第32話 エロティカとセンチメンタル



 放課後の中庭で、クラスメイトの女の子に会ってきたとノリトさんが言った。机の上に置かれた花は推測した通りで、直接言えない気持ちの代わりに花言葉を利用したのだそう。遠回しな行為でアピールしていたのに直接告白しようと思ったのは、男子が花言葉に気づくはずがないと悟ったから。それでも臆病な彼女はあの手紙を書いた。暗号にした時間と場所。もしノリトさんが呼び出し通りに現れたら告白し、来なかったら諦める。そういう願掛けをしていたみたい。

 手紙の答えはというと、


『全部ひらがなにしてみろ。時は不要って書いてあるだろう? だから〈と〉と〈き〉を省けばいいんだよ。〈足と滝〉、〈箒と籠〉、〈中と庭〉だから、〈あした〉、〈ほうかご〉、〈なかにわ〉になる』


 と先生が言っていた。答えを聞いてしまえば案外単純なものなんだなぁ思った。


「返事は?」

「保留」

「もったいない。可愛い子なのに」

「今はまだ考えれないかな」

「ふーん」


 放課後の風紀室。古臭い石油ストーブがしゅうしゅう唸る音と、その上に乗ったヤカンがカタカタ震える音をBGMに、二人が背を向けて話している。ツバサさんは事務机の椅子に、ノリトさんはパイプ椅子にそれぞれ座って。

 今日はなんだか空気が違う。静謐で贅沢なこの場所が、角の取れた柔らかい場所になっている。氷の城に春が訪れた、そんな感じ。

 二人を見ているとセンチメンタルな気分になる。幼い頃から時間を共にしてきた二人が恋とか青春とか、そんな話をしているところは、私の知らない世界を知る大人の人みたいで、そこだけ豪奢な額縁に縁取られたエロティカな絵画のよう。

 夜の街をふらりふらりと彷徨って、本能のままに快楽を求めていた私なんかとは違う。全くの別世界の人だ。あれだけ近くにいたツバサさんが遠い人のよう。


「俺、部活戻るわ。遅れて行くっていっちゃったし」

「お疲れ様。僕はミノリさんともう少しここでゆっくりしていくよ」

「そっか。ミノリちゃん、ありがとうね」

「い、いえ。私は、別に……」


 そう言って立ち上がったノリトさんは、私の頭をぽんぽんした。


「ノリト!」


 ツバサさんのハスキーボイスが割れるようにビリビリと響いた。驚いて彼女を見ると、椅子から立ち上がり険しい表情でノリトさんを睨んでいる。今日のツバサさんはよく怒る。


「ああ、ごめん。そんな怖い顔すんなよ。じゃあお疲れさん」


 怖い顔をしたツバサさんを軽く遇らうノリトさん。さすが幼馴染というか、焦りの表情一つ浮かべず立ち去ろうとする。と、ノリトさんが少しかがんで耳元で囁いた。


「これからもツバサの傍にいてやってよ」

「……? そのつもりです」


 そう答えると、ノリトさんは微笑を残して風紀室を出て行った。穢れのない爽やかさと……これは石鹸の匂いだ。幼馴染でもこんなに違うんだ。

 ドアが閉まり、風紀室に再び静謐な空気が戻ると、ツバサさんは空気が抜けた風船のように萎んで床にへたりこんだ。

 ああ、ツバサさん。制服汚れちゃいますよ。

 駆け寄ってしゃがみ、ツバサさんの顔を覗き込む。


「ツバサさん? 大丈夫ですか?」

「ごめんね。今日の僕、なんか変だ」

「もともと変じゃないですか。気にしてないですよ」

「それはそれで納得いかないよ」

「そうですか? 私はツバサさんの変なところをもっと見たいです。ツバサさんは綺麗で、大人みたいに冷静で余裕のある感じが素敵です。けど、最近のツバサさんは素直というか、いろんな感情が顔を出していて嬉しいんです。出会ったときよりずっと親しくなったように思えます。心を許してくれたように感じます。女の子同士の恋愛は置いといて、ツバサさんともっと仲良くなりたいと思います。これじゃあまだ納得できないですか?」

「……ううん。十分すぎるよ」


 今、何を思っているのだろう。ツバサさんの浮かべた笑みは歪んでいた。

 へたりこんだままのツバサさんに手を差し伸べたのだけれど、その手は掴まれることなく誤魔化されてしまった。

 この日はもう風紀室に長居することはなく学校を出た。雪の降りそうな分厚い雲の下、並んで歩く私たちの間には一人分の空白がぽっかりと空いていた。そこを冷たい風が通り抜け、体温を奪っていく。


 なんだろう、この空気。いっそのこと雪でも降って私の姿を隠してはくれないだろうか。

 私は独りぼっちだったときのことを思い出し、家に帰るまでずっとセンチメンタルな自分をずるずると引き摺った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます