第75話 鬼さんこちらです
善行は周知され難く、悪行は周知され易い。
正しいことや善い行いというのは道徳的に行うのが当然であり、当然になると善行があることが当たり前となり、その重要性と価値が次第に日常に埋もれていく。本来は物事を善い方向へ導くための行為なのに、続けているとそれはいつしか日常という名の均一性を保つ効果しか発生させなくなる。
一方、悪行や結果的に事態を悪化させる行為は見咎められるのが当然であり、それを行った人間に対する印象は悪行が重なるたびに肥大化していく。これも日常の均一性を保つ行為と解することができるが、善行と違って悪行はいくら重ねても日常に埋もれることはない。悪事に対する苛立ちなどの負の感情は、発生するたびに重なり続ける。
人の逆恨みや印象、思い込みとは度し難いもので、幾重にも重ねた善行を一つの悪行が引っ繰り返すことはあるのに、その逆はほぼ起きない。そして悪を探す視線は、悪とは言い難い行為まで悪に見えるほどに目を曇らせてしまう。
ブッセが村長の家の中で感じたのは、まさにそんな事実の再確認だった。
白い化物が暴れる外の騒音に交じって途切れ途切れに聞こえるアキナと喋る鳥のやりとりのなかで、ブッセは壁に耳を押し付けて拾い上げた情報を目の前に愕然とした。あの白い化物が村にやってきて破壊行為を行ったのは、白い熊の毛皮が原因だとするならば、それを持ち込んだ人間は紛れもない自分だからだ。
『そういう事だったのか……くそ、俺としたことがツイてねぇ!』
アキナの苛立たし気な声が聞こえる。その言葉がブッセの胸を深く抉る。
ブッセがあの白い毛皮を欲しがったから――アキナに手間をかけさせて手に入れた挙句、村を壊す事態に発展した。ブッセみたいな知らない子供の我儘を聞いたばかりに、命が危険に晒された。きっとアキナの苛立ちは自分に向けられているんだ、とブッセはぐらつく視界のなかで思う。
――僕のせいだ。
騎士たちが今後の作戦を話し合うなか、それを耳にしながらも頭に入れられないブッセの顔は、極寒に晒されたように白くなっていく。数メートル後ろにいる村長と、避難してきた数人の村人の視線がどうしようもなく不安になっていく。皆、自分を責めている気がしてしょうがない。
せっかく珍しいものを持ってきたのに。
せっかく今まで村に受け入れられようとしてきたのに。
自分で行った行為が全てを台無しにしようとしている。今までにも何度か積み重ねた信頼が言いがかりのような言葉で壊れたことはあったけれど、今回のこれは致命的であることは間違いない。
無意識に、手がゴーグルを握った。顔も覚えていない父の唯一の形見。それが村を守るよう自分を鼓舞している気がした。
――僕が、なんとかしなきゃ。
ブッセは震える膝を叩いて立ち上がった。皆に嫌われる恐怖で今にも崩れ落ちそうな体を、それでも認めてもらいたいという頑固な精神で縛って、その手を毛皮に伸ばす。
「……ブッセ? 突然どうしたんじゃ?」
びくり、と手が震える。言葉を発したのはファーブル村長だ。村の中で唯一会いに来てくれた村長、迷惑をたくさんかけたのに許してくれるやさしい村長。村長は、真実を知ってもなお僕に優しくしてくれるだろうか。ブッセはその考えを振り払い、今度こそ毛皮を掴み上げた。
「ごめんなさい、村長。やっぱりこの毛皮は渡せないみたいです」
「何を言って……待て、ブッセ。何故裏口に向かっている? 下手に化物の目に触れてはならんと先ほど騎士さまたちが言っていただろう!」
「大丈夫です。大丈夫……僕が、なんとかしますから」
ゴーグルをかけ、振り向かずに前へ行く。
そんなブッセに別の村人たちの罵声が飛んできた。
「騎士様に迷惑かけるような真似するもんじゃない! お前のせいで死人が出たらどう責任を取る気だ!?」
「僕に考えがあります。だから僕を信じて――」
「まさか一人だけ逃げる気か!? 俺たちイスバーグ村の事は『やっぱり』どうでも良かったんだろ!?」
「何とか言いなさいよ、ブッセ!!」
「――、……」
そこには心配も理解も優しさもない。あるのは猜疑心と苛立ちと不安を捏ねたような、どろりとした感情の塊だった。ブッセには、振り返る勇気と余裕がなかった。
◇ ◆
「――村の為に僕がお前をどうにかしなきゃいけないんだぁぁぁぁーーーーーっ!!!」
その叫び声が挙がった瞬間、オークは手に持った巨大な丸太を頭上に掲げて軸となる手を後ろに引いた。そして全身を捻るように回し――。
「させるかってんだよッ!!」
「ブギャッ!!?」
瞬時にその行動の意味を察した俺は、電光石火の速度を乗せた跳び蹴りをオークの膝の裏に叩きこむ。その姿勢のまま丸太を投擲してブッセ君を叩き潰そうとしていたオークの目論見は足のバランスを崩されたことで外れ、投擲された丸太は森の方へと投げ飛ばされた。
早い話が膝カックン。魔物が相手といっても体の構造は人間と同じなので理論上は通じる攻撃だ。いくら毛深いといっても不意を突かれては対処できなかったらしい。投擲という独特の体勢故にバランスを立て直せなかったオークがゆっくりと地面に転倒する中、俺はそのままオークの脇を潜り抜けて一直線にブッセ君の下に走りこんだ。
理由はもちろん無謀な行動を見せたブッセを諫めるため――ではなく。
「オルァこんの悪ガキがぁぁぁーーーッ!! てめぇッ!! 家に入ってろって!! あんだけ言ったのに!! 自分から死にに出てくるってのはどーいう了見だゴルゥアアアアアアアアアッ!!!」
「ふみゃあああああ!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃぃっ!!」
「はいはい説教は後!! 今はそういうのやってる場合じゃないでしょうが!!」
尻尾を踏まれた猫のような悲鳴をあげてへたり込むブッセ君に拳を振り上げて鬼の形相を浮かべるアキナ班長の襟首をがっしり掴んで、俺はため息をついた。それでも普段なら理由も言わず馬鹿野郎の一言とともにぶん殴るアキナ班長にしては相手を思いやった反応と言えなくもない。優しさってなんだっけ。今度実家に戻ったら母さんにでも聞いてみよう。
しかし、白毛皮を携えて出てきたというのは俺も感心できるところではない。あの物言いからして、ブッセ君は事情を察したうえであんな真似をしたことになる。それは世間一般では自殺と呼ばれる行為だ。すっかりオークよりアキナ班長に怯えてしまったブッセくんに俺は声をかける。
「ブッセ君。君が何を思ってこんな無謀なことをしたのかは知らないけど、俺たちは民を守ってこその騎士なんだ。あんな囮になるような真似をせず、もっと俺たちを信じてほしかったな」
「そーだぞお前! 考えなしにああいう真似をする奴をバカって言うんだ! いいか、戦いってのは勝つ見込みがあるからするもので――」
「さ、作戦ありますっ!!」
それは、はっきりとした意志の感じられる言葉だった。
確かに彼の取った行動は無謀で考えなしに見えたけれど、彼はこの期に及んで言い訳をしたり下らない嘘をつくほど不誠実な人間だとは思えない。アキナ班長も暴れる動きをやめ、ブッセくんの言葉を待つ。
後方では転倒したオークの動きを少しでも封じようと騎士団の面々が隙をついて槍で攻撃したり網やロープで縛ろうと格闘している。決定打になるものはないが、その徹底した時間稼ぎが俺たちに考える時間を与えてくれる。ブッセくんは訴えるように言葉をつづけた。
「あるんです、作戦! 僕、外でアキナさんたちの話を聞いてたんですけど……あの化物を仕留められる場所があればいいんでしょ!? だったら僕、心当たりあります! 地元の人間だからこそ知っている場所が!」
「……おいブッセ。そいつはマジなんだな? このアキナ様の目を見て言えるな?」
「ま、まじ……? 都会の言葉はよくわかりませんけど、僕は嘘なんか言ってません!!」
「ヴァルナ」
「信じていいと思います」
意見を求めるようなアキナ班長の視線に、俺は即答した。
どの道もう時間がないし、現におびき寄せる餌となる毛皮はこの場にある。何より俺は、ブッセ君がこの状況に決定打を打つことを心のどこかで期待している。彼が村の為に頑張ったという証が任務記録に添えられ、村にも認められる瞬間が見たい。
俺が頷いたのを確認した班長は、恐らくは俺とは少し違う気持ちを持っているんだろうけれど、大きく頷いた。
「よっし、やるぞ! ブッセ、作戦を言え!」
――数分後、オークが業を煮やして暴れながら立ち上がる頃には、ヴァルナ達の作戦会議と役割分担は完全に終了していた。オークが立ち上がれたのも、騎士団が少しずつ前線を離れて作戦の伝達をしていたのが原因なのだが、オークの知能ではそこまでは知り得ないだろう。
「ブッセ君、少々揺れるけどエスコート頼むよ?」
「大丈夫です。目的地は僕にとっては散歩道ですから」
少しぎこちなく微笑むブッセ君に「もっと自信持っていいよ」と励ましながら、俺はブッセ君を背負う手を調整した。現在俺はブッセ君を背負っている。そしてブッセ君の背中には紐で例の毛皮が括りつけられており、中ほどから折りたたまれた毛皮の手足がぶらぶらと宙を泳いでいる。
ほかの騎士団の面々はいつでも移動できるように構えつつも遮蔽物に隠れ、今の村の中にはオークと俺たち二人しかいないかのような異様な光景が広がっている。白い毛をあちこち赤く染めても尚衰えを感じさせない殺気にブッセ君が少し震えるが、俺がブッセ君を背負う限り、あの獣には指一本触れさせる気はない。
「ブギュゥアアアア……グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
狙い通り、オークは白亜の巨体を揺らしてまっすぐヴァルナ達の方へ突っ込んできた。五メートルの巨体が全速力で迫ってくる迫力は想像を絶する威圧感があるが、あいにくと俺はその程度で怯むほど可愛げのある男になった覚えはない。
「よし、そうだ……俺たちを狙って、追いかけてこい!!」
オークにとって最大の邪魔者であろう俺と、憎しみを抱かせる白い熊の毛皮の臭い。その両方が揃ったことによってオークの視界は完全に絞られる。それを確認した俺は、ブッセ君を抱えたまま村の外に向けて疾走した。
「――よし、白い豚は行ったな。野郎ども、行動開始だッ!!」
「女もいますけど?」
「女が率いて男が着いてくるんだから良いんだよ!」
オークの通過を確認した残りの騎士団たちも動き出す。
この作戦は、全員で協力して初めて結果を得られるものだから。
◇ ◆
俺にとっては来たことのない、見覚えのない木々の合間。
しかしブッセ君にとっては目を瞑っていても通り抜けられる見慣れた道だ。
すぐさま背負ったブッセ君が指示を飛ばす。
「次の太い木を左に曲がったら足場の平らな道があります!」
「了解! オークの位置は!?」
「木々を伝っておさるさんみたいに追いかけてきてます! ちょっとずつ距離が縮まってる気がするんですけど……」
「ならギアを上げていくぞ!! 舌噛まないように気ぃつけろよッ!!」
裏伝八の型、踊鳳。もはや今日一日で一生分は使ったのではないかという踏込みと共に更に加速する。ブッセ君は俺の背中に捕まって加速に耐えているようだが、移動中に何度かやってしまった失敗の歩方をやれば彼への負担は一気に増すだろう。故に細心の注意を払わなけれなならない。
今回の作戦は、ただ目的地に着けばそれでいいというものではない。
誘導にも細心の注意を払う必要がある。
だが、成功すれば一度で確実にオークの息の根を止めることができるのも確かだ。これで奴を倒すことができれば、それでイスバーグ村の問題は解決だ。
「……ヴァルナさん」
「どうした?!」
不意に耳元にブッセ君の声が聞こえ、俺は聞き返す。
それは背後で起きた異常の報告にしては余りにも弱々しい声だった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「……騎士として当然さ!」
「僕みたいな子供を、ちゃんと信じてくれてありがとうございます」
「……急にどうした?」
「村の人たちは………騎士団の皆さんと違って、僕の言うことには耳を貸してくれなかったから」
村長の家の中で何かあった――それを察することは出来た。
皮肉な話だ。たった数日の濃い付き合いをした俺たちはブッセ君を信じられて、何年も前から顔見知りのはずの村人はブッセ君のことなどまるで信頼も信用もしていなかったようだ。それが現実で、たぶんアキナ班長はそのことを勘付いていたからこそ彼を村の外に出したかったのだろう。
「……生きてりゃそんなこともある。俺にだってな。若いと特に、年寄りに言わせれば言葉に重みがないから信用できないらしい。でも、それでもだ」
「それでも?」
「俺や班長は君を信じた。信じられると思えたからそうしたんだ。だから君は他人から信じられないような人間ではない。それだけは、何があっても自信を持っていい」
ぽすん、と。ほんの数秒だけ、ブッセ君の顔が俺の背中に埋まった。
「……ありがとう、ございます。……あ、進路を左に! ここから少し岩場があって道が分かりにくいですけど、山を右に見据える方向に行けば抜けられます!」
「了解!!」
もう村から出てそれなりに時間が経った。そろそろ目的地が見えてくる筈だ。
そう、お膳立てされた目的地が――と思考した刹那、目的地方向に狼煙が上がっているのを確認した。緑色に着色された煙。それが騎士団内において意味するものは、一つ。
「ワザと目的地から遠回りして時間を稼いだ甲斐があったな!どうやら班長たちの『罠』は準備万端らしい!!」
「先回りしてもっと確実に罠に嵌めるって聞いたときは本当に大丈夫かドキドキしちゃいましたけど……流石はアキナさん。慣れない場所での慣れない作業でも、きっとあの人ならやり遂げてくれてます!」
愚かなオークよ。獲物を追い詰めているつもりなのかも知れないが、それが全く以て勘違いだということを否応なしに思い知らせてやる。
王立外来危険種対策騎士団は、常に「狩る側の存在」。
たとえ相手が何匹いようがどれほど頑強だろうが関係ない。
それが俺たちの王国に侵入して悪事を働いた時点で――お前たち魔物は、例外なく獲物なのだ。
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