439話 これで対等です

 苦痛から生まれる渋面、疲労から生まれる震え、先の見えない絶望。

 それら全てを、セドナは敵に見せまいと呑み込んだ。

 甘えるな、甘えを見せるな。

 如何にも平気です、これからですという顔をしろ。

 相手を騙せ、己も騙せ。

 このまま騙し抜けば、偽りは真実の結果とすり替わる。


 恐怖に引き攣ったレンの拳が振り回されるのを、紙一重で躱す。


「ガァァッ!!」

「――っ」


 ボッ、と、大気を拳で刳り抜いたような衝撃が顔の真横を貫く。

 当たれば死んでいたかもしれないと思う程の破れかぶれの破壊力を、そよ風でもなぜたように平然と受け入れる。そうであるように自分を騙す。


 また、手がレンの体に触れた。

 フローズンオーラを流し込むと、まるでしもやけのように相手の皮膚に手形がつく。氣と魔力の関係性などセドナには分からないし、見た目だけの虚仮威しかもしれないが、それでいい。思い込みの力は時として人を害する。

 レンは悲鳴をあげてこれ以上触れられまいと身をよじるが、その隙にセドナは渾身の力を振り絞り、軋む肉体を躍動させてレンの鳩尾に蹴りを叩き込んだ。


「ぉがッ……!?」


 レンは悶絶して涎を口から漏らした。

 セドナからすればその一発で更に肉体の限界が近づいた一撃だったが、果たしてレンにはどう思えただろう。突然の強打が生み出したのはダメージだけではない筈だ。

 フローズン・オーラを恐れる余りに守りを疎かにした鳩尾への一撃にも、またフローズン・オーラを込めている。もうレンの氣は最初の頃とは比べものにならないほど乱れたものとなっていた。


(まだだ、それだけじゃ……勝てない、勝ってない)


 勝たなければ乗り越えられない。

 乗り越えられなければ、置いて行かれる。

 息を吐き、吸い込む。

 何気なく行うその動作が、今は生を実感させる。


 背中を押す声はない。

 それでいいのだ。

 背を押す暖かな絆に甘えて、寄りかかってしまっていた。


「わたし、やるよ」


 ここにはいない誰かか、それとも自分自身にか、宣言するように呟いてセドナは攻めに転じた。




 ◇ ◆




 変だ。

 おかしい。

 氣を整える呼吸をしているのに、体が寒くなるばかりだ。


 あの女だ。

 あの女に何かされたことだけは分かる。

 なのに、何をされているのか分からない。


 熱は命だ。

 潰えた者からは熱が消える。

 あの女は、命を奪っているかのようだ。


 自らの拍子を何度も外された。

 最初はあんなにも怯え、弱く、殴りやすかったのに。


 手負いの獣を相手に慢心するのは悪い癖だ、とバンにはよく言われた。

 よく理解出来ない理論だった。

 自分は、他者より圧倒的に優れた存在だ。

 存在としての位階が違うと言ってもいい。

 只人がいくら巨木を殴っても巨木の命を脅かすことはないように、存在の差は絶対的な差だ。その巨木すら素手で薙ぎ倒すことの出来る自分に、あの細くか弱い命が敵う道理などない筈だ。


 それとも。

 只人と自分の位階が違うように、自分とあの女で位階が違うとでも言うのか。

 突然、鳩尾に痛打が叩き込まれ、腹の奥から全身の血液が凍り付くような悪寒と激痛、不快感が襲った。バンに殴られたときでもこんな感覚は一度たりとも味わったことがない。嘘だ、馬鹿な、この女は避けて逃げることが精一杯だったのではないのか。


 女の顔を見る。

 女は、今までに出会い、拳を交えたどんな人間よりも深く、シンプルで、混じりけのない――相手の事情など考慮せず、ただ敵を討ち滅ぼす者の顔をしていた。


「わたし、やるよ」


 抑揚のない声に、体が竦む。

 この女は練習相手でも味方でもなんでもない。


 バン、師よ、教えて欲しい。

 自分より強い化物とはどうやって戦えばいいのだ。

 自分は、どうすればよかったのだ。




 ◆ ◇




 どこか、遙か遠くから物事を見ているような感覚。


 爽快感とはほど遠いのに、どこか心地よささえ感じる充足。


 セドナは、殆ど意識が飛びかけたまま戦い続けた。


 戦いの最中、怪我をした気がする。

 出鱈目に振り回された腕が顔に当たって額から血が出たり、避け損なったせいで腕が折れたりもした気がするが、脳内麻薬が些事だと捨て置いてくれた。


 まだ、戦わないと。

 相手はヴァルナたちとさえ互角な四聖拳だ。

 逃げ場がないなら戦うんだ。

 体が動く限り戦うんだ。

 戦え。

 戦え。


 セドナは渾身の力を振り絞って、拳を放った。


「あ……」


 拳を振った先には、誰もいなかった。

 その空振りが体幹を崩し、体幹を支える肉体も限界を迎え、セドナは無様に床に転がった。なんとか体を起こすが、足に力が入らず、立ち上がれない。


 元より限界まで酷使した肉体だ。

 一度でも倒れればそうなることは予想がついていた。

 でも、ここまで頑張って今更諦めて寝転がるのも嫌で、セドナは己の術中に嵌まりながらも渾身の一撃を避けたレンの姿を視線で探した。


 血もそうだが、顔が腫れているのか視界が狭く、少し濁って見えた。

 やがてそれらしきものにピントが合い、セドナは思考が停止した。


 そこには、全身を震わせながら床に転がるレンの姿があった。


 遠くから鉄の扉がこじ開けられる音。

 続いて、自分に駆け寄る二つの足音がした。


「セドナ様ッ!! なんという、これは……!!」

「ネフェルタン、セドナ様の手当を! 私はレン・ガオランを拘束します!!」


 ロマニーの声だ。無事だったどころか、どうにかして脱出までしていたらしい。

 もう一人のネフェルタンは、それほど多く面識がない。震える喉を振り絞り、自分に駆け寄ってきたであろうネフェルタンに尋ねる。


「レン……なんで倒れてるの?」

「それは……セドナ様が倒したのでしょう。他の者たちは誰も意識を取り戻していません。倒せたのはセドナ様しかいないです!」

「倒した……」


 ロマニーがレンを素早く拘束し、驚いている。


「これは……体温が低下している。低体温症? 何故こんな場所で……」


 何を喋っているのかは聞こえていたが、それ以上は頭に入ってこなかった。

 今、セドナの心の中には一瞬の空白を埋め尽くす、得体の知れない膨大な感情が津波のように押し寄せている。それは震えと涙という形で肉体に反映され、感情の源となった言葉をセドナは何度も繰り返す。


「勝った……勝った……わたし、勝った……勝ったよ……」


 セドナは、過去のセドナを越えた。

 過去のセドナが一度も為し得ず、諦めかけていた壁を乗り越えた。

 誰の力も借りず、己の独力で、セドナは限界を乗り越えたのだ。

 押し寄せた感情が、喉元で爆発した。


「勝ったぁぁぁぁぁーーーーーーーーッ!! うぇ、うわぁぁああああああーーーーーーッ!! ああああぁぁぁぁーーーーーーーーッ!!」


 唯でさえ滲んでいた視界が一気に濁り、出血を洗い流すほどの涙が吹き出る。

 言葉にならない衝動を、セドナは天井に向けて吐き出し続けた。

 嬉しいのか、それとも堪えた恐怖が吹き出たのか、それさえも分からない。

 セドナはネフェルタンの応急処置を受けながらも、人生で一度も上げたことのない獣のような泣き声で叫び続けた。


 これは、セドナの勝利だ。

 セドナだけが噛み締めることを許された、セドナだけの勝利だ。




 ――まもなくして、ゴウライェンブ王が「侵入者の引き受けと要人の保護」という名目で役士をドンロウ道場に派遣し、倒された侵入者も役人も、王国の面々も一人残らずドンロウ道場から脱出した。

 ロマニーが笑顔で別棟で確保した証拠の一部を役士に手渡したとき、役士は顔が引き攣っていたという。国内の不祥事を完全に王国に知られてしまったからだ。


(それにしても、王国メイド長としてあるまじき失態でしたね……)


 ロマニーは自省する。

 やはり一緒に行くべきではなかったのかも知れない。

 しかし、ロマニーが先行したことで証拠隠滅を免れた資料が多かったのもまた事実であり、組織の人間としてのセドナの判断は正しかったとも言えるため、なんとも言い難い。あとで自分の行動を省みて、問題点を洗い出さなければならない。


 ネフェルタンに助けられた部分もある。

 代わりにネフェルタンに自分の本当の性別を悟られてしまったかも知れない。

 そのネフェルタンが何やら悩める乙女のような顔で視線をちらちら送ってくるのが気になるが、後で対処するしかない。場合によっては彼女にメイド長の座を譲り渡すことになるだろうが、それだけの失態だったと受け入れるべきだ。


 セドナが五行試合に参加していた筈のレン・ガオランと遭遇し、壮絶な死闘の末に勝利したことは、ロマニーを以てして予想の範囲を大きく逸脱した出来事であった。あのとき、レン・ガオランは重篤ではないものの全身の体温が低下していたので、ロマニーは恐らくセドナが魔法を応用した何かで倒したのだろうと推測している。


 そのセドナは、一通り泣き終えたあと、泣き疲れた子供と同じようにぱたんと意識を失って眠っている。命に別状はないが、もしもスクーディア家に知られたら怒り狂ってもおかしくないほどの重傷だ。


(五行試合、結果はどうなったのでしょうか)


 ふと、ロマニーは五行試合が行われている方角を見やる。

 そして、絶句する。

 丁度試合が行われている武闘会場、『武演館』の辺りから、天を突くほどの膨大な氣が渦巻き、空の雲を円形状に貫いていたからだ。

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