それに亡くなったとはいえ、もしかすれば盗賊自身の穢れの無い持ち物である可能性もあったからだ。それを盗むようなことを自分達はしてしまうのだろうか。だが、彼女の心境を知ってか知らずか、ヴァルクライムが言った。

「ティンバラの詰所に持って行こうか」

 レイチェルは安心した。サンダーは多少不満そうであった。彼は「宝物の探索者」を名乗るため仕方が無いことであった。

 するとサンダーが、レイチェルのもとへ歩んで来た。

「姉ちゃん、これ見つけたんだけど、どうする? 使う?」

 そう言って差し出してきたのは、先が鉄でできている鈍器であった。

 手頃な武器のため、レイチェルは少し逡巡したが、首を横に振った。町でちゃんと買うことにしよう。

「じゃあ、お供えしてくるね」

 少年は残念そうに去って行った。

 クレシェイドも回復し、一行は森を去った。大蛇の潜む広大な湿原を抜け、キマイラに襲われた森へと行く。魔術の尖った岩は消え、乾いた血溜まりがある他は、キマイラの遺体もそこにはなかった。既に他の捕食動物が現われたのだろう。これも自然の摂理なのだとレイチェルはしみじみ感じた。

 そうしてティンバラに戻ったのは夕暮れを過ぎ、夜の帳が下りてきた頃であった。

 


 五



 昨夜は早めに休んだ。しかし、フカフカのベッドの魅力は凄まじく、結局レイチェルは遅くに目覚めたのであった。

 ティアイエルとライラのベッドは既に蛻の空だが、荷物がまだそこに置いてあったので、彼女は安心した。そうして、伸びをし、階下の食堂へと下りて行く。食堂にはまばらに冒険者達の姿があった。

 レイチェルは席に着き、朝食を済ませる。昨日食べた川魚の挟まったパンだ。彼女はその味に大いに満足しつつ、食堂内に仲間達の姿が無かったので、町を散策することにした。

 そういえば、いつまでも丸腰というわけにはいかない。手頃な武器を探しに行こう。

 彼女は外に出た。そして、すぐそこでヴァルクライムの姿を見掛けたのであった。

 魔術師は右腕を突き出している。すると、羽音がし、鳥が舞い降りた。おそらくは、使い魔の隼だろう。そうして様子を伺っていると、ヴァルクライムは鳥に食べ物をやり、そうして大きな翼を羽ばたかせて去って行くのを見守っていた。

「おはようございます」

「よお、嬢ちゃん。グッスリと眠れたか?」

 レイチェルが声を掛けると、魔術師は微笑んで応じた。

「はい。ところで、今のは昨日の鳥ですよね?」

「ああ。用が済んだからな、礼を言って帰してやった。あいつの家もこの辺りなのだろうから、無理やり我々の旅につき合わせるのも可哀想だろう」

 魔術師の優しげな心遣いに、レイチェルもまた嬉しくなった。

「今日はこの町で過ごすことになった。少年とライラは、昨日の金を届けに詰所に出向いている。ティアの嬢ちゃんと、クレシェイドも、それぞれ出て行った。嬢ちゃんも羽を伸ばしてくると良い」

「そうですね。そうします」

 レイチェルは通りを北へ向かった。そうして十字路を東に進んで行くと、並んだ商店の中に、剣と盾の刺繍が施された緑色の旗を見付けた。

 小さな店で、ウディーウッドのオルンドム商会に比べれば、品揃えはとても少なかった。それでも狭い店内は、壁に机にも、台座にも武器でいっぱいであった。

 一時後、老齢の店主に見送られ、店から出てきた彼女の手には、一本の鈍器が握られていた。それは堅い木でできていた。先は持ち手よりも倍以上膨らんだ六角形をしている。鉄の方が威力はあっただろうが、旅を続けるにあたって、携帯するには、レイチェルの腕力ではこのぐらいが手頃だと判断したのだ。

 朝が遅かったからか、太陽はいつの間にか昼の位置に昇っている。南の方角から、昼時を知らせる教会の鐘が鳴り響いた。どこの神様の教会だろうか。彼女は帰りに寄ることにした。そうして、遅い朝食だったのにも関わらず、彼女のお腹は空腹の悲鳴を上げた。

 どこかで食べ物を手に入れようと、レイチェルは、とりあえず東門へ向けて歩んで行った。

 そうして、彼女は薄い塩味のするチーズの塊と、肉詰めのパンを手に入れた。それを頬張りつつ、まだまだ納得しない小腹のために食料を探しに歩み続けた。

 その時、門の方から悲鳴が上がった。

 そちらを見ると、大勢の人々が慌ててこちらへ駆けて来ている。

「ト、トロルが出たぞ!」

 逃れてくる人々の間から、大きな脚で地を踏み締めるように歩いて来る大きな影が見えた。

「門番がやられちまった! 憲兵でも、冒険者でも急いで呼んで来い!」

 誰かの必死な叫びが木霊した。私は冒険者だ。戦える。

 レイチェルは覚悟を決めて敵へと走った。倒せるとは思えない。ならば、誰かが来るまで、少しでも時間を稼ぐんだ。

 トロルは手にしている武器を振り回して、手近の建物を粉砕していた。

 怪物は灰色の石のような肌をしている。身体は家屋の二階に並ぶ程大きく、両手足も筋肉質であった。トロルといえば、レイチェルが思い浮かべていたのは、童話に出てくる太っちょで、間抜けな姿であったので、彼女は戸惑ってしまった。

 首の無い丸い岩の乗ったような頭が、こちらを振り向き見下ろした。潰れた鼻面には、見開かれた凶暴な両眼があった。手には棍棒代わりの圧し折った木の幹を掴んでいる。

 まさに破壊の使者だ。レイチェルは及び腰になりながら、相手を見上げていた。

 するとトロルが空へ向かって咆哮を上げた。獰猛で苛立ちとやりようの無い憎しみに満ちたような吼え声であった。それが空気をビリビリと震撼させ、レイチェルもまた両の耳に激痛が走り、慌てて手で蓋をしていた。

 すると、トロルが彼女を目掛けて高々と持ち上げた足で踏みつけて来た。

 レイチェルは慌てて避けたが、トロルは反対側の足で蹴り付けて来た。彼女は素早く避けた。重々しい風の唸りが彼女の髪と衣服をはためかせた。

 そうして休む間もなく棍棒が横なぎに襲い、地面に突っ伏した彼女の頭を風が掠める。通り過ぎた大きな凶器は、先にある建物を打ち砕いた。木っ端と、ガラスとが激しい音を立てて散らばった。

 レイチェルは慌てて起き上がった。相手は予想以上に動作が素早いと彼女は痛感した。すると、ほんの僅かの隙に敵の大きな左手が伸ばされ、蛇の口の如くグアッと指が広がった瞬間には、既に彼女の身体は捕らえられていた。

 レイチェルは焦った。トロルは彼女を掲げるようにグングン高く持ち上げてゆく。レイチェルは買ったばかりの鈍器でその太い指を、必死になって殴りつけ、そしてどうにか抜け出そうと両手でトロルの手を掴み、身体を引っ張った。そうして足掻いている間に彼女の身は、遠くなった石畳の地面と垂直にされた。叩き付けるつもりだ。そうなってしまえば助からない。この筋骨隆々の腕が振り下ろされた瞬間、身体の骨は砕け、頭は割れ、自分は死んでしまうだろう。

 レイチェルは怯え、そして涙を流しながら懸命に鈍器を振り下ろし続けた。

「女の子が掴まってるぞ!」

 日用品で簡単に武装した住民達が戻って来た。しかし、彼らの誰もが、トロルに手が出せないでいる。

 どうすれば、抜け出せるの!?

 彼女は思考を巡らせた。仲間達が助けに入ってくることばかりが脳裡を過ぎり、これでは駄目だと考えを振り払い、自分が何者なのかを冷静に思い出し始めた。

 私は非力な女の子で、あ、神官だ。そうだよ、神官なのよ!

 途端に彼女は涙に震える声で聖なる旋律を詠み始めた。そうして鈍器を落とし、空いた右腕を敵の顔目掛けて突き出した。

 その腕が白い光りに包まれるや、レイチェルは念じるように祈りを捧げそれを撃ち出した。白い浄化の光りが細い筋となって幾つもトロルの顔に当たってゆく。

 目くらましを受けて怪物はたまらず顔を背けた。途端に彼女を握っている手の力が揺るんだ。

 レイチェルはすぐさま這い出すが、体勢を崩して尻から地面に落下した。彼女は手元に転がっていた鈍器を掴むと、敵を振り返りつつ後退した。

 トロルは唸り声を上げて、こちらを見下ろした。レイチェルは浄化の光りを顔に放ったが、もう相手は驚きはしなかった。彼女は聖なる光りを打ち消した。

 すると、背後から鋭い音を立てて、矢が通り過ぎていった。民衆が放ったのだ。しかし、トロルの肌は強固で、矢は刺さらず落ちていってしまった。

 トロルが再び野太い咆哮を上げた。レイチェルは両耳を塞ぎつつ、相手を見上げていた。

 するとトロルは棍棒を滅茶苦茶に振るい始め、左右の家屋を瞬く間に叩き潰してしまった。それでも怒りは収まらぬ様子で、トロルは荒々しい眼をレイチェルに向け、再び大きく一歩踏み出してきた。

 逃げ回っているばかりじゃ駄目だ。そうは思いつつも、レイチェルは自分の腕力では新品の鈍器を使ってさえも、怪物に通用しないことはわかっていた。

 こうなったら、本当に人頼みだよ。

 振り下ろされた棍棒は、彼女がほんの今まで居た場所を粉砕し深々と穿っていた。

「もういい、神官のお嬢ちゃん! こっちに逃げて来い!」

 民衆の中から誰かがそう言ったが、トロルの侵入を一歩許す度に、新たな建物に被害が出てしまう。嘆く人が出るだろう。それがわかっていては、逃げるわけにもいかなかった。

 だったら、外へ誘導してやれば良いんだ。レイチェルはそう決意し、トロルの脇から素早く回り込んだ。

 丸い岩石のような顔がグルリとこちらを追って来る。

「さあ、こっち! こっちに来てみなさい!」

 レイチェルは両手を振って怪物へ呼び掛けた。

 大勢の民衆の中からは、感心の声が上がり、レイチェルは少しばかり自分の知恵を得意げに思った。

 トロルはゆっくりと身を反転させ、完全にこちらを振り向いた。

 さあ、一歩! 良い子だから一歩踏み出すの!

 怪物はよろめくように、数歩踏み出してきた。それだけで簡単に間合いは狭まり、レイチェルは驚愕しながら駆け足で後退した。だが、トロルは歩行を早めてきた。その大きな一歩が一気に間合いを詰めて来る。

 どうにも浅はかであった。

 もはや、レイチェルは一目散に駆け出していた。そうして前方の門の方を見て心臓が凍った。

 新たな大きな影が町へ踏み込んできていた。

 背後から断続的に迫る重たい足音を耳にし、彼女は咄嗟に脇へと飛び退いた。トロルは突進してきたのだ。そうして風と共に彼女の隣を通り過ぎた。

 レイチェルは身を起こしながら、もはや万策尽きたと落胆し、ただ身構えるだけであった。

 新たなトロルも合流し、二体は揃ってこちらへ目を向けた。

 これ以上は手に負えない。どうすれば良いだろうか。

 ふと、彼女の脇を黒い影が通り過ぎて行った。怪物へ向かって猛進して行く黒い甲冑の背をレイチェルは見ていた。

 クレシェイドが来てくれた。そう思ったが、自分が知っている甲冑の後ろ姿とは違うように感じた。

 そうしてトロルの破壊的な一撃の下を潜り抜け、その胴体に剣を入れるや、力強く薙いだ時、レイチェルは相手の姿がクレシェイドではなく、全くの別人であることに気付いたのであった。

 大きく一文字に裂けた腹から血流と臓物を溢れさせ、トロルは地面に倒れた。戦士は、己を掬おうとする新手の太い腕を避け、手馴れたようにもう一体の後ろに回りこんだ。そうして背中から剣で貫いた。

 トロルは咽を詰まらせるようにして声にならない声を上げた。その身体は入り込んだ剣によって捌かれ、再び血と内臓が石畳に飛び散った。怪物は倒れた。

 戦士がこちらを振り返った。民衆から歓声が上がる。黒い戦士はやはり別人であった。

「あ、危ないところをありがとうございました」

 レイチェルは駆け寄って礼を述べた。

 クレシェイドよりも小柄な相手は、面頬の下りた顔を頷かせた。

「でも、勇敢だったわね、お嬢ちゃん。たいしたものだわ」

 その声は女のものであった。そうして腰に下げた革の入れ物から、綺麗に畳まれた桃色の布巾を出し、レイチェルの目と、鼻とを優しく拭ってくれた。しかし、見れば見るほど、上から下まで黒い甲冑で覆っている姿は、クレシェイドにそっくりであった。レイチェルは呆然と眺めながら、赤い血の滴り落ちる、少々変わった剣を見ていた。広い刃の片刃の剣かと思ったが、反対側は、鋸上の刃が並んでいた。これで最後のトロルの腹を切り開いたのだろう。

「じゃあね」

 相手は背を向けて去り始めた。レイチェルは、顔を拭いてくれた礼も言えず、しどろもどろになりながら、その背に向かって呼び掛けた。

「危ないところを本当にありがとうございました! 私、レイチェルといいます! レイチェル・シルヴァンスです!」

「セーガよ!」

 相手は振り返ってそう言い、悪戯っぽく手を振ると去って行った。

 彼女がその背を見送っていると、民衆と憲兵とがその左右を走り抜けて、二体のトロルの亡骸に見入っていた。

「おいおい、背骨を断ち切ってやがるぞ。たいした腕力だ、あの戦士さん」

 彼らは目を丸くして談笑しあっていた。それを呆然としながら眺めていると、背後から自分の名前を呼ばれた。

「これは、お前がやったのか?」

 そこにいたのはクレシェイドであった。その黒い甲冑姿は、先程のセーガと名乗った女性を思い出させる。レイチェルは首を横に振った。

「私も助けてもらったんです。セーガさんという女性の方に」

「女性? そうか。しかし、かなりの使い手のようだな」

 クレシェイドは感心するように言った。クレシェイドに似ていたことを言おうとしたが、考えてみれば黒塗りの甲冑を着込む戦士なんて、他にもたくさんいるだろう。そう思って、レイチェルは口を噤んだのだった。

 それから夕暮れが過ぎ、夜の帳が下りると、他の冒険者達に混じって、レイチェル達も「脱ぎ出す酔っ払い亭」の食堂で夕餉を取り始めていた。

 殆どの卓が、先程のトロルについての話題であった。レイチェルの耳に飛び込んでくる話では、正しいものもあったが、中には事実が食い違っている内容もあった。その中身というのが大変なもので、神官の少女が勇敢にも立ち向かい、持っていた大剣でトロル二匹を真っ二つにしてしまったという具合だ。仲間達に向かってそう喋っている若い冒険者は、酒に呑まれているようで、顔は真っ赤で呂律も怪しくなっていた。

「そうだってさ、神官の少女さん。アンタもやるじゃない」

 隣に座っているティアイエルがからかうようにしてニヤニヤしながら肘で小突いてきた。

「違いますよ。私にそんなことできるわけ無いじゃないですか」

 レイチェルは慌てて否定し、言葉を継いだ。

「セーガさんっていう戦士の方が退治してくれたんです!」

「だが、嬢ちゃんも、人々のために戦ったんだ。そこはしっかり賞賛すべきところだぞ」

 ヴァルクライムは葡萄酒を煽りながらそう言った。

「くっそー、俺もそこに居たかったなぁ。憲兵の兄ちゃん達の聞き取りが長ったらしくなければなぁ……」

 そう悔やむ少年に、レイチェルは、トロルの相手は甘くないことを忠告しようかと思ったが、逃げ回っただけの自分が偉そうに語るのも、気が引けたため言わずにいた。するとクレシェイドが言った。

「サンダー、トロルは早いぞ。油断のなら無い相手だ」

「そんなに早いの?」

「ああ。奴らの身体は無駄の無い筋肉の塊だ。だからこそ意外に瞬発力に優れている。普段はそんな素振りは見せないが、その分、思わぬところで距離を縮めてくると、即座にこちらの命取りになるぞ」

 戦士の忠告にサンダーは興味深げに頷いた。 

 そうしてヴァルクライムが喋りだした。

「さて、ところで我らの今後だが、邪竜デルザンドを追うわけだがな、更に東へ向かおうと私は思っている」

「何か有力な手掛かりでもあったのか?」

 ライラが尋ねると、魔術師は頷いた。

「冒険者達に聞いて回ったのだが、どうやら我らが相手をした猛獣キマイラは、本来はこの辺りでは見られないらしく、むしろもっと東の方角の山岳と樹海の奥に潜んでいるものらしいのだ」

「つまりこの間のルフと一緒ってことね? そう言いたいんでしょう?」

 ティアイエルが言った。

「そうだな。奴らの縄張りに、新たな王が君臨したのだと考えるべきだろう。それが我らの追うものなのかは断定はできぬが、これ以上の手掛かりが見付からなかった以上は、それに賭けてみるしかないと私は考える。このサグデン領内の東の出入り口と言われるグスコムを超え、新たな領内で探索を続けようと思うのだが、皆、それで良いかな?」

 異論は無かった。

「ならば、皆、杯を掲げよう。一つは我らの明日からの出立に。もう一つはトロルを退治した勇ましい我らがレイチェル嬢ちゃんに」

「いえ、ですから、退治したのは私じゃなくて」

 レイチェルは慌てて口を割り込ませたが、仲間達の声の方が大きかった。

「レイチェルに」

「姉ちゃんに」

 そうして彼らは杯を掲げ、こちらが同じようにするのをニヤニヤしながら待ち侘びていた。

 彼らはちょっとした悪ふざけをしているのだ。だったら、まあ、良いか。乗ってあげよう。

「じゃ、じゃあ、私と皆さん、それと本当に退治した人、セーガさんに」

 レイチェルも杯を掲げた。そうして仰いだ飲み物は、いつもよりも数段美味しく感じられたのだった。

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