第13話 いろんな世界



 冷たい廊下を歩いてきてからストーブで暖まった風紀室へ一歩踏み込むと無条件でほっとする。けれどそれも束の間、窓辺の事務机で読書をしていたらしいツバサさんが振り返って目が合った。


「いらっしゃい」


 ドクンと胸が大きく鼓動を打った。ツバサさんの視線に射抜かれて目が離せない。少しだけ開いた窓から冬の風が入り込み、ピリッとする匂いを運んできた。もう嗅ぎ慣れたはずの軽薄で危険な匂いに痺れたのか体まで動かない。このまま動けなかったらメデューサに睨まれた人と同じように石化してしまいそう。悪魔みたいなツバサさんだもん、石化とか本当にできちゃいそう。


「ミノリさん、大丈夫?」


 再び聞こえた彼女のハスキーボイスに、はっと魔法が解けたように体が動いた。


「大丈夫です」


 ツバサさんからの視線を受けたまま、いつものパイプ椅子に座った。するとツバサさんが立ち上がり、私の背後に回る。例の巨大な書棚の引き戸がすすす――っと開く音、そして再びすすす――っと閉じる音。またお菓子の山でも出てくるのだろうか。ツバサさんの足音をかき消すかのように、石油ストーブの上に置かれたヤカンの蓋がカタカタと揺れる。


『好き』


 突然昨日のツバサさんの声が蘇った。もし今背後から抱きしめられたりなんかしたらどうしよう。余計なことを想像して自ら生み出した緊張に押しつぶされてしまいそう。

 身を縮こませ目を固く閉じて構えた。ツバサさんの気配が近づき、それは私を捕らえることなくすぐ横を掠めていった。目を開けると机の上に苺の乗ったケーキが置いてあった。思わず首を傾げる。


「昨日驚かせちゃったお詫び、甘くないケーキ」


 私の好きな甘くないケーキ。「僕は甘いケーキ」と、ツバサさんがもう一つのケーキを手に持っている。


「隣に座ってもいい? 一緒に食べよう?」


 ケーキを見つめたままコクンと頷くと、ツバサさんは隣のパイプ椅子を引いて座った。

 並んで座るのは久しぶり。二人の間には一席分の空間がある。それが近いようで遠いようでなんだかむずむずと落ち着かない。


「あ、そうだ」


 突然立ち上がったツバサさんに驚いて肩がぴくんと震う。


「コーヒー淹れるね。ケーキにはコーヒーがなきゃ」


 書棚から出したコーヒーカップ二つを手に持って、ストーブの上にあるヤカンからお湯を注ぐツバサさん。昨日は書棚からコーヒーが淹れられた状態で登場した。

 今日は普通に作るんだ、と少し残念。魔法みたいでわくわくしたのに。


「ミノリさんのは甘いコーヒーね」


 私の好みを知り尽くしたツバサさんがミルクと砂糖を入れてくれた。


「ツバサさんのは?」

「大人なコーヒー」

「……私たち、好みが正反対なんですね」

「そうだね。ケーキはミノリさんが甘くないケーキで、僕が甘いケーキが好きだし」


 そう言ってツバサさんは上品にケーキを口に運んだ。コーヒーカップを持つ仕草も、まるでお金持ちのお嬢様のように気品を感じる。綺麗な悪魔だ。

 風紀室にいると訪れる静かな時間。会話がなく、木枯らしが窓を叩く音や、古臭い石油ストーブの上に置かれたヤカンがカタカタ揺れる音、食器が触れる音だけが聞こえる。この静謐な空間を居心地がいいと思うようになったのはいつからだろう。

 ツバサさんをちらりと横目に見たけれど、相変わらずその表情からは何を考えているのか窺えない。


 女の子でストーカーみたいだけれど、自分の好みを知ってくれている人の存在は嫌じゃない。

 好きな人のことを知りたいと思うのはみんな一緒。それが女の子同士ってだけで、ツバサさんは私と同じ女の子。私が中学のときに初めて恋したときと同じ気持ち、なのかな。ううん、きっとそう。

 いつも冷静で大人の余裕を感じさせるツバサさんだけれど、中身は私と同じ。そう思うと彼女の気持ちを受け入れられるような気がした。

 静謐な空間にいるといろいろなことを考えさせられる。私も、ツバサさんのことが知りたい。


「ツバサ、さん……」

「なあに?」

「私のこと……好き、ですか?」

「うん、好きだよ」

「だから、その……私にあんなことしたんですよね?」

「あんなことって?」

「キス、です……」

「うん、そうだよ」


 あまりにもあっさりと返される答えに動揺する。本当に? と疑いたくもなる。何か、もっと、確証がほしい。


「でも……、改めて好きって言われるまで、わからなかったです。何か、もっと……」


 何か、もっとってなんだ。まるでそれ以上のことをしてほしいみたいじゃない。これでは誤解されてしまう。もっと違った言い方をしなければ。


「ああ、そっか」


 ツバサさんが微かに口角を吊り上げて笑った。嫌な予感がする。


「ミノリさんはしてほしかったんだね」

「え……」

「あのとき驚かせちゃったみたいだったから、好きな子だし大事にしようって思ったんだけど。そうだよね、夜のバイトなんて大胆なことするミノリさんだもん。物足りないよね」

「え、あの、違っ――」


 否定するよりも先にツバサさんが動いた。


「この前は食べ屑を食べただけで、キスしたわけじゃないもんね。ちゃんとしてあげようか。じゃないとミノリさんはわからないんだよね」


 ツバサさんは長机に片手をついて立ち上がった。そのまま上体をぐっと近づけて影を落とす。彼女の長い髪がはらはらとこぼれて、私の頬を掠めた。くすぐったい、なんて思うまもなく、悪魔的な笑みを浮かべたツバサさんの顔が目と鼻の先にきた。


 今、息を吐けばツバサさんに届く。

 今、息を吸えばピリッとした匂いがする。


 めいっぱい身を退けるけれど、上から覆い被さるように攻めてくるツバサさんから逃れるにはちょっと難しい。パイプ椅子がカタリと傾き、バランスを崩しそうになる。

 あ、こんなこと前にもあったな、なんて思った矢先に、ツバサさんが倒れかけたパイプ椅子を掴んだ。床に近づいていた私の体はピタリと止まった。石油ストーブしゅうしゅうと唸り、張り切っているせいか身体が熱い。心なしか動悸もする。

 ツバサさんって華奢な体のどこにこんな力を隠しているんだろう。前もそうだったけど椅子ごと人を支えるなんて、男子にも難しそうなことなのに凄いなぁ。

 脳内は妙に冷静でツバサさんに感心している。そんな場合ではないのに、人間って混乱するとおかしなことを考えるんだなぁ。


「ミノリさん、生きてる?」


 その言葉にはっとした。息するの忘れてた。このまま意識を飛ばすところだった。


「生きてます! 息してます!」

「そ、よかった。じゃあ」


 と言って顔を近づけるツバサさん。私の心を代弁したかのように、石油ストーブの上のヤカンがけたたましく雄叫びを上げた。


「なんてね」


 唇が触れ合うすんでのところでツバサさんは悪魔的に笑った。


「好きな子は大事にする質だから」


 そう言ってツバサさんは傾いた私とパイプ椅子を元に戻して離れていった。その姿を呆然とみつめる私の頭は、二日連続でショートしていた。


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