第8話 「囚われ人達」 (中編)

 まるで風になったようであった。そのまま永遠に風の一部になれるかと思ったが、サンダーは大男の脳天に蹴りを食らわせ、同時に素晴らしい余韻は全て吹き飛んでしまった。

 膝がガクンと曲がり、相手の肩の上で身体をどうにか制御しながら、砂利の上へと転がり落ちた。

 若干目が回ったが、素早く身を起こし、短剣を鞘から抜き放った。

 大男の背が左右に大きくよろめいた。次の瞬間には巨体は無造作に倒れた。その隣にはガーグズだかガーグスの兄か弟が、呆然とした面持ちでこちらを見詰めていた。そいつは突き出た腹をし、鼻の下から顎の全てを髭に覆われた丸顔の巨漢であった。弩弓と矢が、手に握られているが、いずれも今は地面を向いている。

 この隙だ。サンダーは兄弟の片割れに向かって突っ込んだ。相手は弾かれたように弩弓を向け、矢を番えようとしたが、サンダーは既に敵の懐に飛び込み、一気に喉下目掛けて跳躍し、剣を繰り出した。

 俺はこいつ等を斬りるんだ。お遊びでやるんじゃない! 彼は己にそう訴えた。

 全力を出せ、そうしなければ人は断ち切れない。

 脳裡でそう告げたのは、深い音色のようなクレシェイドの声であった。彼は自分自身の思いと見解を、仲間の声で激励として述べさせ、この瞬間を信頼する戦士自身を演じて、切り抜けようと決めたらしい。

 彼のクレシェイドのような重たい一撃は、一瞬で敵の咽を深々と突き刺していた。サンダーは相手の喉から剣を抜くが早いか、その脇を疾走し通り抜けた。前方ではこちらを見ているならず者の一団がいた。サンダーは連中目掛けて捨て鉢の強襲を仕掛けた。今の彼は、勇壮なる黒い戦士の静かなる影に守護を受けている。そんな気分になり切っていた。

「何だ!? この小僧は!?」

 貧相なほど細身の男は、偶然に手近な位置に突っ立っていたがために、その腕を斬られ、背後から首の根元を深々と突き刺されるという憂き目にあってしまった。声からすれば、こいつがアロンソンと呼ばれていた奴だろう。

 残る敵に向き直ると、立ち直りの早い三人ほどが剣を抜いて殺到してきていた。

 激昂に満ちた悪人面は見ものであったが、腰が引けたりはしなかった。まるで気持ちが高揚し、奴らがただの滑稽な三流以下の悪党に見えていた。黄金の骸骨との一戦がその余裕を生まれさせたのか……。サンダーは胸の内で頭を振った。これが最後の戦いだからだ。その証拠ともいうべきか、迫る敵の後ろには一人のならず者が、目の前で佇んでいる神官の女に向かって剣を振り下ろそうとしている。幸いにも、まだ手は下されていない。その男もこちらの登場に目を奪われていたからだ。

 サンダーは三人の敵を引き付け、そしてただの暴力への飢えだけに満ちた剣を続け様に退くように避けると、素早くそいつらを迂回し、神官の女性を殺そうとしている男を目指した。その周囲には数人の女性と、白刃をチラつかせた二人のならず者が佇んでいた。

「エイミュー、ここを頼んだぜ。俺はあのガキの腹を突き刺してから首を圧し折ってやらきゃ気が済まなくなっちまった」

 デレンゴが言った。

「そうだろうよ。ガーグズもアーロンもやられちまってるわけだし」

 そう応えると一人の男が進み出て、神官の女に監視の目を向けた。

「おい小僧、お前何者だ!? ハンッ、小僧は風の子ってか!」

 デレンゴはゆっくりと歩み寄りながら、血でも振り払うかのように剣を強く振り下ろした。怒りに満ちた双眸がこちらを凝視している。まるで目を逸らしたが最後、いつの間にか喉笛を噛み切られているだろうとでも言うようにだ。しかし、こいつもあの黄金色の骸骨には遠く及ばない。そう、こいつは熊だ。サンダー・ランスと、それを守護するクレシェイドの影の敵ではない。

 その間にもサンダーは駆け続けていた。悠然と向かってくる体格の良い男目掛けて……しかし、こちらの短い剣ではまともにはやり合えないし、残念だが力で競り合うことも難しいだろう。やはり背後に回り込むしか勝機はない。

「この小僧が!」

 怒髪天を貫くほどの勢いで、デレンゴが激情のままに咆哮を上げた。そいつの酔っ払いのように真っ赤に染まった四角い顔と、致命的なほど左右が不揃いの濃い口髭を目にし、サンダーは腹を抱えて吹き出しそうになった。しかし、横合いから唸りを上げて剛剣が薙ぎ払われてきたので、彼は本能のままに短剣の切っ先を突き出したまま、敵の右足へと滑り込んだ。そして擦れ違い様にその無防備な太い足首を深々と切り裂いたのであった。

 デレンゴは痛さで絶叫し、半ば崩れ落ちそうになっていた。何度も何度も苦痛に満ちた声を上げる。サンダーは躊躇したが、その無防備な背の、革鎧の継ぎ目に向かって有らん限りの力を乗せた短剣を繰り出した。脳裡にはクレシェイドの姿が思い起こされていた。彼のような絶対的な一撃を今こそ自分も!

 だが、その腕は突如として止められた。サンダー自身も驚愕した。腕を何者かにがっしりと掴まれている。そんな感覚がありながらも、そこには誰の姿も無いのだ。

 しかし、すぐ隣から黴臭い布の香りを感じた。そしてその行方を探ろうとしたときには、腹部に槌を打ち込まれたような強烈な一撃を見舞われた。内臓がひん曲がったような鈍痛と共に、彼は大量の唾を吐き出してしまった。目も大きく見開かれ、そして腹の痛みのせいで立っていられなくなった。

 地面に手を着いたとき、すぐ隣で何者かが砂利を踏む音が聞こえた。顔を上げるが、やはりそこには何の姿も無い。しかし、横っ面を思い切り蹴られ、彼は仰向けに突き飛ばされていた。

 見えない誰かがいる。腹に居座る鈍痛と、頬と口の中の鮮烈な痛みに耐えながら、彼は執念で新たな脅威の姿を確認しようとした。

 そして、離れた壁にある蝋燭の光りが、一見すれば何も無い空間に立っている者の影だけを映し出していることに気付いた。こんなことをできるとすれば、魔術師だけだと彼は納得した。

「すまないな、デレンゴ殿よ。まさか我々も侵入者がいるとは思わなかったのだ。正直度肝を抜かれている間に、貴殿までが斬られる有様となってしまっていたのだ」

 すぐ側で男の声がそう言った。

「そんなことはどうでも良い……。それより、俺の足を、この足をどうにかしてくれ」

 デレンゴは地面に突っ伏し、涙と脂汗に塗れた顔を向け、情けない声で懇願した。

「わかった。今すぐ神官殿に頼みに行こうではないか。だから、そちらの御同胞に捕虜を速やかに御送りするように命じて頂けまいか?」

「お前ら、早く女どもを連れて行け!」

 相手が言い終わる前に、デレンゴは呻きながら捲くし立てた。そしてその両眼がこちらに向けられた時、途端に憎悪の光りが宿るのをサンダーは見た。

「小僧、お前だけは許せねぇ。俺の足をこんなズタズタにしやがって……」

 相手の言い分に傲慢さを感じ、サンダーは怒った。

「おい、黙れよ小悪党。本当に許せないことをしてるのはどっちだ? もう少し考えてみたらどうだよ? この人攫いの変な髭野郎め!」

 サンダーは痛みを堪えながら、相手に向かって嘲りの文句を浴びせた。途端に姿を消している者達が脇腹を蹴り、足で背中を乱暴に踏み付けた。そのため、サンダーは顎を深く擦り剥いてしまったのだが、腹の痛みの方がそれに勝っていた。そしてあらゆる方角から容赦なく足蹴にされ、やがて満身創痍になると、本当の意味で良くも悪くも覚悟が決まるものだと感じた。おぼろげな意識がそう導いているのかもしれない。

「学者さん方、悪いんだが俺の代わりにそのガキにもう一発、特大のをくれてやってくれ」

 仲間に両脇を抱えられ、先を行く女達の背後でデレンゴが言った。

「それはお安い御用だ」

 冷ややかな嘲りを思わせる声がサンダーの傍らで応じ、砂利を踏み締める音が方々から幾つも近づいてきていた。サンダーは自分を囲んで見下ろしているはずの者達の息遣い聴き、それぞれの衣装の埃っぽいにおいを嗅いでいた。

 途端に腿の裏を強く踏まれるのに続いて、四肢をそれぞれ見えない足で押さえられる格好となっていた。しかし考えてみれば、少なくともデレンゴが自分に対して、自身で復讐を企てているのは明らかなので、ここで殺される心配は無いだろう。額に見えない強烈な蹴りを食らわされ、サンダーは意識を失ってしまった。



 二

 


 粗雑に削られた岩壁が見え、続いて視界の端に鉄格子を捉えた。そこから連想されるものを言葉に現すまで少しだけ思案しなければならなかった。

 牢屋だ。

 それが全てを思い出すきっかけとなった。ここはあの洞窟の牢獄だ。俺は連中に組み伏せられて……。

 ふと、人の顔が間近に割り込んできたので、サンダーは相手の綺麗な顔にも関わらず、驚きのあまり小さな叫びを漏らしてしまった。

 彼女は桃色の髪をしていた。デレンゴが殺そうと決めていたあの神官であり、サンダーはこの人の最後を飾るために命を投げ、助っ人に飛び出したのだった。どうやら、お互い死なずに済んだらしい。これはなかなか良い結果になったのだとサンダーは胸中で安堵の息を吐いていた。牢獄のため身動きは出来ないが、イーレやレイチェルが現れる可能性がある。最高の結末になるまでもう一息というところだ。

「君、怪我の方は大丈夫? 痛まない?」

 不安げな声が考えに没頭しようとするのを中断させた。そして、自分の頭が、神官の女性の膝の上に寝かされていることに気付いた。一体どのぐらい世話を掛けてしまったのだろうか。サンダーは慌てて身を起こした。身体の節々は、冒険と戦いの疲労とですっかり強張っている。彼は腰に短剣の感触が無いことを知り軽く驚いた。が、当然のことだと嘆息した。連中もそこまでおめでたくはない。彼は慌てて周囲に警戒の目を向けた。しかし、見張りの者は見当たらなかった。

 幾分気を和らげ、改めて周りを見渡した。前方に廊下があり、二つの蝋燭が更に先に広がる闇の存在を促している。そして後ろを振り返り、大勢の女性達が怪訝そうに、あるいは心配そうな視線を向けているのことに気付いた。イーレとレイチェルと協力できても、彼女達全員を、無事に脱出させるのは手間取りそうだと思った。きっと走ることに慣れてないだろうし、何よりもこれほど怖い目にあっているのだから、いざ逃げるとなると誰もが必死になり過ぎるあまり、中の何人かは無用な恐慌を来たしてしまうはずだ。

「何にせよ、助けが来なきゃしょうがないよなぁ……」

 傍らの神官の女性、いや、実際は自分よりも幾つか年上というところだろうか、その彼女が口を開いた。

「まず、お礼を言わせて。どんな理由でこんなところに居るのかはわからないけれど、一つだけ言えるのは、君が来てくれなかったら、少なくとも私は生きてはいなかったわ。本当にありがとう」

 こちらが年下であることを察したような口調で彼女は丁寧に言った。

「いや、良いって。あ、俺はサンダー・ランスっていうんだ」

「私は神官見習いのアネット・ラースクリスよ」

 相手は綺麗な顔にある魅力的な茶色の目を輝かせて手を差し出した。サンダーはその手を握り返し、彼女はしっかりしていて、いざという時は頼れそうだと感じた。そして相手の手の優しい感触に、胸が高鳴り、身体が熱くなるのを感じた。

「ねえ、坊や、あなた一人なの?」

 おずおずとした口調で、女性達の中の一人が尋ねてきた。

 サンダーは言葉に窮した。イーレやレイチェルが助けに来てくれるかどうか、二人はこちらを諦め、お嬢様の護衛を優先してくれる可能性だってあるのだ。しかし、憔悴し切った様子の多くの女性は、弱気に陥った表情を半分近くまで持ち直しているように思える。良い知らせを口にしたいところであった。だが、ここは心苦しくても首を横に振るべきだ。中途半端に希望を持たせる方が残酷だ。彼は決意した。すると、アネットが女性達に言った。

「気になるだろうけれど、迂闊なことは口にしない方が良いと思います。魔術師達は透明になれる魔術を完成させたみたいですから……」

 おそらくは逃亡に加わった女性だろう、中の数人が口々に目撃したことを話し始め、女性達は声を潜めて畏怖の表情で談義を始めていた。

「ねえアネットさん、ここには見張りはいないと思うけれど、魔術師達はここに潜んでると思いますか?」

 サンダーは機転を利かせてくれたことに感謝しながら、彼女に向かって尋ねた。アネット・ラースクリスは、知性と勇気が滲み出ている双眸を静かに閉じ、両手を胸の前で交差させ、二言三言、不明瞭な唸りのような呟きを漏らした。そして、腕を戻し、彼女は再び目を開いた。

「今はいないみたいね」

「うん、魔術なの?」

「一応のところはね。単に聖なる魔術の糸を、姿を形成しない不完全なまま周囲に張り巡らせてみたのよ。だけど、岩と鉄格子以外には何も触れるものはなかったから」

「信じるよ」

 サンダーはそう応じつつ、強引な魔術の応用には、レイチェルの姿を思い出さずにはいられなかった。しかし、今は伝えるべきことを簡潔に述べる時だと悟った。

「実は、俺の冒険者の仲間が二人外に居るんだ」

 声を潜めて言うと、アネットは目を丸くして見せた。そして言葉を挟まず先を促した。

「ここでのことは二人とも知ってて、扉の合言葉とかは、秘密の場所に書いて残して置いたし、意外と早く助けに来てくれると思うんだ。だけど、こんなに人数が多いから、もしもの時は、えっと……アネットさんにも協力して貰えればと思うんだけど……」

「ええ、勿論よ。任せて」

 囁き声であったが、彼女の表情は愉快気であり、そして闘志に溢れていた。サンダーは視線を彷徨わせ、そして意を決して彼女を正面から見据えると、未だに向けられている頼もしくも魅力的な笑顔に向かって深く頷いたのであった。

「私の仲間も違う監房に捕まっているのだけれど、彼らを助けることができれば、私以上にやってくれると思うわ」

「仲間がいるの?」

 サンダーは驚いて尋ねた。

「ええ、こっちも二人。エルドさんと、クレソナスよ。私達三人は、冒険者のグループとして行動しているの。二人とも剣の扱いに長けているし、エルドさんはベテランでとても頼りになる人よ」

 願っても無い吉報だった。アネットの仲間なら信じられると、サンダーは内心で驚喜した。レイチェルと、アネットに女達を先導させ、イーレと自分、そしてまだ見ぬ二人の戦士達で後ろを固めてしまえば、数だけのならず者達と互角以上に渡り合いつつ、女達を無事に外へ導き出せるだろう。

「その二人が捕まってる場所ってわかる?」

「あの扉の向こうよ」

 他の女達の陰になって見えなかったが、ちょうど反対側に扉があった。鉄製の簡素なそれは今は閉ざされている。こんな様でなければ簡単に蹴破ってみせたのだが……。彼は心の中でアネットの前で勇敢なところを見せたい衝動に駆られていた。しかしそれは醜い願望だと彼は思い直した。そして牢屋の扉に目を向け、そこに何重にも括られている鎖の束へと歩み寄った。

 鎖の行く先は表側に提がっている錠前の中であった。それは鉄できていて中くらいの箱ほどもあった。更には鍵穴が6つもあり、それは鎖一組にそれぞれ相応していた。サンダーは無駄だと思ったが錠前の穴から鎖が引き千切れやしないかと躍起になった。

 鎖が揺れ、鉄格子と擦れ合う都度に僅かな音が漏れた。それを聞く度に女達は小さく悲鳴を上げ始めたので、彼は望みの薄い作業から手を引くしかなかった。彼は振り返った先で、女達の非難がましい視線を一手に受けていることに気付いたのであった。アネットだけが気遣うような表情をみせていた。

「見張りが戻って来たらどうするのよ?」

 アネットよりも少し年上の女が厳しい口調で責め立てた。他の女の大半が彼女の言葉に同意するように頷いた。そして再び浴びせられる冷ややかな視線を前に、サンダーは困惑していた。アネットが立ち上がり両者の間に割って入った。

「お互い苛立たせるような真似は慎みましょう」

 その言葉にサンダーは深く落胆したが、こちらを見る彼女が同情するような顔をしてみせたので少しは救われた気分になった。彼を叱責した女は舌打ちをして座り込んだ。アネットがこちらに歩み寄って来て、無言で座るように促した。

「本当は私達の前にも大勢の人が捕まっていたのよ」

 彼女は耳元で囁き、閉まっている扉の方に一瞥を投げて示した。

「その人達はそこから奴らに連れて行かれて、もう二度と戻って来なかったわ」

 女達が極度に過敏になっている理由を彼女は言ったようであった。サンダーはわかったと頷いた。その間にも背中には大勢の女達の呪うような視線を感じていた。サンダーは気圧され、謝罪を口にすることはおろか、振り返ることすらも憚られていた。

 その時、背後で女の一人が「シッ」と全員に口を噤むように訴えた。

 一時の静寂の後、黒い通路の方から規則正しい乾いた音が聞こえてきた。耳を傾けていると、それが大きくなり、こちらに近付いてきていることを悟らせた。

「杖の音よ」

 誰かが怯えた声で言い、サンダーはいきなり頭の後ろを激しく叩かれた。

「アンタが馬鹿なことをしたせいよ!」

 痺れるような痛みや、ガンガン響くような頭の中の余韻よりも、そうされたことに心底彼は驚いていた。そして浴びせかけられた罵声を初めは信じられない面持ちで受け止めていた。

 若い女が長い髪を振り乱し、憎悪と侮蔑の篭もった眼差しでサンダーを見下ろしていた。彼女の右手は振り下ろされたままであった。

「鎖がガチャガチャ、やかましい音を立てることぐらい知ってるでしょうが! この役立たずのガキが!」

 相手は鼻息を荒く怒鳴り散らし、その声は牢獄中に響き渡ったのだった。

 サンダーは気持ちが急激に萎縮するのを感じていた。悲しみと申し分けなさで胸がいっぱいになるのを止めることはできなかった。彼の目頭は熱くなり始めていた。しかし、他の女達が互いにサンダーの失態を詰るように囁き合い、汚物を見るような目を向けると、彼の両目からは涙が溢れ出てしまっていた。             

「泣くなんてみっともない! 泣きたいのはこっちよ!」

「そうやって許されようと思ってるんでしょうね?」

 その通りだとサンダーは強く思っていた。この人達はまともなことを言っている。俺はむざむざ軽率なことを仕出かし、全員の命を脅かす失態を犯してしまったのだ。

 温かい腕が彼の背中を包み込んだ。アネットは物悲しそうな顔をして、サンダーを見た後、ゆっくりと彼の頭を抱き締めてくれた。

「君は悪くないのよ。本当に本当にそうなのよ。私が請け負うから」

 彼女の慈しむ様な言葉は、身と心を癒す身体の温もりよりも慰めを与えてくれた。

 女達は口々にサンダーのことを情けない男だと囁きあい、そして再び責める様に、その過ちを口にしあっていた。

「あなた方はもういい加減に黙るべきです」

 アネットは諭す様に言い始めた。

「どの道殺されることはわかっているのでしょう? 私達が運良くここから逃れようとした時、あなたがたはただ冷ややかに立っているだけでした。それは他者に齎される死を素直に受け入れるということですよね。それなのに、こうしていざ死の危険が近寄って来ているというときに、まるでこれまでとは正反対に怯えているように私には見えます。その土壇場での浅ましい心変わりを嫌うあまり、この優しい一人の勇者に対して立つ瀬の無さを、よってたかって、ただぶつけているだけです」

 すると女の一人が反論した。

「あのまま黙っていれば、もしかすれば盗賊達が忘れてくれたかもしれない!」

「そうなったら、私達は餓死するだけです」

 アネットがきっぱりと言った。

「そんなのわからないじゃない! もしかすれば、誰かが助けに来てくれたかもしれないじゃない! そうだとすれば、やっぱりこの小僧がやったことは余計なことってことになるわよ! 次に選ばれるときは連中にその小僧を差し出しましょう!?」

 その呼び掛けに女達は揃って頷いた。しかし、その中から五人ほどが進み出て、アネットとサンダーの前に壁を作るように背中を向けて立ちはだかった。彼女達はアネットと逃亡を試みた面々であった。

「そんな酷いことをよくも言えるね!」

「神官さんの言うとおり、あんたら死を受け入れたいんじゃなかったの? 皆で協力できれば、そりゃあ多少は犠牲は出たでしょうけど、逃げ切ることは可能だったわよ!」

 アネットが静かに一喝した。

「おやめさない。どのみち次に連れて行かれる役は、私一人で済むようにしてみせます」

 一瞬の静寂の間に、足音がすぐそこまで来ていることに誰もが気付いた。怯え、あるいは挑むような視線が暗い入り口に注がれていた。

「随分と賑やかだな」

 現れたのは両脇に杖を抱えた髭面の男であった。サンダーにはそれがデレンゴと呼ばれていた男だと気付いた。

 賊は全部で四人いた。デレンゴは不揃いの口髭を撫で付けながら、サンダーを見下ろし、大笑いした。

「何だ何だ小僧。威勢の良いチビだと思っていたのに、お姉ちゃんが急に恋しくなったのかい。そんなにお仕置きされるのが恐ろしいのかな?」

 デレンゴが他の者を振り返ると、連中は揃って嘲り大笑いした。

「しかしだ、このデレンゴ様の足はな、御偉い悪い神官さんに頼んでも、もう手遅れだと言われちまった」

 相手は浮いた片足の裾を苦労しながら巻くり、包帯で縛られている様を見せ付けた。そこに足先はなかった。

「だからよ、俺は、傷口から身体が腐らないようにするために、自分の足を切り取るしかなかったのよ。それはそれは酷い目にあった。あれほど痛い目を見たのは本当に初めてだった。だから、小僧、お前にはたっぷり礼をさせて頂かなきゃならんよな」

 デレンゴは狂気染みた目を向けながら、腰の後ろから鞭を取り出していた。その膨らんだ先端を労わるように撫でながら、相手は仲間達に目配せをした。

 二人が矢を番えた弩弓を構え、牢獄の女達に見せ付けるように狙いを定めた。もう一人は鉄格子に近付き、鍵束を繰り出しながら、鎖の一つ一つをそれぞれ別の鍵で解除した。

「女ども動くなよ。テメェのせいで誰かが死んじまうなんて耐えられないだろう?」

 鉄格子の扉を開けながら男が言い、そいつはサンダーの肩を引っ掴んだ。

「そら来いよ。あれだけのことして置いて、いざされるのは嫌だってのかい?」

 サンダーはアネットの手を解いてゆっくりと立ち上がろうとしたが、彼女はその腕を制して自分も立ち上がった。

「次に連れて行かれるなら、私にしなさい」

 盗賊は目を怒らせその頬を殴りつけた。

「俺に交渉だと小娘が! 話しを聞いてなかったのか、用があるのは小僧なんだよ!」

 地面に倒れる彼女の前に進み出て盗賊は足を振り上げたので、サンダーは慌てて声を上げた。

「よせ! 言うとおりにするよ!」

 盗賊はまるで感心するかのように目を不気味に見開いた。そいつは、サンダーの上から下までを舐める様に見下ろすと、彼の胸を乱暴に掴み上げ、外へと突き出した。

 砂利の上にサンダーは仰向けに倒れた。頭上でデレンゴが牢屋の女達に言った。

「一度しか言わないからな。お前らは、くれぐれも声を出すなよ。そこで小僧がどんな惨い姿になっちまおうが、悲鳴の一つも上げちゃならねぇ。さもなきゃ、事故が起きて矢が誰かを射抜いちまうかもしれねぇからな。言っとくが俺の予言はかなり当たるんだぜ」

 サンダーが立ち上がりかけると、風を切る音と共に背中に鋭い痛みが走った。

「そら小僧、立て。ぐずぐずしてると、事故が起きるぞ」

 サンダーは慌てて身を起こしたが、鞭が左足を打ち、次いで頬を嬲った。身体を揺るがす衝撃と鮮烈な痛みに彼は崩れ落ちた。血が頬から流れ地面に点々と赤い印をつけた。

「立つのが遅いぞ! おう、コッゾ、適当に一人殺せ」

 冷たい声でデレンゴが言うや、サンダーは全力で立ち上がった。相手の満足げな顔を見る前に、鞭はしなり、空気を痺れさせるような音を立てて嵐の如く身体に振り下ろされ続けた。

「声を出すなよ女ども! 事故が! 事故が起きちまうぞ!」

 デレンゴは鞭を振るい狂喜しながら言った。

 サンダーは全身に灼熱の痛みを感じていた。血と脂汗で衣類は不快に肌に張り付いている。しかし、鞭は容赦なく振るわれた。皮を裂き、肉を断ち、血の飛沫が舞い上がった。もはや、立っているか、座っているのかすら分からぬほど全身の感覚が危かったが、彼は壁に背を預けてどうにか二本の脚で立っていた。

 その時、デレンゴが顔を顰めた。サンダーも同様であった。確かに誰かの声がうっすらと聞こえたのだ。空耳でないことは目の前の盗賊の様子を見れば明らかであった。盗賊達は頷き合い、手の空いていた一人が入り口の陰に身を潜ませ、剣を大上段に構えた。

 こいつらの仲間以外で、誰かが来るとすれば、イーレか、レイチェルだ。サンダーは驚愕し、焦った。敵は彼女達の不意を打つつもりなのだ。サンダーは思わず声を張り上げ、「戻れ」と叫んでいた。デレンゴの鞭が三度彼の身体を打ち付けた。

「事故が起きても良いのか?」

 デレンゴはサンダーを見下ろした。弩弓を構えた賊の二人が得物を突き出して女達を脅した。サンダーは彼女達が殺されないことを祈りつつ、苦渋の決断を下し、もう一度「戻れ」と全身全霊で咆哮した。

 そして暗い通路の遥か先から、紛れも無いレイチェルの消え入るような声が自分の名前を呼んだのを聞いた。

 サンダーは貪る様な全身の痛みすら忘れ、愕然としていた。彼の脳裡には目まぐるしい焦りが蠢き、その目は見下ろすデレンゴを、入り口に潜む賊とその刃を、そして二つの弩弓と、牢獄に居並ぶ困惑気味の女達を見ていた。その終わりに彼は自分がアネットを凝視していたことに気付いていなかった。気付いたのは彼女が立ち上がり、勇気に溢れた声で、聞き覚えのある浄化の祈りの調を口にし始めたときだ。サンダーは気付くや激しく後悔した。窮地に追い込まれ、つい年上の彼女に頼ってしまったのだ。二つの矢がすかさず彼女に向けられる。デレンゴは驚愕に目を見開いたが、声を上げはしなかった。

 アネットの右手に淡い光が見えたとき、短い音がし矢が撃たれた。遅れてもう二本も放たれた。矢は彼女の右胸と左肩に突き立ち、アネットはよろめいた。その身体を他の女達は受け止めようとしなかったが、その光景はサンダーの目には映っていなかった。見ていたのは、桃色の髪が揺れ、白い衣装が小さくはためく様である。彼女の背は岩壁にぶつかり、そのまま崩れ落ちてゆく。閉じられた双眸を見たとき、サンダーは咆哮を上げて、デレンゴに襲い掛かった。しかし、悠然と突き出された拳が彼の顎を打ち、後ろに倒れる僅かな間に熱い憤怒の波は脆くも急速に冷え込んだ後悔の念へと変貌していった。しかしサンダーには何を悔いるべきかはわからなかった。ただ、自分が何もかもを、もっと上手く立ち振る舞うべきだったのだと、そう結論付けていた。

 衝撃と涙で歪む視界の先に、不用意に入り口を潜って来るレイチェルの姿が見えた。そのすぐ隣に佇む男は、剣を大上段に構えながらも、幸運なことに、こちらを無様な姿に釘付けであった。そいつが侵入者の姿に気付き、現れた神官の少女に、刃を振り下ろそうとした。

 その時、牢獄の女達が大声で口々に喚いて警告を発した。レイチェルは真上を見上げるや、間一髪のところで外へと身を退いた。重たい刃が空を切り、固い地面に激突した。

 本能が好機だと告げた。あるいは子供騙しかもしれないが、彼は己の脳裡に流れた作戦とも言えない捨て鉢の思いのまま、身体をよろめかせ有らん限りの力を振り絞って走り出していた。デレンゴの脇を過ぎ、そして刃を持った男の前を滑るように横切るや、暗い通路へと飛び出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る