第2話 人間だった

 私の初恋は中学入学してすぐに始まった。片思いは三年続き、叶ったのは中学卒業間近。両思いだった。

 手を繋ぎ、唇を重ね、恋人がやることは大抵やった。けれど別れは意外と早くて二ヶ月経った頃。別れの理由は、二人で過ごす時間が徐々に理想を削いで現実を剥き出しにし、お互いがお互いに失望したから。


 気持ちは案外サッパリしていた。ねちっこい未練はどこにもない。……というのは嘘で二人が一つになった夜のことだけは忘れられなかった。どんな言葉で言い表しても生々しくイヤラシイその幸せのことを口に出すことはできないけれど、もう一度味わいたくて昨夜のように何度も何度も夜の街へ繰り出していた。

 まさか同じ学校の人にみつかるなんて。

 学校への道のりはひどく憂鬱だった。昨夜の失態による羞恥と不安。これからどうなってしまうのだろうと様々なことを考えて、どうしてこんなことになったのかと記憶を遡っていたら初恋まで辿り着いてしまった。


「今日も寒いねー」

「うん、手が凍っちゃうよう」


 前を歩く同じ学校の女子生徒が二人。肩がぶつかるほど近い距離で並び、垣間見える表情からこの上ない幸せを感じた。


「手貸して」

「なになに? うわっ、手冷たい。やめてよー」

「いいじゃん、いいじゃん。手繋いでた方があったかいもん」


 百合……。

 最近覚えた言葉。女性が女性と好き合うこと。……理解し難い世界だった。否定はしないけれど理解できない。

 女同士じゃ甘い快楽は味わえないんだろうなぁ、と嫌味な私。こんなことを思ってしまうのはきっと不安がいっぱいで心に余裕がないからだ。

 忙しなく回転する脳内とは裏腹に、口数は少なく歩く速さはカメのよう。マイペースだねなんてよく言われる。本当は臆病だから人との関わりを避けて口数が少ないだけ。目立たないように派手な動きをしないだけ。私は臆病で小心者。


 スカートの中に入り込む冷気が体を芯から冷やしていく。悴む手をカーディガンの中に避難させて、風を感じないようにちまちまと歩いていたけれど、考え事をしていたせいか気がつけば校門まで来てしまっていた。

 暖かい教室にありつける嬉しさ一割、不安と恐怖が九割。


 校門から校舎まで二〇〇メートルほどのゆるい上り坂。その坂は校庭の横を通る道で、そこには複数名の生徒がズラリと並んでいた。あいさつ運動だ。寒いのにご苦労なこと。男子はまだズボンだからマシなのかもしれないけれど、女子はスカートだから素足が晒されてしまってる。私は寒空の下でずっと立っているなんて無理だなぁ。

 風紀委員の人たちはどれだけの間この場所に立っているのだろう。登校してきた生徒一人一人に「おはようございます」と声をかける風紀委員たちの姿に同情の念を抱いた。

 風紀委員たち……そうだ、昨夜の彼女!

 一瞬で昨夜のことを思い出してしまった。昨夜会った彼女は風紀室に来てと言ったいた。だとしたら彼女は風紀委員なのかもしれない。

 ここに並んでいる風紀委員の中に彼女の姿がなかったら昨夜のことは全て幻覚として片付けよう。もし彼女がいたら…………土下座して謝ろう。


 向かって左側に並んでいる風紀委員。男女混合で思ったより人数が多い。手は冷たいのに緊張で汗が滲む。横目に風紀委員一人一人を確認しながら進んでいく。挨拶を返すことも忘れて慎重に。

 彼女は髪が長くて綺麗な顔。この人は髪短いし、この人は男子だし、この人も違う、違う、この人も違う……。

 最後の一人の前を無事に通過し、昨夜の彼女がいないことを確信した。やっぱりあれは臆病な私が無意識につくりだした幻覚だったんだ。そもそもあんな時間、しかもあんな場所に女子高生がいるなんておかしいし(私のことは置いといて)。

 でも、だとしたら、どうして幻覚なんて見たのだろう。

 こういうときって何故か怖い想像ばかりしてしまう。昨夜も脳裏をちらついた、もしかして彼女は風紀室に出るという噂の幽霊だったりして——


「ダメだよう? ちゃんと挨拶しなきゃ。おはよう、瀬戸ミノリさん」


 聞き覚えのあるハスキーボイス。


「お、おはっ、ようござ……います」


 驚きが混じった素っ頓狂な挨拶の後、ごくりと息を呑んで立ち止まった。行く先を遮るかのように正面に現れたのは昨夜の彼女だった。咄嗟に足元を確認したけれど、しっかりと地に足がついた人間のよう。幽霊じゃなくて安心はしたものの、昨夜のことが現実だったことが確定してしまった。


 彼女は夜の私が犯した禁忌を知っている。私の弱みを握っている強者を前に怯えつつ、はたと不思議なことに気づいた。

 そういえばこの人、どうして私の名前を知っているんだろう、と。

 昨夜会ったときも彼女は私の名前を呼んでいた。

 私と同じ制服を着た彼女は、昨夜と同じように長い髪をさらりと風に靡かせた。陽の下で見るとより綺麗な顔が際立つ。筋の通った形の良い高い鼻、伏し目がちで切れ長の目と長い睫毛、雪のように白い肌。背も高く、こんなに羨ましく思う女子生徒を私は知らない。


 僅かな時間みつめ合った後、彼女はぐっと近づいてきた。気圧されそうになったけれどなんとか踏み留まり息を呑む。彼女はふっと微笑を浮べたかと思うと、小走りで風紀委員の列に戻っていった。

 すれ違いざま、彼女は耳元で囁いた。


「昼休み、風紀室だよ」


 まるで誘惑されたかのように身体が熱を持って疼いた。それはきっと彼女から軽薄で危険な男性を思わせるピリッとした匂いがしたから。

 振り返ると、すでに風紀委員の列に加わった彼女は何事もなかったかのように挨拶をしていた。

 昼休み、風紀室。私はそこでどんな罰を受けるのだろう。弱みを握られた私は彼女に逆らえない。行くしかない。

 それから昼休みまでの間はずっと頭の中でどうしよう、どうしよう、と焦り、罪の意識でぐるぐると眩暈を感じていた。

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