第39話 幼く可愛い金魚の糞



 廊下に出ると賑やかだった美術室にいたのが嘘みたいに静かで寒い。一歩踏み出す度にヒタヒタと足音が聞こえてきそうな寂しい廊下。

 すっかり陽は傾いて空が燃えるような赤に染まっていた。陽の光は窓からも差し込み廊下のずっと先まで照らしている。

 校舎の外を目指して歩いていると背後から駆けてくる足音が聞こえた。


「瀬戸さん、ちょっと待ちなさい」


 金森さんだ。追い付いてきた金森さんがそのまま私の手を掴んで引きずり、美術室から少し離れた空き教室に連れ込まれた。壁際に押しやられ、行く手を阻むかのように金森さんの両腕が私の体の両側をついた。いつも私には威嚇するような視線を向けてくる彼女なのだけれど、今回はいつも以上に鋭い相貌。


「あなた、まさかとは思うけど、広幡さんにツバサくんの話とかしたりしてないわよね?」

「ど、どうして? 話してないです、けど……それって、どういう」

「一緒にいてわからないの? どうしてツバサくんはあなたを傍に置いておくのかしら。……とにかく広幡さん、いえそれ以外の人たちと話すときもツバサくんの話題は出さないことよ。ツバサくんはそうしてほしいの。ガラス細工みたいに繊細でちょっとした刺激ですぐに粉々になってしまうんだから。そっとしておいてあげて。いい?」

「あの……」

「口答えするな。絶対、絶対よ。ツバサくんを傷つけたら私、あなたを許さないから」


 なぜこんなにも私は怒られているの。

 金森さんのあまりの迫力に気圧され返事をすることもままならず、コクコクと首を上下に振るので精一杯だった。最後に眼球を貫かんばかりの鋭い視線で睨むと、金森さんは私を解放して教室を出ていった。パタパタと駆けていく足音を聞きながら、力の抜けた私の体はずるずると床に崩れ落ちた。


 もう……、なに? なんだったの? どうしてあんなに怒ってるの。ツバサさんの話しちゃだめってどうして? 理由くらい教えてくれてもいいじゃない。


 少しは金森さんと仲良くなれたと思ったけれどそれは気のせいで、彼女の頭の中は相変わらずツバサさんだらけで、そして私は変わらず嫌われているみたい。

 そんなに脅さなくても、ツバサさんのことを話せるような友だちいないよ。

 ツバサさんと一緒にいると話せるようになった気になる。実際クラスメイトに話しかけられれば応えることができる。けれどまだ自分から話題を振ることはできない。緩やかなスピードで成長している自分に少しだけ自信を持ってはいたけれど、現状を再確認させられたようで落胆した。


 たくさん話せるようになるといいな。

 立ちはだかる壁は一枚じゃない。けれど壁を突破した先に金森さんや沙代さんみたいな友達が待っているなら、話しかけるよう努力しなければ。

 ふと白崎先生に貰った紙袋に目を落とす。その中には小さな化粧箱、私でも知ってる高級ブランドのチョコレートが入っていた。

 大人ってすごい。こんなの買えちゃうんだもん。

 大きさからしてたくさんは入ってなさそうだけれどツバサさんが喜びそう。明日、風紀室で一緒に食べよう。喜ぶツバサさんの顔を想像したら少し元気が出た。


    * * *


 今日も風紀室には二人きり。石油ストーブの排気管から煤が舞い、暖をとっていた私の手を汚していた。この古臭い石油ストーブ、そろそろ寿命なんじゃないかな。

 昨日のことは訊けないでいる。さりげなく私の手を握ったときのことを。

 しれっと距離をとって、避ける素振りさえ見せたくせに、なんの前触れもなく突然手を握るなんて。ツバサさんの気持ちが知りたいのに、一緒に過ごす時間が一日、また一日と増えるたびに訊けなくなる。些細な言葉が二人の関係に亀裂を入れてしまいそうで、今の関係が粉々に砕けて失くなりそうで。それがひどく恐ろしい。

 石油ストーブの前を陣取る私をよそに、ツバサさんはテンション高めに会議用の長机の前ではしゃいでいた。


「わー、チョコレート! 白崎先生太っ腹だね」


 白崎先生がくれた高級なチョコレート。有名なブランドチョコレート、学生の私には手が届かない。まるで宝石箱のようにキラキラと輝いていているチョコレートを机に置いて、しばらく触れずに鑑賞している。

 たった四粒の宝石だけれど、見ただけで胃袋を満足させられるほどの魅力が伝わってくる。

 今までのツバサさんだったらここで「ミノリさん、あーん」と言ってチョコレートを食べさせてくるのだけれど、今日はそれはなさそうだ。なんだか焦らされて玩ばれているようで納得がいかない。

 してくれないのなら、こちらから。

 意を決して石油ストーブの前を離れた。


「ツバサさん」


 あーん、なんて口では言えないけれど、一粒の宝石をつまんでツバサさんの口元へ運んでみた。

 さあ、食いつくんだツバサさん。指ごと食べられたっていい。なんならその延長線上で舐められたっていいよ。私からするなんて大サービスだよ。

 ツバサさんは寄り目がちに宝石をみつめた後、他の宝石に目を奪われて離れていった。


「僕、こっちがいいな」

「そ、そうですか……」


 なんだろう、このとてつもない心のダメージは。

 茫然自失状態で行き場を失ったチョコレートを自分の口に放り込んだ。味がしない。さっきまで宝石みたいにキラキラと輝いていたチョコレートが、泥団子に見える。


「ツバサさんて本当に甘いものが好きですよね。コーヒーはブラックが好きなのに」

「甘味は幸せの味だからね。昔から姉がよく手作りのお菓子作ってくれたから」

「お姉さんがいるんですか? 全然知らなかったです」


 何の気なしに聞き返したのだけれど、ツバサさんの表情が無機質な陶人形のように冷たくなっていたので驚いた。背筋が凍るかのような恐ろしい冷たさ。


「ツ、ツバサさん? どうしたんですか?」

「……なんでもないよ。ただちょっと、チョコレートが苦くて」


 人形の顔を隠すかのように窓の方へ視線を移すツバサさん。遠い記憶を辿っているのか窓の向こう側を眺めたまま、話すことを戸惑うかのように唇を震わせた。


「僕、姉がすごく好きなんだ。昔からお姉ちゃんこで、金魚の糞みたいにべったりくっついていたんだよ」


 いつになく心に響くハスキーボイスが、これは彼女が心の内に大事にしまっておいた思い出なのだと教えてくれる。


「喧嘩とかもしたことなかったんだ。お菓子作るのは母より上手で、美味しいって言うと顔をしわくちゃにして笑うんだ。また作ってあげるって。その顔が好きで…………だから甘いものを食べると幸せな気持ちになるんだよ」

「お姉さんが大好きなんですね」


 その問いに振り返ったツバサさんは満面の笑みを浮かべ「うん」と頷いた。

 さきほどの冷たい表情、あれは見間違いだったのだろうか。まもなく春を迎えようとしているのに、古臭い石油ストーブが懸命に暖めてくれた教室の中なのに。窓や壁の隅から霜が張りピキピキと音を立てて凍りついていくような、そんな空気だった。

 けれど今のツバサさんを取り巻くのは子供のようなあどけなさ。

 ああ、これだけ一緒にいても、まだ私の知らないツバサさんがいるんだ。だから彼女の気持ちがわからない。


 お姉さんのことを語るツバサさんは私のことなんて忘れて楽しそうに話していた。夢中で話すツバサさんに触れるほど傍に行こうとしたけれど、近づいた瞬間に彼女は蝶のようにひらりと躱して離れていった。ここまでくると避けられていることは明らか。

 この日は当たり前のように何事もなく終わっていった。昨日触れた手の感触はまだ鮮明に思い出せる。

 その後も過ぎていく何事も起こらない日常に、寂しさがどんどん膨れ上がった。今日もまだ手の感触は思い出せる。今日も大丈夫。今日も——

 もう以前のように触れてくることはなく、好意を押し付けてくることもなくなった。まるで同じ空間にいるのに別の世界にいるような。

 そんな寂しい冬が終わる頃、最大のミステリーが私に襲いかかってきた。けれど私はこのときすでに、迫りくる最大のミステリーを予感していたような気がする。


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