第70話 乙女、美少年と出会う。


 わたしは、ファザコンだ。

 パパは、菓子職人として、理想の人。

 家族内派閥でも、一番の味方だしね。


 だけど、わたしは、面食いでもある。

 がんもどきフェイスというのは、好みのルックス順位からすると最底辺。


 だから、理想の男性像としては、パパを美形にしたタイプかな。

 黙々と努力して、一つの道をきわめる人は、カッコいいもの。

 美形なら、尚更よ。


 小五で初恋を知ったのも、あいつが一人、サッカーの練習をしてたときでさ。

 レギュラー落ちして、泣きながらボールを蹴る姿に、胸キュンしたのよ。


 あいつは、自分勝手で口が悪い。

 しかも、浮気性の女好きだったけど。

 目標に向かって頑張るハンサムというポイントは、一応クリアしてたわけ。


 やっぱり、理想というのは、机上きじょうの空論で、現実とはギャップがあるのね。

 あいつに手ひどく振られたおかげで、わたしの中で、理想は修正されたわ。


 いくら美形でも、たとえ努力家でも、思いやりがない浮気男は、バツだって。

 もっとも、恋に落ちるときは、勝手に落ちてしまう。

 それも、ほんの一瞬で。




「驚かせちゃったかな。ごめんね」

 

 お互いに驚いて見つめ合った後、黒髪の少年は、ふわりと笑った。この世界で一番綺麗だと思える少年は、笑顔まで綺麗だった。

 竜眼なのに、これが何故か、くりっと可愛く見えるし、表情も豊かで柔らかくて。今まで、見たことのない顔立ちだった。

 異種族の血が入っているのかもしれない。ここには、エルフみたいな美形の種族が実在したりして。いるとしたら、ぜひとも、お会いしてみたいね。


 ともかく、この少年は、わたしの美意識に、ドストライクと言っていい。

 同じ美形でも、弟のルイみたいな能天気な天使タイプは、ノーサンキューなのよ。快活で、さわやかなスポーツマンが、わたしの好み。

 とは言え、わたしは、ショタコンではないから、いくら可愛くても、小学生くらいの少年を意識するなんてことはなかった。日本にいたときならね。この子も混血かな、くらいで流していたはず。


 でも、ここは、異世界。

 周りは、ギョロ目で無表情な竜眼族ばかり。牙をむき出しにされるのが、笑顔だとわかっても、それに、馴染めているわけじゃないのよ。

 そんな中で、突然、親しみやすい笑顔を向けられたら、どうなると思う? 

 胸が痛くなっちゃうんだって。懐かしさもあるし、嬉しさもある。

 でも、哀しみの方が強い。失った家族や友達、二度と見ることのできない笑顔を思い出してしまうから。


「そんなところで、何してるの?」


 わたしは、感情の高ぶりを押えつつ、何とか、声を絞り出した。

 ベールを被っていても、目と鼻の先にいるのだ。感情波を浴びせたりしたら、即死させかねない。

 そう思って緊張しきっていたんだけど、少年は、意外と平気そうな様子だった。


「本を読んでた。部屋の中より、ここの方が涼しいからね」

 

 確かに、部屋の中はムシ暑い。少年は、キャンプに行くような恰好をしていた。

 ポケットがあちこちにある長袖の上着に、薄地のデニムっぽい長ズボン。これは、学寮着と言って、貴族や士族の少年用の体操着みたいなもの。

 動きやすいし、汗も吸収するけど、羽衣製ではないから、暑さや寒さを防ぐことはできないらしい。


「ふうん。何の本?」


 少年は、膝の上に開いている本を叩いて見せた。

 草花の絵や地図が描いてあるカラー本だ。字の方は、難しすぎて読めそうもないけど、カラー印刷が珍しくて、高価であることは知ってる。

 着てる物や持ち物からして、この少年の家は、お金持ちなんだと思う。わたしの竜気に怖気づかないほど竜気量も多そうだし、貴族なのかな。

 貴族だと、お供がついていないのは変だから、士族の可能性もあるけど。

 

「植物図鑑。一階の売店で、売っていたんだ。竜の図鑑とかいろいろあったよ」


 どうやら、手にしている図鑑は、お土産として買ったばかりだったらしい。少年は、わたしのことも竜育園の見学者と勘違いしたようで、親切に教えてくれた。

 そう言えば、わたしも、貴族のお坊ちゃまルックをしているんだっけ。

 きっと、少年は、年下の男の子を相手にしているつもりで、気安く話しかけてくれてるのね。

 

「売店は、今、お休みみたい」


 騙していることに、ちょっと後ろめたい気分がしつつも、わたしの緊張は解けていた。

 少年のやさしく穏やかな口調と竜気は心地良くて、いつまでも話していたい感じすらしてる。異世界に来てから、こんなにフランクに相手してくれる人なんて、初めてじゃないかな。

 ソラは竜だし、【交感】は、感情込みの接触だから、ストレートすぎて家族に近いの。友達と会話を楽しむような距離感ではないのよね。


「あぁ、きっと午後の休憩時間だね。君も、植物とかに興味があるの?」


 『君』……いい響きだなぁ。声まで、綺麗なんだわ、これが。

 変声期前のソプラノなのに、カン高くなくて、とても耳障りがいいの。

 この少年、何歳なんだろう。ユーレカと同じ10歳くらいに見えるけど、竜眼族の場合、身分が高いほど、成長速度が低いから、外見だけでは推測しにくくて困るよ。

 でも、ショコラより年上なのは、間違いない。言動が餓鬼っぽくないし、すごく大人びているもんね。


「うん。ちょっと……」


 興味があるのは、植物ではなくて、少年自身なので、少し口ごもってしまった。

 できれば、名前と年齢と連絡先が知りたい、なんて言えないしなぁ。

 17歳の乙女としては、小学生男児をナンパするのは、抵抗がありまくる。

 現実問題としても、王族の7歳女児が、男性に関心を持ったりしたら、おつきあい一直線ムードになっちゃうのだ。今、わたしが欲しいのは、求婚者ではなくて、気のおけない話し相手なのに。


「それじゃ、見せてあげるよ」


 わたしの躊躇ためらいを遠慮と解釈したのか、少年は、図鑑を持ったまま、すっくと立ち上がった。

 幅が50センチくらいしかないひさしの上で。どこにもつかまらずに。

 それを見ていたわたしの方が怖くなって、とっさに少年の方へ手を伸ばし、膝立ちしていた椅子の上で、バランスを崩してしまった。


「うわ、危ない!」


 ナイス・キャッチ。

 少年は、窓から転落しそうになったドジっ子を抱き留めてくれた。これは、わたしの顔が、美少年の胸にあたり、両手でしがみつく構図である。

 うわぁ、まるで、少女漫画のような嬉し恥ずかしの場面ではないの。茉莉花時代には、ついぞ味わうことのなかった展開に、わたしの胸はドキドキ高鳴った。


「ご、ごめんなさい」


 少年に押し返しもらい、椅子の上で、膝立ちに戻ったわたしは、取り敢えず、謝った。右手は、窓の桟に置き、左手は、少年の上着を掴んだままで。


「駄目だよ、そんなに窓から乗り出しちゃ。その椅子からも、降りた方がいいよ。落ちたら、怪我するから」


 焦り半分、羞恥しゅうち半分のワクワク竜気は、溜息まじりの叱責に、風船のようにパチンと弾けてしぼんだ。

 そうかぁ。そうだよね。この少年から見れば、わたしは、行きずりの幼児に過ぎないんだもの。目の前で、怪我されたら困る程度の感覚かもね。


「そんなところに立ってる方が、危ないと思うけど」


 勝手に盛り上がっていたのが、アホらしくなったわたしは、悔しまぎれにつっけんどんに言い返した。

 あんたが、そんなところにいるから、わたしは、心配しちゃったんだぞ。さもなきゃ、窓から乗り出したりしなかったって。


「僕は、慣れてるから、大丈夫」


 確かに、少年は、庇の上で、少しも揺らがずに立っている。成長期にしては、細マッチョ的な筋肉もついているようだし、身体を鍛えている感じはするな。

 やっぱり、士族なのかも。竜気量の少ない士族は、幼いうちから、武術を習うもので、王族や貴族より、大柄でがっしりした体格をしてるって言うもんね。


そこから落ちたら、怪我しちゃうよ」


 たとえ、いくら鍛えていても、二階から落ちて、無事ですむとは思えない。

 大人なら放っておくけど、子供が危険な真似をしているのを見過ごすわけにはいかないでしょ。

 わたしが、上着を引っ張ると、少年は、どきっとするほど優しく笑った。

 

「わかった。僕も、部屋そっちへ行くから、君も椅子そこから降りて」

「うん」


 わたしが、ドキドキを復活させながら、椅子からのろのろ降りている間に、少年は、別の窓から、ナップザックを部屋に投げ入れ、ひらりと窓の桟を乗り越えて、すとんと床に着地した。体操選手やダンサーみたいな身のこなしで。

 うわー、メチャ、決まってるよぉ。なんて、カッコいいの。

 スマートすぎて、しびれちゃう。


「すごい! カッコいい!」

「そう? ありがとう」


 『称賛』竜気を振りまきつつ、わたしが叫ぶと、少年は、照れたように笑った。

 やだー、もう。この笑顔も、スーパー可愛いじゃないの。

 カッコ良いのに、母性本能をくすぐる可愛さも合わせ持つなんて憎すぎる。

 この子は、わたしのアイドルに決定よ。

 追っかけをするファン心理が、今にして初めて分かった気がするわ!

 

「武術でも習ってるの?」

「いや、護身術程度だよ。逃げ足は、かなり鍛えているけどね」


 興奮気味のわたしの問いに、少年は苦笑した。

 謙遜してるいうよりは、どこか皮肉っぽく。いや、これは、自虐じぎゃくに近いかもしれない。

 そう思った瞬間、はっとした。逃げ足を鍛えるということは、逃げなくてはならない状況だということじゃない?


「もしかして、誰かに追われているの?」


 わたしが、ずばりと聞くと、少年は、驚きに目をみはって、わたしを見つめた後、まぶたを伏せた。

 答えるつもりはないようで、かなり強引に話題を変えて来る。

 でも、否定はしなかった。つまり、肯定したのも同じ。

 追われてるって、認めたようなものだよね。


「君、何歳いくつ?」

「7歳」


 中身は、17歳だけど。

 少年は、驚いたように視線を上げ、今度は、わたしの身体をまじまじと見回した。

 顔はベールで隠れているけど、手足が細くてチビなのは歴然としてるもんね。

 わたしって、竜眼族の7歳としても、未発達なんだから。


「え? 弟と同じ歳には見えないな。ちゃんと御飯食べてる?」

「いっぱい食べさせられてる。あなたは、何歳?」


 弟がいるのか。それで、幼児と話し慣れているんだね。

 一人っ子や末っ子には、年下の遊び相手をするのをわずらわしがる子が多い。中には、お姉さんぶりたい女の子もいるけど、男の子の場合、餓鬼大将的に命じたがるのが関の山なの。こんな風に、優しく面倒を見てくれるような小学生男児なんか、早々いなかったよ。


「11歳だよ。そこにあるジュースは、君の?」

「うん。甘さ控えめで良かったら、飲む?」


 少年に聞かれて、わたしは、テーブルの上のバスケットやジュースの存在を思い出した。わたしのために作られたジュースやお菓子は、竜眼族の一般的な好みからすると、甘みが足りないらしいので、積極的にお勧めできるものじゃないわけ。

 それでも、水分補給する分には、問題ないけどさ。


「喉が渇いていたんだ。良かったら、僕の持ってるお菓子と交換してくれる?」

「うん。どんなお菓子?」


 お菓子と交換! 

 なんて素晴らしいの。食べたことのないお菓子は大歓迎だよ。

 わたしが、期待に胸を弾ませつつ承諾すると、少年は、床からナップザックを取り上げ、テーブルの側の長椅子に座って、中身をかき回し始めた。わたしも、反対側の椅子によじ登って、そわそわしながら、少年の手元を見つめる。


「ありがとう。それじゃ、君には、特別に、これを食べさせてあげるよ」


 やがて、差し出されたのは、瓶に入った謎の物体X。

 果物のキウイを赤黒くしたみたい。ただし、産毛うぶげがもっと長く、皮の表面にからんで、粘液にまみれた大きなまゆに見える。

 はっきり言って、気持ち悪い。エイリアンでも飛び出してきそうだよ。

 

「これ、何かの卵……?」

「いや、これでも、果物の一種だよ。そのまま食べると、苦みが強くて酸っぱいけど、特製の竜糖蜜りゅうとうみつにつけておくと、すごく美味しくなるんだ」


 わたしが、不信の目で凝視してるのに、少年は、得意そうに瓶の蓋を開けた。

 プーンと甘い香りが漂ってきて驚いたわたしは、四回瞬いた。視覚は、あんなもの食べられっこないと主張してるけど、臭覚は、美味しそうだと訴えてくるぞ。


「りゅうとうみつ、って、何?」

「竜糖に蜂蜜をブレンドした甘味料のこと。ほら、味見してごらん」


 少年は、取り皿にレモン大の果物を一つ入れると、スプーンで半分に割った。

 そうして、メロンを食べるのと同じ要領で、中の薄黄緑の果肉をすくい、片手でベールを上げて、口元に持ってきた。

 恐る恐る口を開けて、一口分入れてもらうと、味もメロンに近かった。

 それも、甘くて柔らかい最高級のやつ。この世界に来てから、これ以上に美味しいものは食べたことはないと断言できる。凄い絶品だよ!


「美味しい~っ! 最高だよぉ」


 わたしは、感動に身震いしながら叫んだ。『感激』竜気も流れたのは間違いない。ベールを外した至近距離だったのに、少年は、臆した様子もなく、嬉しそうに笑って、取り皿とスプーンを渡してくれた。

 それを不思議と思う余裕もなく、わたしは、夢中になって果物を食べていた。無意識に、ベール付きの帽子を脱ぎ捨てて。


「お願い、このレシピ教えてっ!」

「うーん、それは、ちょっとできないかな」


 一個食べ終わると、わたしは、取り皿をテーブルの上に置いて、おねだりポーズを取った。

 シロップ状の竜糖蜜を舐めたいくらいだったけど、さすがに、そこまで品のない真似はできない。

 ジュースを飲んでいた少年が、困ったように首を振るのを見て、わたしは、がっくりと肩を落とした。

 かわゆく決めたつもりなのに、あっさり断られてしまったよぉ。

 うわぁん。泣きたい。残念無念……。

 

「うぅっ……秘伝のレシピなの……?」

「そうじゃなくて、果肉の熟し具合とか、つかり加減を見ながら、数日おきに、竜糖と蜂蜜を加えていくから、これといった決まった比率はないんだよ」


 そこまでやるのは職人芸だ。お金をいくら積んでも、教えてもらえるはずがない。

 でも、教えたくないって話ではないと思う。

 ならば、時間をかけて、自分の眼と舌で覚えればいいだけのことじゃない。

 わたしは、決意も新たに少年を見上げた。


「それじゃ、あなたの弟子になるから、教えて」

「えぇっ?! 弟子なんて、無理だよ。僕だって、修行中の身なんだから」


 修行中という言葉に、わたしは、今更ながらに、ぎょっとした。

 そうよ。考えてみたら、11歳で、これだけ腕があるんだもの、専門的に習っているに決まってる。

 ひょっとすると、この少年も、甘味官を目指しているのかも。だとすれば、ライバル関係ってことになるし、レシピを教えてもらえるわけがないよね。

 わたしは、びくびくしながら、確かめてみた。


「わたし、甘味官志望なんだけど、もしかして、あなたも、そうなの?」

「いや。僕は、師匠と同じ甘味研究家になって、いずれ、甘味学校を作るのが夢なんだ。まぁ、理解のあるパトロンを探さないと、夢のまた夢だと言われてるけどね」


 甘味学校。なんて甘美な響き。

 そんな素晴らしい専門学校が、この国にあるとは知らなんだ。

 そこの生徒になれれば、新しいレシピも覚えられるし、好きなだけお菓子が作れるはず。天国だわ。苦労して甘味官になる必要もないじゃないさ。


「わたしが、パトロンになる! 全力で応援するから、早く学校を作って、わたしも入学させて欲しい!!」


 わたしは、少年の目をひたっと見すえて、真剣に懇願こんがんした。

 そりゃもう、全身全霊で祈るほどの想いをめたのよ。焦げつかんばかりの『熱意』が、全身を駆け巡り、増幅していく。

 あ、これ、まずいかもと思ったときは、時すでに遅く、押さえつけられないほどまで高まった竜気がほとばしってしまった。遮蔽しゃへいすべきベールもなく、視線を合わせていた少年に向かって、強烈な勢いで。


「――しまっ……た!」


 目が焦点を失ったように光を失った少年は、胸を押えて、テーブルに突っ伏すように倒れて行く。

 どうしよう。どうしたらいいの? 

 うっかりして、竜気を当てちゃったよ。自分が危険人物だってことも忘れて。

 食べるのに邪魔だからって、ベールまで取っちゃったせいで。

 なんて馬鹿なの、わたし。あれだけ注意されてたのに!


「ご、ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい。しっかりして! お願いだから、死なないでよぉ……」


 パニクったわたしは、ぴくりとも動かなくなった少年の背中をさすりながら、さっきより必死になって懇願した。

 このまま、この子が死んだりしたら、わたしだって、生きてられない。

 わたしに笑いかけてくれた子。優しく話しかけてくれた子。最高の果物を食べさせてくれた子。キラキラの夢を語ってくれた子が、わたしのせいで、死んでしまったら。

 わたしが、竜気を制御しきれずに垂れ流したせいで、殺してしまったのだとしたら。自分で自分を許せないもの。

 わたしみたいな核兵器級のお馬鹿なんか、いない方が、世のため、人のためなんじゃないの?


<マリカ! いったい、どうしたの?!>


 『絶望』一色に染まり始めた竜気を切り裂くように、ソラの思念が飛び込んで来た。いつもだったら、ほっとするところだけど、今は、逆に血がのぼっていくのを感じる。

 いや、これは、竜気か。制御しなくちゃと思うのに、感情が高まりすぎて、押えがきかない感じ。

 その溢れる竜気をソラに向かって、思念として放出する。

 

<どうしよう、ソラ! 竜気を当てたせいで、少年が倒れちゃたのよ!!>


 飽和状態だった竜気が、ソラの方へドドドッと流出していくと、自分の中の回路が安定したのか、制御ができるようになった。

 おかげで、気分的にも、大混乱が収まりつつある。ずっしりと重い『後悔』だけは、消しようもなく残ってるけど。


<落ちついて。マリカが、そんなに興奮してたら、余計に被害が広がるわ。とにかく、深呼吸するのよ。ほら、息を吸ってー、ゆっくり、吐いてー>


 頼りになるソラの指示で、深呼吸をしながら、帽子を被り直し、ベールの位置を確かめているうちに、階段を走り上がってくる足音が響き、バーンと扉が開いた。


「ショコラ様! 何かございましたか?!」


 部屋に踏み込んできたオランダスが、血相を変えて、テーブルに倒れ込んでいる少年を睨みつけた。さっきまではいなかったのだから、不審人物と見なしても当然かもしれないけど、誤解されては困る。わたしは、慌てて説明した。


「違うのよ、オランダス。この少年は、危険じゃないの。窓の外で、本を読んでいただけなんだから。仲良く話しているうちに、わたしが竜気を強く当てたせいで、倒れちゃったのだけど……大丈夫かしら? ねぇ、まだ息してるわよね?」


 攻撃波を当てたわけではないけど、竜気量に差があると、感情波だけでも身体に害があると言う。

 一番多いのが、心臓麻痺。次が、精神錯乱。

 今のところ、わたしの竜気を一気に流し込んでも、楽勝で受け止められるとわかっているのは、ソラと外帝陛下くらいだ。

 この少年は、会話している最中、意外と平気そうだったもんだから、うっかりしてたんだけど、わたしより竜気量が多いはずがないし、増幅させてしまった竜気をぶつけるなんて、言語道断。感電させちゃうようなものだったのよ。


「失礼します、ショコラ様。少し離れて、視線も外していただけますか」


 オランダスに言われて、わたしは、長椅子から降りて、窓際に移動した。

 視線を窓の外に向けながら、耳に全神経を集中させる。

 オランダスが少年の身体を起こすような気配がした。すぐに脈を確認したらしく、『安堵あんど』竜気が流れてくる。


「この少年は、気絶しているだけです。隣りの簡易寝台室に連れて参ります。衛生兵も戻っておりますので、ご心配には及びません。どうぞ、ご安心ください」


 少年を抱き上げたオランダスの後姿をちらっと視界の端に入れた後、わたしは、瞼を閉じた。

 できれば、意識を回復するまで、側にいたいし、直接謝りたい。

 でも、それは、わたしの我儘で、端迷惑はためいわくにしかならない。

 まだ動揺してる今、いつ竜気の制御力を失うかしれないから、被害者に視線を向けることすら許されないのよ。

 それでも、生きていてくれた。そのことだけでも、ありがたいと思わないとね。


「――良かった」

<ソラ、生きてたわ。気絶してるだけだって……>


 わたしは、大きく息を吐きながら、ソラに報告をした。配偶竜は、配偶者の感情波を直に感じ取っていると言うから、無事なのは伝わっているはずだけど。


<そう。良かったわね。マリカは、大丈夫?>

<――うん。まぁ、なんとか>

<被害者は、誰?>

<11歳の少年。初対面の>

<名前は?>

<聞けなかったの。わたし、今日、変装してるし>


 求婚の作法が絡んで来るので、男女間で自己紹介することなんて、ほとんどないの。初対面で挨拶する場合は、誰かに紹介してもらう必要があるしね。

 でも、今回の出会いは突発的なイベントで、側には誰もいなかった。

 そもそも、わたしは、貴族男児ルックで、少年も男同志だと思って会話していたわけでしょ。

 わたしが名乗れる状況じゃなかったし、相手の名前だけ聞くなんてこともできなかったのよ。


<そっか。それで、その子、マリカが怒るようなことを言ったの?>

<逆よ>

<逆? 喜んだってこと?>

<そう、瓶詰の果物をくれたの。それが、あまりにも美味しくて、レシピが知りたくて、とにかく、興奮しすぎたもんだから、竜気が増幅しちゃったのよ>


 あの高級メロン味を思い出しただけで、生唾が込み上げてきた。

 思わず、テーブルの上に置きざりになっている瓶詰に目がいく。あと、2、3個は入っているみたい。あれ、ぜひぜひ譲って欲しいな。

 けど、いくらなんでも、加害者の分際で、そんなこと言い出せないよねぇ。

 わたしが葛藤してると、ひんやり冷たい竜気が流れこんできて、背中がゾクゾクしてくる。

 え? ソラが、珍しく怒ってるぞ。なんでだろ。

 

<――あぁ……まぁ、怒りより、喜びの方が、制御しにくいものね。それより、もっと大きな問題があるんだけど、わかってる?>

<えっと……問題って……?>

<マリカってば、名前も知らない初対面の人にもらった果物を食べたんでしょ? 側仕えに、ちゃんと毒見をしてもらったの?!>

<あっ! えー、あの、そのう……>


 ソラに怒鳴られて、わたしは、返事に詰まった。

 毒見なんて、意識の端にも上りませんでした、はい。

 スプーンを差し出されるままに、味見をしてしまいました、のほほんと。

 そのまま丸々一個食べつくしたのに、物足りないほどです、すみません。

 

<やっぱり。今日の外出には、マルガネッタやオランダスがついていたはずよね。普通なら、そんなもの食べさせるはずがないのに。二人とも、何をしてたのよ?>

<それが、マルガネッタの具合が悪くなって、護衛たちも、バタバタしていて……>

<食べ残したものはある?>

<もらった一個は食べちゃったけど、瓶の中には、まだ残っているかな>

<瓶ごと、オランダスに渡して、毒の有無を確認させて>


 大事になりそうな雲行きに、わたしは、必死で抗弁を試みた。

 ジュースとの交換とはいえ、「特別に」とくれた物なのに、せっかくの好意が汚されそうな気がして嫌だし、少年が疑われるのは、もっと嫌だったのよ。

 わたしは、平和ボケした日本人かもしれないけど、『悪意』や『殺意』は、竜気で察知できるんだもん。あの子が毒殺を企てていたとしたら、絶対にわかったはず。

 うん。間違いようがないって。

 

<でも、ソラ。あの子は、すごく優しくて、暗殺者とか、そういうタイプじゃないしさ。ここで会ったのも、ホント偶然で……>

<マリカ! 子供が無自覚のまま、利用されることだってあるのよ。当人が知らないうちに、毒が混入されていたら、竜気で察知できるわけがないでしょ。遅効性の毒かもしれないんだし、すぐに調べさせなきゃ駄目! わかった?>

<はいいっ。了解です!>



 ものすごい剣幕で、ソラに怒鳴りつけられたわたくしは、戻って来たオランダスに、瓶詰の果物を食べたことを自己申告させられる羽目になり、今度は、逆上しかけたオランダスから、熱々の『叱責』竜気を浴びることとなりました。


 もちろん、果物に毒の混入などは一切なかったのですが、少年に対する疑惑がすぐに晴れたのは、少年の師匠が、菓子職人として面接予定のサツキであるとわかったためでございました。


 少年の名前は、サトシ=アケノシマ。この日、12月11日に、わたくしたち二人は、運命的に出会うこととなったのでございます。

 

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