第5話 「護衛の依頼」 (中編)

「依頼が決まったわよ」

 二人がギルドへ戻るとティアイエルが言った。彼女とサンダーは手近な卓に座り、こちらの到着を待っていたようだ。

 サンダーが嬉しそうに言葉を続けた。

「報酬は六万ジョエイン。しかも、途中で良いところ見せれば、その分上乗せするってきたもんだ」

 報酬の高さにレイチェルは驚いたが思考は冷静であった。肝心の目的地も高い報酬の分だけ距離があるか、険しいのだろうと考えていた。

 サンダーを押し退けてティアイエルが言った。

「今回は護衛よ。しかも領主の娘を屋敷のあるアルマンまでね」

 アルマンはこの大陸南部の首都のようなところであった。実際行った事はないが、このウディーウッドからやや東に逸れながら北上し、ペトリア、ムジンリ、と言った村と町とを抜けた先にある。南部きっての大都市だけあって、全ての善の神達を祭った聖堂が、個々に建てられていることでも有名であった。

 時間が取れれば、聖堂に顔を見せられるかもしれない。

 レイチェルは軽くだが期待していた。高位の者に成長を認めて貰えれば、新しい神聖魔法の調べを伝授されるからである。

「領主の娘だと?」

 ライラが言い、レイチェルも思い出した。

 二人は驚いて顔を見合わせ、やはり先程のお嬢様に違いないと合点した。

「何なの?」

 ティアイエルが二人に尋ねてきたので、レイチェルが説明することにした。

「領主の娘だという女の子とちょっと会ったんです。御付きの方が領主のサグデン伯爵の娘さんだと言ってました」

 隣でライラも頷いていた。

「何だかゴタゴタしてて出発が遅れるようなこと言ってたけど、それなのかしら。まぁ、とりあえず、レイチェルは急いで準備して。クレシェイド達はもう依頼人の方に行ってるから」

「あ、はい」

 レイチェルは慌てて階段へ向かいつつ、ふと振り返った。

「ライラさんは準備大丈夫なんですか?」

 するとティアイエルが答えた。

「ライラのはヴァルクライムから預かってるわ。一式、揃ってるとか本人は言ってたけど」

 そう言って、足元から中くらいのカバンを持ち上げていた。

 そしてライラに渡しながら、ティアイエルが突き刺さるような視線をこちらに向けてきた。

「ほら後はアンタだけよ。さっさと用意してらっしゃい」

 レイチェルは脱兎の如くは階段を駆け上って行った。

 そして用意を終えた一行はペトリア方面の入り口へと向かった。

 そこには馬車と、それとは別に鐙を掛けられた何頭かの馬がいた。クレシェイドと、ヴァルクライムが、それぞれの手綱を握っていたので、これが依頼人のものであることは明白であった。

「レイチェル、ライラが世話になったな」

 ヴァルクライムが言った。茶色のマントと暗い青のローブを着ている。

「おはようございます。クレシェイドさんも」

「ああ、おはよう」

 レイチェルが声を掛けると、漆黒の戦士は心地良い声で応じた。

 昨日の蟠りは無さそうだ。レイチェルは安心した。

 馬車を引いている以外の馬は全部で四頭いた。これに乗るのは自分達なのだろうか。そう思うと、乗馬の経験が無いため緊張したが、馬上にある勇壮な自分の姿を想像し、待ち遠しくも感じていた。

「おお、その方らか。先程会ったな」

 聞き覚えのある幼さと高慢さの混ざった声がし、馬車の窓から紛れも無いシャロンお嬢様が顔を出していた。

 予想通りであったが、これは苦労しそうだとレイチェルは苦笑を浮かべた。

「それでは、お主らがお嬢様の言っていた神官コンビか」

 馬車の陰から背の低い男が歩いてくる。一瞬だが、その肉付きの良い体型から太い切り株が地面を摺り足で歩いてきているように錯覚した。

「あ、ドワーフのおっちゃん」 

 サンダーが声を掛けると、相手は満面の笑みを浮かべてこちらを見た。

「ワシはお嬢様の付き人をしとるアディー・バルトン。紹介があったが、見ての通りのドワーフじゃ」

 アディー・バルトンが好意的な態度で述べた。ドワーフ族は鉱山や洞窟に集落を築くのだが、鉱物に詳しく、手先が器用なことと、生真面目で人の良い性格を人間達に知られ、多くは職人として活躍し、または歓迎されている種族であった。

 目の前のドワーフは初老のようであった。たっぷりと蓄えられた口髭と、ヤギよりも立派な顎鬚を持ち、それらには白髪が目立っていた。鎧と兜に身を固め、片腕には刃渡りのある太い手斧を持っていることから戦士かと思ったが、鎧の下に見える白い衣装から、その素性は神官なのだとレイチェルには分かった。

「そして、あちらの馬車にお出でなのがシャロン御嬢様。あとは御者のフェーミナと、リザードマンのロブがおる」

 レイチェルとライラはロブと面識があったため動揺はしなかったが、ティアイエルとサンダーは耳を疑うようにドワーフのアディー・バルトンを凝視していた。

「生真面目そうな方でしたよ。物腰も丁寧でしたし」

 レイチェルが二人に向かって言うと、アディー・バルトンも頷いて言った。

「ロブなら心配いらんよ。アイツは見た目は紛れも無くワシらが呼ぶ蛮族じゃが、その心はドワーフなんぞよりもずっと人間に溶け込んでおる」

 その後ろからリザードマンが歩み寄って来るのが見えた。

 ティアイエルとサンダーは、訝しげな表情を崩すことなく噂の相手を凝視していた。

「こちらの準備は整いました」

 ロブは滑らかな口調でドワーフにそう言うと、ティアイエルとサンダーの表情は驚きに変わっていた。

 レイチェルは二人の顔を見て笑いが漏れそうになるの堪えた。息もピッタリでまるで本当の姉と弟に思えたからである。しかし、先に出会う機会が無ければ、自分も口をあんぐり開けた一人になっていたのは間違いなかった。

「ご苦労さん。こちらは護衛を引き受けてくれる冒険者の方々じゃ」

 ロブは大きな黄色い目を向けてこちらを向く。縦長の黒い瞳孔がレイチェルを捉えると、相手は一瞬まじまじとこちらを見据え、思い出したように言った。

「先程は失礼致しました。改めて、私は領主様の使用人の一人、ロブと申します。この度はどうぞよろしくお願い致します」

 相手は一礼した。先程と同じ鎧姿で、頭には羽の飾りがついた兜を被っている。

「こちらこそ」

 レイチェルは快く応じ、自分と仲間達の名前を順繰りに紹介していった。

「さて、我々は馬に乗るわけだが、隊列の方はどうする?」

 ヴァルクライムが従者達に尋ね、ロブが口を開いた。

「最後尾は私がします。そちらは馬車の左右に一騎ずつと、先頭に二騎お願いします」

「心得た。少々だが割り振りについて時間を頂きたい」

「おお、構わぬぞ。お主らは六人ゆえ、二人ほど余るじゃろうから、その際は遠慮なく馬車に乗ってくれ」

 使用人の2人は馬車の方へと去って行き、レイチェル達は話し合いを始めた。

「馬に乗ったことが無い奴はいるか?」

 ヴァルクライムが尋ね、レイチェルは素直に申し出た。

「よし、レイチェルか。ティアの嬢ちゃんは大丈夫なんだな?」

「勿論よ」

 有翼人の少女は冷めた瞳を向けて答えた。

「ライラ、お前はどうする?」

 魔術師が言うと、全員がライラに目を向けた。彼女がこの世界に再び生まれて間もない事を、誰もが思い出したようであった。

 ライラは全員の視線を受け止めると、手近な馬を振り返り、鐙に手を掛けるや、その背に飛び乗った。

 彼女は新品の長い得物と共に手綱を握っていた。

 すると馬はゆっくりと歩み出し、ライラが手綱を軽く引くと足を止めた。

「よし、問題ないぞ」

 馬上で彼女は振り返って言った。

 するとそれを合図にしたかのように、仲間達が次々と馬に飛び乗っていった。

「そんな、俺が余りなのかよ」

 サンダーが悔しそうに呻く。彼の目の前にいる馬にはティアイエルが跨っていた。

「お生憎様。後で代わったげるわよ」

 嫌味たっぷりの笑みを浮かべて言うと、ティアイエルは颯爽と馬を進ませて行く。居残った二人は、前方で合流する四つの騎馬の影を、少々惨めな気持ちで眺めていた。

「姉ちゃんは飛べば良いじゃねぇかよ。せっかく俺の見せ場だったのにさ」

 よほど馬に乗りたかったのだろう。隣でサンダーが溜息を吐いていた。

 そしてレイチェルとサンダーは馬車の方へと駆けて行った。

 馬車は特別豪華というわけではないが、割と大きな類だとレイチェルは思った。引く馬は四頭で、操るのはドワーフのアディー・バルトンと、もう一人は女性であった。彼女が紹介にあったフェーミナという人なのだろう。黒髪のおしとやかそうな女性だが、こげ茶色の皮のフードとマントに身をすっぽりと覆い、背中には矢の入った筒を2つも背負っていた。

 この人も戦うのだと思うと、レイチェルは意外さに舌を巻くしかなかった。

「お前さん方が馬車に乗ることになったのかの?」

 アディー・バルトンが尋ねた。

「まぁ、そういうことだよ」

 サンダーは不貞腐れながら応じる。すると、ドワーフは朗らかに笑った。

「期待しとるぞ。馬に乗るよりも、こっちの方がある意味では大仕事になるじゃろうからな」

 サンダーはただ首を傾げるだけだったが、レイチェルにはその意味が理解できた。つまりは、天真爛漫そうな御嬢様と同じ場所に居なければならないのだ。レイチェルは初老のドワーフに苦笑いを返すしかなかった。

「初めまして、私はフェーミナと申します。どうぞ、御乗りになられて下さい」

 柔らかな口調で御者の女性は言うと、後ろでドアが開け放たれた。金色の髪の御嬢様が目を爛々と輝かせ、こちらを見ている。

「お嬢様、物を乱暴に扱ってはいけません」

 フェーミナが後ろを覗き込んで、先程とは打って変わって厳しい口調で、文字通り叱り付けていた。レイチェルとサンダーはその勢いに軽く驚いた。

「わらわはもう退屈で退屈で頭が壊れてしまいそうなのだ。その方ら、さっさと乗って面白い話しを聞かせて欲しいのじゃ」

 フェーミナは溜息を吐いて、レイチェル達を見た。

「とても大変でしょうけど、どうぞよろしくお願いします」

 二人が乗り込むと、いよいよ馬車が走り始めた。

 座席はそれなりに広く、二人はお嬢様と向かい合うように座っていた。

 左右と前は扉になっていて、後ろだけは壁のようであったが、いずれもガラス張りの窓がついていた。

 御者と、馬車を引く馬のずっと先に、ライラとヴァルクライムの背が見え、ティアイエルとクレシェイドはそれぞれ左右を走っている。そして振り返るとリザードマンのロブの姿があり、彼は少し離れた位置を駆けていた。

「わらわはシャロンと申す。お主達は名前は何と言うのじゃ?」

「レイチェルです」

「俺は、サンダー・ランス」

 レイチェルは思わず少年の横顔を一瞥してしまっていた。

 シャロンは興味深げに二人を交互に見ている。彼女はサンダーよりも年下のようであった。上品な身形をしているが、落ち着きの無い性格のためか明らかにその衣装からは浮いて見えていた。つまりは子供っぽいということだが、年齢を思えば仕方が無いのかもしれない。

 シャロンは期待に満ちた笑みを絶やすことなく、こちらを見ている。つまりは先程言っていたとおり、何か面白い話を心待ちにしているのだろう。

「そういや、この道って、俺と姉ちゃん達が始めて組んだ依頼で通ったよな」

 サンダーが言い、レイチェルも、ここがぺトリア村へ続く街道だと思い出した。まだこれで冒険者としての仕事は三回目だが、最初に引き受けた依頼は、駆け出しの自分の想像を超えるものであった。

 途絶えることの無いゴブリン達の軍勢を思い出す。あれはまさしく死線であり、血みどろになりながらも、たったの四人で成敗できたのは、考えてみれば奇跡であった。

「そうだね。何だか少し昔のことに思えちゃうね」

 レイチェルは正直な気持ちを打ち明けながら微笑んだ。

「何じゃ何じゃ、わらわにも詳しく話して聴かせい!」

 シャロンが身を乗り出したので、レイチェルは慌てて座席に押し止めた。

「危ないですから、座ってて下さいね」

 言葉をどうすべきか悩んだが、結局は相手は依頼人ということもあり、今後は敬語で通すことにレイチェルは決めた。

 レイチェルの隣でサンダーが話しを始めた。

 依頼のこと、後で合流したこと、串焼きを食べたこと、多少自分の活躍に誇張があったが、ゴブリンの群れと激戦を繰り広げたことなど、シャロンはすっかり少年の話に夢中になり、レイチェルも野暮な事はせずにそのままサンダーに場を任せていた。

 自分の横を馬でクレシェイドが走っている。彼はこちらには目を向けず、ひたすら馬を疾駆させていた。レイチェルはその様子をぼんやりと眺めて過ごしていた。

「おい、レイチェル、お主が拳で化け物をやっつけたとは本当か?」

 レイチェルは我に返って、相手の言葉の意味を考えた。拳でというと、サンダーの話しは昨日終えた依頼のことにも及び始めたということになる。野宿を終えた朝、ゾンビが現れた時のことを思い出した。

「まぁ、はい。そうですね」

 そう答えながら、浄化の祈りを敵へ飛ばせなかった時の恥ずかしさを思い出していた。

「それは凄いのじゃ。屋敷へ帰ったら岩を砕いて見せて欲しいのじゃ!」

「岩はちょっと無理ですね」

 レイチェルは苦笑し、相手が諦めてくれるのを願った。

「あのロブはな、素手で岩を砕くことができるぞ」

 シャロンが言い、レイチェルとサンダーは後ろを振り返った。

 リザードマンは均一な距離を保って馬を飛ばしていた。

「いつだったかの、わらわが山へ家出した時に、崖の上から岩が落ちてきたのじゃ。それはこの馬車ほどの大きさもある岩でな、わらわがその気配に気付いて上を見たときには、もうすぐそこまで迫ってきていて、わらわはさすがに死を覚悟した」

 シャロンは真剣な眼差しを見せて続きを語り始めた。

「そうしたら、不意にわらわの目の前に大きな影が現れて、そやつは拳を振り上げて岩を粉々に打ち砕いたのじゃ。それがロブだったのじゃ」

「馬車ぐらいの岩ってマジか?」

 サンダーが胡散臭そうだと言わんばかりに尋ねると、シャロンは思案しながら答えた。

「ああ、いや。言われてみればもう少し小さかったような気もするのぉ」

「もう少し? 本当はもっと小さいんじゃないのか?」

「お主はいちいち細かいのじゃ! ほれ、だから背が小さいままなのじゃ!」

 シャロンは目を怒らせて声を上げた。

 少年は何事か反論しようとしたが、場の空気を思い出したかのように言葉を引っ込めた。その様子を見てレイチェルは胸を撫で下ろしていた。御嬢様の声が聞こえたらしく、御者のフェミーナがこちらを一瞬だが振り返っていた。見えたかは知らないが、レイチェルは苦笑いとも愛想笑いとも判断できない表情を見せて応じた。

「ところで、レイチェルよ」

 畏まった口調でシャロンは言った。

「あのお主と一緒にいた背の高い女は、なかなかじゃったの」

「なかなか?」

 レイチェルは考えた。

「ほれ、武芸じゃ武芸。軟弱とはいえ多数の男どもを蹴散らすとは大したものじゃった」

 レイチェルは思い出した。買い物の帰りに起きた出来事のことだ。

「何の話?」

 サンダーが尋ねてきたので、レイチェルは軽く説明した。

「シャロン御嬢様が男の人達に追いかけられててね、それをライラさんが返り討ちにしたの。まぁ、その人達はロブさんと一緒に御嬢様を探してたみたいだったんだけどね」

「一振りだったのじゃ。あれほどの使い手なら我が領内の将軍に推薦したいものじゃが……」

 サンダーが首を横に振った。

「ああ、それは無理だな。ライラ姉ちゃんは、俺らと冒険者をやるって決まってるんだからさ」

 レイチェルはサンダーの言い分に首を傾げそうになったが、少年の胸の内をすぐに理解した。彼はライラがラザ・ロッソとして生きていた時代と同じ悲劇に合わせたくは無いと考えているようだ。おそらく戦争や、軍隊は、嫌でも心機一転したライラの心を暗く蝕もうとするだろう。レイチェルも、新しい彼女の人生をそんなことで煩わせたくなかった。

「給料なら弾むぞ」

「いや、ライラ姉ちゃんは渋そうな性格だから、お金とか全く興味がないと思うぜ」

 サンダーはやんわりと反論したつもりだろうが、苦し紛れの態度が見え見えであった。もっともシャロンは気付かなかったようだ。彼女は思案し、何とか食い下がろうとしているようである。

「三食全てをあやつの好物で埋め尽くしたとすればどうじゃろうか?」

「いやいや、たぶん無理だね」

「何でじゃ?」

「そ、そりゃあ、食事ってのはバランスを考えなきゃ駄目だろう」

「なら、バランスの良い食事を三食提供する。これであやつは誘いに乗ってくれるということじゃな、サンダー・ランスよ?」

 サンダーはうんざりした様子でこちらを見た。

 話題を変えよう。これ以上はこちらにとって不利になる。レイチェルは話題を探し始めた。

 ふと、何気なく前を向いた視界の前方に、妙なものを見つけていた。

 それは先を行くライラとヴァルクラムの更に奥、街道沿いの茂みと木々が深みを増し始めたところにあり、一見すれば不恰好な大岩が聳え立っているかのように思えた。

 しかし、大岩はその正体を明かすように、ゆっくりと街道へと歩み出していた。

 ライラとヴァルクライムが馬を止めていた。

「何だ、あれ?」

 サンダーも気付いたように声を出すと、御者のフェーミナが振り返り、平素は穏やかなそうな細い目を険しくして訴えた。

「馬車はこのまま突破します! 御嬢様をお願いします!」

 シャロンが身を乗り出して前方を窺おうとしたので、レイチェルとサンダーは二人で慌てて掴み掛かって座席に押し止めた。

「何するのじゃ! わらわは向こうが気になるのじゃ!」

 シャロンは二人の腕の中で懸命に抜け出そうともがいていた。

「ジッとしてて下さい! お怪我をしますよ!」

「口も閉じてろ、舌を噛んじまう!」

 二人は異口同音に捲くし立て、何とかシャロンを黙り込ませようとした。

 前方では、大岩のように思えた怪物が、その姿を曝け出していた。青銅色の極めて大きな身体に、太い両腕と両脚がある。

 レイチェルはそいつが怪物のトロルであることを悟った。ゴブリンは人里で悪さをするために有名だが、絵本や物語などで有名なのがトロルであった。それらの話しや噂を鵜呑みにすれば、その性格は極めて暴力的であるらしい。

 レイチェルは怪物の名前を口にはしなかった。シャロンの興味を掻き立ててしまうし、いずれ擦れ違うときに嫌でも見てしまうからだ。

 馬車は馬上のヴァルクライムとライラの背に近付いてきている。

 二人は得物を敵に向け、注意をこちらに引きつけている様だ。馬車の通れる道を確保しているに違いない。

 大男というべき怪物トロルは、丸い岩石に似た醜悪な顔をしていて、ヴァルクライムと、ライラを威嚇するように、鼻の詰まったような声で咆哮を張り上げた。

 シャロンが身体をビクリとさせる。馬車の速度が一瞬緩み、御者の二人が馬に鞭を入れ再び加速させようとしている。

 ライラの長柄の武器の切っ先に炎が燃え上がった。ヴァルクライムの魔術だろう。

 彼女は炎を纏った得物を旗のように大きく振り回し、トロルの視線を釘付けにしようとしている。

 馬車はいよいよその隣を通り抜けて行く。こちらの乗り物をも越える青白い体躯と、木の幹のような両腕、そして殺戮に飢えた野獣のような眼光とが一気に鮮明になり、同時に遠ざかって行く。

「何じゃ! 化け物じゃ!」

 シャロンは二人の間を掻い潜って、後ろの椅子に飛び乗ると、窓に鼻を押し付けて様子をマジマジと眺めていた。

「おいおい、お嬢さん! だから危ないってのに!」

 サンダーがその肩に手を置き、窓から引き剥がそうとしたが、シャロンは爛々と輝く眼光を振り向かせていた。

「わらわは知っておる! あれはトロルじゃ!」

 レイチェルは慌てた。後ろから御者達の視線も感じるような気がし、更に今、真正面にはロブが馬を走らせてもいた。自分達は子守ぐらいできなくちゃいけない。

「知ってます。でも、お願いですからしっかりと座って下さい!」

 レイチェルが必死に訴えるが、シャロンは興奮気味に捲くし立てていた。

「あいつは凶暴なのじゃ! だが単純ゆえ、催眠の魔術には忠実なのじゃ! あの魔術師の男に伝令を出すべきではないのか!?」

「そのぐらい、おっちゃんなら分かってるって! だから座れってば!」

 真剣になり過ぎたあまり、サンダーが平手を振り上げていた。

 レイチェルは吃驚し、気付くや否やその手を掴み取った。

 シャロンは目を大きく見開き、こちらを凝視している。

「サンダー君、落ち着いて!」

 少年の必死さを痛感しながら、レイチェルの口からはそう言葉が飛び出てきていた。

 落ち着いてだなんて、私は何て悠長なことを言ってるの。ああするしか、この女の子を黙らせる方法は無かったはずよ。それを自分でなく、サンダー君がやっただけだ。むしろ年上の私がやるべきだった。

「あ、ああ」

 サンダーは我に返ったように言うと、その手をゆっくりと引っ込めた。

「何をする気だったのじゃ?」

 シャロンは座りなおすと、表情を一変させ厳しい眼差しと共に詰問してきた。

「危なかったからよ……」

 サンダーは呟くように答えた。

「お主! わらわに平手打ちをしようとしたじゃろ!? 何じゃ、どうしてやめたんじゃ!?」

 シャロンは挑むようにサンダーに迫ろうとした。

「わらわが高貴な身の上じゃから殴れなかったのか!? お主は臆病者よ! 先程の語りも大方、作り話に違いないのじゃ!」

「アンタは依頼人だからな。危険な目に合わせるわけにはいかないんだよ」

 やや間を開けて、サンダーは俯きながらそう答えた。

「わらわを殴らなかったじゃろう!」

 するとサンダーは顔を上げて相手を見詰めた。

「それはそうだ。アンタは依頼人で、俺は冒険者なんだ。俺がアンタを殴ってみろ、ギルドにだって仲間達にだって迷惑が掛かっちまう」

「わらわを殴らなかった!」

「依頼人を殴るなんてできるわけがないぜ。だけどな、シャロンお嬢さんよ、アンタは不安定な体勢でいたんだ。つまりは、転げ落ちて椅子の角に頭をぶつけて死ぬか、床に倒れて弾みで呼吸が止まっちまうとか、それともベラベラ喋り捲ってる途中で舌を噛み切って死んじまうかしちまうところだったんだぜ」

 サンダーは幾分語気を荒げて応じた。

「そんな間抜けをわらわがすると思うてか! お主と一緒にするでないわ!」

 そして御嬢様はソッポを向いた。

 サンダーも決まりが悪そうに視線を彷徨わせ、結局は窓へ目を向けていた。

 しかし、シャロンが驚愕に満ちた声を再び上げ、静寂は一瞬で過ぎ去ってしまった。

「おい、お主ら、あれを見よ!」

 彼女の視線の先、つまりは馬車の前方を振り返った。

 少し先の街道脇の左右の茂みに、青銅色の巨大な身体が揺れ動いているのが見えた。だが、目を凝らすと、その数はどうやら二匹だけは無いことが分かった。周辺一帯で緑が激しく波打っており、それは着実に街道へと大きく靡いてきていた。

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