第8話 「囚われ人達」 (前編)

 彼女は蔓の縄を伝って、スルスルと降りて行くと、慣れた動作で地に足を着いた。

 通路の左右の壁には、火の灯った燭台が差し込まれていた。そのおかげで、こちらから彼女の姿を確認することは容易かった。しかし、下の通路からだと決してそうはいかないだろう。この部屋は今までよりも一際高い天井の上に偶然設けられ、灯りが一つも無いからだ。

 サンダーは少し前の出来事を思い返していた。見下ろすことはできないが、すぐ足下には大きな魔法の扉がある。サンダーは周囲を調べたが、開錠の「鍵」になりそうな手掛かりを発見できずにいた。

 彼は途方に暮れたが、イーレは違った。彼女は真上に存在するこの部屋を探り当てたのであった。闇を見抜けるほど彼女の目が良かったのか、結局のところ、尋ねる前に、彼女は屈み込み、高々と飛翔するかの如く跳び上がり、闇の向こうにあるこの部屋へと消えて行ってしまったのだった。

 サンダーは突然の事態に泡を食うばかりであった。彼女の脚力に感嘆している暇さえなかった。程なくして、頭上から彼女の呼び掛ける声が聞こえ、闇の深淵から植物の太い蔓が目の前にブラブラと垂らされたのだった。

 サンダーは感心した。そして、無意識の内に、頭上の何処かにいる彼女へと畏敬の眼差しを向けていた。彼はトレジャーハンターを名乗る者として、お株を奪われたことなど気にも止めなかった。

 通路を照らす左右の灯りの中で、彼女はこちらを見上げた。

 イーレは立ち塞がる扉を魔法のものと仮定し、開錠には呪文が必要なのだろうと結論付けた。

「あなたはそこで待っていて。私は、レイチェルを呼びに行って来るから。あなたの話が本当だとすれば、強い浄化の魔術が必要になるはず……。きっと水の神だけの力では手に負えないもの……良いかしら?」

 道すがら、サンダーはイーレに、ライラの一件を大雑把に語って聞かせていた。イーレは信ずるに値する人間だと判断した上でのことでだが、クレシェイドのことまでは話さなかった。このことについては自然と縁が廻ってきたら話せば良いだろう。しかし、前回の怪しい一団が関わっていると思ったため、ライラのことだけは、どうしても詳しく話さなければならなかった。彼女はホムンクルスという、神ではなく、人の手によって創られた存在だということも話した。言葉には出さなかったが、イーレはホムンクルスについての知識があるように思えた。サンダーは連中が尖兵として生み出したリザードマン達のホムンクルスのことを話し、そして灼熱の躯にして黄金色の狂戦士ダウニー・バーンのこともすっかり語って聞かせ、あのおぞましい姿と声とを思い出し、冷や汗を掻いてしまっていた。

「確かにそうだけど、お嬢様の護りはどうするんだ?」

 天井の穴からサンダーが返事をすると、彼女は応えた。

「そのことなら、私を信じて」

 イーレは足早に去って行った。再び重苦しい静寂が戻って来た。一本道の敵地に自分一人だ。胸の中で不安が恐怖に変わろうとしていた。サンダーは自ら重圧を振り払い、今後、自分がどう過ごせば良いのかを考えることに集中した。

 扉を開けるヒントを得るには、敵の出現を待つしかない。奴らが口走った言葉を覚え、あるいは動作を掴まなければならない。

 緊張で心が浮つき始めていた。サンダーは、暗い部屋の中を手で探り、ザラザラした砂の上に、角ばった大きな石ころを見付けた。石を握り、それをゴツゴツした岩の壁へと伸ばす。石ころの先が岩壁に擦れて微かな音を立てた。もしも手掛かりを掴めたならば、迷わずに石壁に刻んで残そうと心に決めた。

 サンダーは小部屋から通路を見下ろした。イーレは当然まだだ。サンダーはそんな己を嫌悪した。そして彼女が無事に出られるように祈った。

 眼下を走る砂利の通路に白く眩い光りが広がった。サンダーは呆気に取られていた。心臓が高鳴り、背筋に緊張で震えが走る。

 扉が開いたに違いない。それを証明するかのように、男の粗暴な怒鳴り声が聞こえた。その言葉は単純明快な言葉だったので、事態を率直に把握することができた。

「待ちやがれ! 止まらなきゃ矢を撃つぞ!」

 白い光りの中を二つの人影が走り過ぎて行った。足取りは荒々しく、息の乱れる音もまた然りであった。その後を次々と新たな人影が追って行く。それぞれの手には弩弓や剣が握られていた。後者の連中に捕まった誰かが、逃げ出したのだとサンダーにも理解できた。しかし、逃げ切れないだろうとも悟っていた。ここは身を潜める場所の無い一本道だからだ。地の利のある追っ手側が有利だ。

 彼は必死に思案した。逃げているのは捕まった誰かだろう。ここで飛び降り、姿を見せれば、追っ手の気を逸らす事は可能なはずだ。その間に追われている誰かは洞窟を脱出できるかもしれない。そして、イーレかレイチェルかが姿を見止めて保護してくれるかもしれない。だが、捕まれば厳しい罰が待っているだろう。つまり行動を起こすのなら今ということだ。

 彼は決意した。この身軽さで連中を何とか翻弄すれば、望みは薄いが、自分も逃げ遂せることができるかもしれない。

 しかし、ロープ変わりの蔓を手繰り寄せ、いよいよ飛び降りようというときに、目が眩むほど廊下を白く染めていた光りが途絶えてしまった。まるで分厚い壁にも阻まれたかのように……。扉が閉まったのだろうか。つまりは追っ手が帰還してくる際には、この扉を開く仕掛けか合言葉かを口にするはずだ。

 でも、追われてる人達はどうなる。

 結局のところ、彼の悩みは僅かも時間を掛けずして解消された。苛立ちながらも首尾に満足する声が聞こえてきたのだ。こうなれば誰も死んでないことを祈るのみである。

 砂利を掻き分ける乱雑な足音が洞窟の中に不気味に反響し迫ってきていた。やがて胸糞の悪い男達の声が明瞭になり始めた。彼らは濁声で大笑いし、女達と思われる逃亡者達をからかい、脅し付け、悦に浸っていた。

「何をするにもここじゃ始末が悪い。扉の向こうでお前らの内の誰かを殺す」

 冷淡な嘲笑を思わせる声でならず者の誰かが言った。サンダーは身を強張らせ、再び様子を窺った。

「そんなことしたら、あの美形の悪い神官さんが、さぞ気分を害ことになるんじゃないの?」

 若い女の声が答えた。挑むような、はっきりとした口調であった。

「私達は大切な材料なんでしょう?」

 その女性は続けて言った。

「そうだ。大親分や、あの神官が言うにはそうらしいな。何でも魔術師どもが人形を造るのに必要だとか。だがよ、残念だな。話によれば、使うのはお前達の死体でも良いらしい。だから、俺らがお前らを殺しちまおうが、その程度のことは大した問題にはならねぇってわけよ」

 ならず者は、冷ややかに言うと、別の女が泣きそうな声で訴え出た。

「お願いよ! 謝罪はしますから! 今後は大人しく牢に入ってますから!」

 サンダーは怒りを感じた。人をここまで嘲り怯えさせるクソッタレどもに対してだ。

「おうよ、その素晴らしい謝罪は受け入れよう。だから、俺らの手でお前は、今は殺さないでおいてやる」

 サンダーはその後を、今の女が狂喜乱舞して悲痛な声でお礼の言葉を繰り返し叫ぶという胸糞の悪い想像していたが、幸い女性は口を開かなかった。おぞましい事を耳にしなかっただけで、胸の溜飲がほんの僅かだが下がるのを感じた。すると男がもったいぶる様に訴え掛けた。

「しかし言ったろ? 見せしめが必要なのだ。もしも、こんなことが続いちまっちゃあ、大親分とご友人の悪い神官さんの信頼と御機嫌を損ねることになるわけよ。そうだろう、野郎どもよ?」

 ならず者達が口々に賛同の声を発した。連中は怯える女達を見て、刃物を見せ付け、余裕たっぷりにからかっているのだろう。

「その見せしめは、そこの神官の小娘なんてどうだ? こいつとその仲間は、我が同胞達を随分と斬り殺してくれた。仇は俺らで討つのが道理ってもんじゃないか?」

「そうとも、デレンゴ!」

 ならず者の誰かが声高に応じ、連中は揃って小さく笑い声を上げた。

「そういうわけだ、この小娘ちゃんよ。扉の向こうに着いたが最後、お前さんは綺麗さっぱりあの世行きってわけよ」

 サンダーは飛び出したいのを堪えた。軽装のならず者達を先頭に、蝋燭の薄明かりの間を一団が通り過ぎてゆく。

 打ちひしがれた様子の四、五人の女がちょうど彼の真下の位置で足を止めていた。全員が平服を身に纏っている。その背後から、突き飛ばされるようにして、もう一人の女が視界に舞い込んできた。サンダーには、薄明かりに照らされる長く伸ばした桃色の髪と、レイチェルやライラの衣装に似た白い服を着ているのが目に入った。神官だ。彼女こそが、殺される予定の人物なのだと確信した。

 神官の女は背後を一瞥し、前へ向き直った。他の女性と違い、彼女は背をしっかりと伸ばしている。これから殺されるのにも関わらず、そんなものは実に涼しいことだと言わんばかりの態度であった。その毅然としている様はサンダーの胸を篤くし、決意させた。扉が開いたら、俺は素早く踏み込んで、あの人のために戦ってやろう。無駄死になろうが構いやしない。何が何でも、彼女のために一矢報いてやりたい。

 神様お願いだ。俺は信神深くもないし、昔のお墓から詰まらない物を失敬して、売りさばく事だってしてきた。だけど、アンタを信じている人が、最後に少しでも報われたと思えるように、どうか俺の頼みを聞き届けてくれ。下のクソッタレな男どもが、扉の仕掛けの秘密を漏らしますように。

「アロンソン、俺は舌を噛みたくねぇから、お前が合言葉を言って開けやがれ」

「おうさ」

 低い声が応じた。サンダーは静かに驚喜した。いいぞ、言え、言ってくれ。彼は耳を欹てながら、右手に持った石の突起の先を、石壁に押し当てた。そして昂ぶる神経を落ち着かせ、どうに研ぎ澄ませようと努めた。こいつはきっと二度と訪れない機会だ。

 デレンゴの声が聞こえた。

「扉を三回叩くのを忘れるなよ。言い終わった後にだ。さもなきゃ、俺らの死体も材料とやらにされちまうだろうさ」

 よし、神様!

「わかってる」

 そしてアロンソンの神妙であり同時に困惑気味でもある単調な声が続いた。

「ラ・マデラ・レルラ・ラダラ・オドラムラ・ゲムラム・ヌムラ」

 サンダーは一瞬遅れを取ったものの、頭脳を掘り起こすようにめいいっぱい働かせ、石の先端を懸命に壁に走らせた。そして、下から再び真っ白な光りが広がった時には、無意識の内に合言葉を口ずさんでいた。彼は詩文のような合言葉の最後を書き終え、その下の辺りに素早く「扉を三回叩く。言葉の後」と、記し終えた。

「アロンソン! 早く扉を叩け、馬鹿野郎が!」

 デレンゴが慌てふためきながら怒鳴り散らした。

「すまねぇ! 眩しさに目がやられちまって!」

 アロンソンが焦りを含んだ悲痛な声で応じた。

「ふざけてる場合か!」

 男達が揃って怒号を飛ばした。

「女どもは大人しくしていろよ! お前らの後ろにはこのガーグス兄弟が控えてるぞ! 俺らはお前らの背中に弩弓を向けているからな! 眩しくったって、大した問題じゃないってことだ!」

 ガーグス兄弟を名乗る誰かが言い終わる前に、切羽詰った調子で扉が叩かれる。金属質の音が三回聴こえた。

 サンダーは身を翻し、下の様子を窺った。白い光りが、名残なく消失した。

「そら歩け! 行け鈍足どもが!」

 デレンゴが急かし立て、数人のならず者も同様に罵った。一団はゆっくりと歩み始め、二人の大男の姿が足元を横切った時、サンダーはその頭上に向かって無我夢中で飛び降りていた。

 


 二



 レイチェル達は、足早に洞窟の先へと進んでいた。

 イーレは、ラミアの下腹部と尻尾とを擦りながらの歩みであったが、レイチェルは素早いその背を追い掛けねばならなかった。そして相手はその姿になっても音の一つも立てていなかったが、その歩みには遠慮が無かった。つまりは、もはや見えない脅威などを念頭に置く必要は無いということだ。レイチェルも、存分にその足音を洞窟中に響かせたのであった。

 先に明るい一室が見えて来た。神官ベルハルトを含む、討ち漏らした魔術師達がそこで待ち構えているだろう。暗闇に幾つもの魔術の炎が浮かんだ光景を思い出した。今度は部屋に入ると同時に襲い掛かってくるかもしれない。

 大きく曲がった回廊の先へと、二人は一気に躍り出た。

 この洞窟で初めて明るい部屋を二人は目の当たりにした。遠く離れた左右の壁に、蝋燭の灯りがズラリと並び、それは遥か奥まで続いている。蝋燭の列は三段あった。それらが、この広大な空間を上から下まで煌々と黄金色に照らし出していた。

 そんな眩い世界の真ん中で、黒衣の魔術師達の姿は見事に浮き上がっていた。

 二人は身構えた。一群ほどの魔術師達は陣形を組んでいた。彼らの魔術の旋律を詠む声が、低くあるいは高らかに洞窟の中に響き始め、そのおどろおどろしい輪唱はレイチェルを戸惑わせた。

 攻めるか凌ぐか、彼女が迷っている一瞬の間に、イーレが飛び出していた。蛇の尾をくねらせながらも、彼女の動きは流れるように素早く、既に魔術師達との間合いを瞬く間に詰めていた。

 魔術師達が炎の宿った掌をイーレに向けたが、彼女は次々と魔術の炎を避け、敵を翻弄した。相手は泡を食いながら潔く魔術を詠むのを諦め、自ら杖や短剣を手にし、イーレに襲い掛かる構えを見せた。

 その時、地面一帯に無数の黒い筋が走った。稲妻のようにそれは魔術師達の足元を駆け抜けていった。イーレも足を止め、幾筋もの黒い帯を目で追っていた。一人だけ遠目の位置に居たレイチェルにだけは、部屋全体の不穏な様を一望出来ていた。線は壁にも走ったのだが、それらの軌跡が文字のようなものとなって、壁に、地面に記されていた。そして文字の列は赤黒い光りを放って明滅している。

「イーレさん戻って来て!」

 レイチェルは不吉な予感が告げるままに声を上げていた。

 イーレが戻ろうとすると、数人の魔術師が彼女を討とうと武器を繰り出したが、イーレはその下を掻い潜り、無事にレイチェルのところへ戻って来た。

 彼女も振り返り、この空間で起きている全ての異変を目にした。その頃には魔術師達の様子が慌しくなっていた。彼らは悲鳴を上げて、奥の方へと懸命に駆け出したのだ。並んだその背に向かって、左右の壁際の中腹辺りから、地割れが走り、それは真っ直ぐに連中の背中を追い始めていた。そして一筋の大地の割れ目から砂煙を上げながら飛び出してきたのは、長く破壊的な形をした片腕であった。その剥き出しの灰色の爪が二人の魔術師を貫き、内側から引き裂いた。絶叫と共に血と肉片が降り注ぎ、残る者達は背後の惨劇を一瞥し再び必死に走り出した。

 すると、向こう側から白い衣装を纏った影が姿を現した。

「ベルハルト! 貴様は、我々を生贄にするつもりか!?」

 怒りと怯えの入り混じった大音声が部屋中に木霊した。

 神官のベルハルトは立ち止まり、低く凍て付いた声で、聞き覚えの無い魔術の調を口ずさんでいた。

 すると逃げながら魔術師達も次々と魔術の旋律を叫び始めていた。黒衣の長い袖口から炎が玉となって燃え上がり、あるいは白金色の雷が神官目掛けて放たれた。魔法の雷は神官の身体を打ち、ゆらめく身体には幾つもの炎の玉が直撃し、法衣ごと身体を燃え上がらせた。

 ベルハルトの身体は炎の中で影となっていた。しかし、その冷徹な声は途絶えることはおろか、乱れることすらなかった。魔術師の一人が苛立ちの声と共に、無数の岩を浮遊させ、大きな礫として神官の身体に激しく打ち付けた。炎に包まれた身体が仰向けに倒れた。だが、依然として声は続いていた。

「不死身なの……?」

 レイチェルが呆気に取られて声を漏らすと、傍らでイーレは頭を振っていた。

「いいえ、声の主は別よ。更に後ろの方から近付いて来ているわ」

 レイチェルが目を向けると、奥の方から再び神官が姿を見せた。その容姿も声も紛れもないベルハルトであった。レイチェルも魔術師達も焼け崩れる亡骸に驚愕の一瞥を向けていた。

 神官のベルハルトは悠然と姿を現し、尚も魔術の調を詠んでいる。その姿に魔術師達が得物を手に殺到した。

 その眼前に大きな土塊を噴き上がり、大地の底から見るも巨大な影が浮き上がった。それは大口を開け、短い風の唸りを響かせながら魔術師達の横合いから喰らい付き、一呑みにしてしまった。

 レイチェルは大地の裂け目から出ている黒く大きな顔と、2本の長い腕に目を奪われていた。それは毛の無い黒光りする鱗に覆われていた。

 突き出た鼻面に、頑強な下顎、そして目がある。その双眸は全てが黄色であり、自ら光りを放っていた。レイチェルは慌てふためきつつ我に返りながら、怪物の頭の後ろに突き出た四本の角を見た。

 そいつは大口を開くや、洞窟中を揺るがすほどの甲高い咆哮を上げ、こちらを大いに竦ませた。

「あれは、ドラゴン?」

 眼前の怪物を凝視しつつイーレが呟いた。レイチェルもこれが巨大なトカゲだとは思えなかった。

 神官ベルハルトが竜の隣に歩み寄った。

「そう、これこそが古の時代に大陸を恐怖させた偉大なる闇の竜の筆頭、邪悪なるデルザンドだ」

 神官は愛しげに竜を見上げつつ言った。狂喜に歪んだ端麗な顔がこちらを見た。

「しかし、残念ながら未だにその身は完全ではない。ここにきて生贄の質が良くなかったのだ。本来ならばお前達と、奥の牢獄にいる者達を生贄として捧げるつもりであったのだが、お前達を小娘と侮ることに危惧を抱いたのだ。特にそこのラミア族の女は一筋縄ではいかないだろう。ならば、対抗する手駒は自ずとこの竜のみになったということだ」

 ベルハルトは短く笑うと言った。

「この一戦を受けるか否か、選択権を与えよう。言って置くが、形こそほぼ取り戻してはいるが、デルザンドは未だ完成してはおらぬ。それを勝機と捉えるかな?」

 レイチェルは相手の小賢しい物言いに僅かばかり憤った。しかし、彼女の胸中をイーレが代わって述べていた。

「愚問ね、この先には捕らわれた人達がいる。私達の使命は全員を救い出すこと」

 冴え渡る声でイーレは応じた。

「ならば幸運を祈ろう」

 ベルハルトは竜を見上げた。彼が何事か聞き慣れない区切りの言葉を話すと、竜は通じたかのように神官を見下ろした。

 その大口が僅かに開き、生え揃った氷柱のような牙が姿を現すや、次の瞬間には竜は横合いからベルハルトに喰らい付き丸呑みにした。レイチェルは竜の咽が隆起し、そして沈むのを見て、気が遠くなりかけた。そのため、イーレが彼女を支え、綺麗な赤い瞳が気遣うように覗き込んでいることに気付くのが遅れた。

「すみません。もう、大丈夫です」

 イーレは頷くと、怪物を指し示した。

 頭部と胸部、そして二本の長い腕だけが、地の裂け目から露出していたはずだが、レイチェルはすかさずその変化を見止めた。背中の左右に何か膜のようなものが広がってゆく。大きなそれは、あっと言う間に蝙蝠のような皮膜の翼になった。

 この巨大な悪夢が 空を駆け、飛来し迫ってくることほど恐ろしいことは無い。レイチェルは弱気に蝕まれながら、その様を想像していたが、理性が彼女に語りかけた。天井は見えないが、ここは限られた空間だ。それが翼を得たところで自由になどなれやしない。壁にぶつかり、天井を崩落させるのが落ちだ。そして彼女はハッとした。崩れてしまったら、サンダーや捕まっている人々が生き埋めになってしまう。邪悪なる神官の最後の言葉を思い出した。奴はこうなることを知っての嘲ったのだ。「幸運を祈ろう」時間が無い。

「イーレさん、急がないと!」

 レイチェルが訴えると、イーレも全てを察したように頷いた。竜の両翼が弱々しく羽ばたき始めた。レイチェルの心臓に激しい緊張が過ぎった。イーレは言った。

「私達は二人。そして、やることも二つ。私が竜を陽動している間に、あなたは牢獄を見つけるのよ」

 イーレは腰から鞘に収まった剣を差し出した。頑丈な丸い鉄の柄をレイチェルは恐縮して受け取った。以前に借りた「鱗斬り」と比肩するほどの重さに慌て、すぐさま両腕に力を入れた。

「それは鎖断ちの剣。以前に鱗斬りを使ったあなたならその意味はわかるはずよ」

 レイチェルは納得した。かつて鱗斬りは、非力な己の一太刀でも、吸い込まれるようにヒュドラの強固な皮膚を突き破ってみせた。つまりはこの剣も名前の通りなのだろう。そしてレイチェルは已む無く、ティアイエルから借りている鈍器を壁に立て掛けた。重い剣を抱えて走るだけで精一杯だからだ。

「頑張って」

 イーレは叱咤するように言うと、地面を滑るように飛び出して行った。その左右に二つの蒼い光りの玉が付き従っている。そして二つの光りは地に埋もれる竜に向かい、その左右を鳥のように忙しなく飛び交った。竜は羽ばたきを停止し、光りに喰らいつこうと躍起になり始めた。

 覚悟を決め、レイチェルは壁際を駆け出した。

 竜の岩礁のような顎が、蒼い球体を噛み損ねる度に、空気には痺れる様な振動が走った。イーレは間合いを取っていた。おそらくは球体を操っているのだろう。彼女は鱗斬りを掲げ、竜を直視し微動だにしなかった。レイチェルはその横を通り過ぎ、対峙する両者の圧倒的な大きさの違いに肝を冷やした。黒光りする大きな頭部だけでも、岩山のように巨大であった。

 蒼い軌跡を追う目が、こちらに気付いた。黄色に光る眼光は識別するようにこちらに注がれている。レイチェルは心臓が止まる思いをしながら素早く足を止めようとしたが、すかさずイーレの叱咤が飛んだ。

「走り続けて!」

 彼女はそう叫ぶと脇見をしていた竜の咽元に飛び込み、高々と跳躍し剣を薙いだ。血が飛散したが、竜は動じなかった。そしてまるで気付かなかったように、レイチェルの背を目で追い続けた。レイチェルはその様子を目の端に捉えながらも、前を向き、必死に駆けた。

 前方に壁が現れ、そこに開かれた二つの穴を見つけた。レイチェルはサンダーと後ろにいるイーレのことを思い、それを糧として疾駆し続けた。そして長い影のような二つの出口の前にやっとの思いで辿り着いた。

 しかし、彼女にはどちらが牢獄に通じているのか知る由も無かった。レイチェルはそれぞれの暗がりを覗き見たが、道はいずれも長く伸び、途中で折れ曲がっていた。

 どちらも、とてつもなく長い道だったらどうしようか。レイチェルは後ろを振り返り、不動な竜の巨大な黒い背と、広大な翼とを見た。周囲を駆ける蒼い光りも、イーレの姿もここからでは砂粒のようであった。きっとイーレはこちらの様子をヤキモキしながら眺めているだろう。レイチェルは苛立ちながら咽を唸らせて思案した。

 どんな見っとも無い手段でも良いから、この場で正解の道を知る方法は無いだろうか。風の通り道を確かめれば良いのだろうか。それでは心許ない。せめて何かが聞こえてくれさえすれば判断のしようがある……。

 ふと、レイチェルは思い立ち、左側の洞窟の中に踏み入ると、地の底に伸びて行く道に向かって大声で呼び掛けた。

「誰かいますか!?」

 彼女は息が喘ぐのを抑えて、じっと耳を傾けた。しかし、返事は無かった。これは無意味なのではないのだろうか。牢獄が近くに設置されているというのは有り得ないことなのではないだろうか。そんな心許ない疑念が過ぎったが、レイチェルは今度は右側の洞窟に入り、再び声を轟かせた。

 声は幾重にも木霊し、やがて手の届かない霞となって消えて行った。今度も反応が無かった。

 もはや、判断の材料は無い。二つに一つだ。レイチェルは自らに言い聞かせ、右の道を壁伝いに急ぎ足で歩み始めた。前方の曲がり角の前には赤々と燃える燭台が壁に埋め込まれていた。そのため周囲を染める暗闇は薄いものであった。

 彼女が角に差し掛かった時、前方から、消え入るような声が聞こえたような気がした。レイチェルは神経が過敏になり過ぎているのだと思ったが、脳裡にはサンダーの姿が過ぎっていた。そう、彼女にはサンダーの声のように思えたのだ。

 どうせ進むのだが、彼女は曲がり角に身を踊り出し、更に伸びる濃い闇へ今一度、声を張り上げた。

 不意にこの暗闇の中で時間がどれほど過ぎてしまったのか不安になった。イーレはどうしているだろう。レイチェルは壁に肩を沿わせ、大股で駆け出した。そうして一本道の下り坂に差し掛かり、その途中で先の方から声が聞こえてきた。

「戻るんだ!」

 先程よりははっきりとサンダー・ランスの声が遥か下の方から聞こえてきた。レイチェルの胸は躍った。しかし、戻れとはどういうことだろうか。

「サンダー君!」

 レイチェルは彼の名を呼んだ。しかし、声は返って来なかった。幻聴だったのでは無いだろうか。それでもレイチェルは足早に坂を降り、次いで平坦な道を走った。呼吸が乱れ、咽と肺が悲鳴を上げ、どちらにも鋭い痛みを感じ始めた。内側では心臓の忙しく鳴る音がはっきりと聞こえた。そして彼女は暗闇の先に漏れる一筋の灯りを見たのだった。

 ここまでくればもう叫ぶ必要は無い。むしろ目で確かめないなど愚の骨頂だ。壁から肩を離し、布の巻かれた剣の頑強な丸い柄を両手で握り締めた。

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